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Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

ウパーディヤーヤ

アレックスもカンボジアで話題にしていたオショーことラジニーシのすこし長いシリーズもの.

出てくる登場人物のキャラの濃さ.

若者の能力というのが,まったく無限なのには驚かされます.

むかう方向が誤っただけとでもいうべきなのでしょうか.

破壊力という点で,やはり,若者の勢いというのには止められないものがあります.

需要と供給.

その時代時代の人々(若者)の求めるものに応じて,それに答える「聖者」というものが出てくるのは,きっと必然なのでしょう.

人々の要請にこたえる宗教者が,そこに,ビジネスチャンスを見出すのも,或る意味,当然でしょう.

聖者ビジネス.

ニッチと片付けるにはあまりにも大規模です.

時代や宗教や集団というものを考える時のひとつの材料として学ぶところの多いプログラムでした.

集団を容赦なくマネジメントする能力ある人というのは,慈悲も共感もないサイコパスという場合も,ひょっとすると,多いのかもしれません.

古の仏教僧団にも,権謀術数,出世欲に満ち満ちて他を追い落とす強烈キャラは,きっと,いたのでしょう.(日本では,昔も今も,よく見聞しますが.)

雑密のような欲望に満ち満ちた儀礼を各種用意できるくらいですから.

三毒にまみれてしまうのは,人間集団のある種の定めでしょうか.

単色の袈裟の背後に広がるカラフルな世界というのは,きっと,そういうものでしょう.

そういう目で文献を見直すと,楽しい世界が広がっています.

ヴィナヤには当然ヴィネーヤが存在するわけで,ヴィネーヤというのは,いまだヴィニータされてない人ということですから,道から外れているはずですから.

説法するにも欲は必要だろ,と喝破したのはクマーリラですが,そのような視点で見直すと,ラジニーシの説法は,何に基づいているのでしょうか.

ジャイミニは,それをhetudar"sanaac caと喝破しています.

老婆心ならぬlobha心.

日本にも,ラジニーシと似たモデルをとる団体は見られます.

修行方法,出版,などなど.

教義だけは,これほど自由なものは,日本ではあまり見られませんが.

ここは,やはり,個人主義というものの根付き具合の違いでしょうか.

「資料を通じた,我々自身も含めた人間のあり様を捉え直す自覚的な作業」などという高尚な言い方でいえば,そうやって見えてきた己自身の姿というのは,案外,三毒まみれなのかもしれません.

皮肉なことに,案外,見なかった方が幸せということもあるかもしれません.

安宿のシャワー室や場末食堂の調理場みたいなものです.

相対主義の建前と,反社会的カルトへの対処.

紀元後900年頃のジャヤンタがかつてカシミールの宗教大臣として苦慮した宗教政策と同じ問題がここでも繰り返されています.

人類の絶えざる課題の一つなのでしょう.

なにやっても原則自由だからといって,本当に,なにやってもいいわけではない,ということです.

理念と現実の狭間.

非ヴェーダのシヴァ教・ヴィシュヌ教や,反ヴェーダの仏教・ジャイナ教までは許すが,反社会的なものは許さないというのがジャヤンタの結論です.

というか,彼が答えを出すまでもなく,社会というものは,反社会的集団を許さないというのは,当然の帰結です.

しかし,それを理念化しようとすると,実際には,かなりの困難を生じるということは,ジャヤンタが敢えて宗教騒動を戯曲化した動機でもあり,また,この番組でも明らかなことでした.

ジャヤンタの戯曲『聖典騒動』にも強烈キャラ(仏教僧の名はダルモッタラ!)があれこれと登場してましたが,してみると,このWild Wild Countryも,一種のドラマとして綺麗に成立していると見なしてもいいのでしょう.

作り物のような現実.

ジャヤンタの戯曲の登場人物も,実際には,実在モデルのほうがむしろもっと強烈だったのかもしれません.
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  1. 2019/05/23(木) 19:18:59|
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