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Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

ジャヤンタの弁才天



ジャヤンタのNM第7日課のアートマン章.

12プラメーヤからアートマンへと入る冒頭からジャヤンタの弁舌が冴えまくっています.

弁才天サラスヴァティーが流れ出るとはこのことでしょうか.

さらっとシュローカ,そして,「輪廻の苦からの解脱に役立つ」というような内容を長い長いコンパウンドで詩的に表現.

atigahana-sa.msaara-maarava-sthala-prabhava-bhiima-santaapa-nirvaapa.na-mahaahradataam

とても深い・輪廻・砂漠・地・生じる・恐ろしい・熱・冷ます・大池性

ずらずらと並べているだけですが,日本でも十分に意味が再構成できるほど,隠れた格関係は明瞭です.

最初と最後にhの喉音,途中からは口唇音が連続して,リズムを与えています.

そして,この後,実際の議論に入る前には,ちょこっと皮肉めいた表現で読者をくすっと笑わせます.

知的レベルと技術が違います.

何かの為に役立つ読書も結構ですが,ジャヤンタのNMの場合,読むことそれ自体が悦びです.

いわば音楽を聴くのと同じ愉悦です.

古典を読むという行為は,必ずしも何かの為だけにあるわけではない,ということは銘記しておくべきでしょう.

暇つぶしの穀潰しと言われれば,そうかもしれませんが,だとすると,そのような実利根性は,たいそう無粋なことです.

さいわい,この箇所のエディションは,アレックスが準備中.

ストレスフリーで読めます.

ストレスフリー,苦からの解放,すなわちプチ解脱です.

誤植と誤解に満ち満ちた,なべてのエディションで読むストレスほどいらいらすることはありません.

隣の部屋から,つまずきつまずきの練習ピアノが聞こえてきたらいらいらするのと同じです.

しかも,馬鹿の丸写しで,間違ったものをそのまま引いて,しかも,学界で確立したコンベンショナルな単語の区切り方もしらずに,サンスクリット文を適当に(新たな誤植も混ぜながら)ローマナイズして載せている「研究者」の御論文や御著書を読むとウルティーしかしません.

最近の日本の若手の論文は,サンスクリットのレベルもあがってきたせいか,そういうストレスが減ってきた気がします.

間違いは正す,それが研究者の矜持でしょう.

そして,ひとの間違いを正す能力を身に付けるには,(天才ならぬ多くの凡人にとっては)やはり,蛇の道でのそれ相応の訓練というものが必要となります.
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  1. 2019/08/31(土) 09:37:37|
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tsumikasane



毎日ちょこちょこ積み重ねる,というのは大事です.

東文研で助手をしていたときのこと.

わたしの部屋はエレベータを下りて右の奥.

いっぽう,上村先生は左の端.

上村先生,毎日ちゃんと定時に研究所に来られて,朝から欠かさず作業をされていました.

和訳作業.

それで,あんなに沢山の優れた和訳がちゃんとでているわけです.

でないと,無理です.

たぶん,一日の分量はちょっとずつでしょう.

大きな作品を和訳するとなると,一日にできる分量というのは最初から分かっています.

割り算すれば,どれくらいの日数あるいは年数かかるかも,わかるというものです.

毎日やっても数年かかるとなれば,気の遠くなるような話ですが,それを実践されていたのが上村先生.

ちょっとずつでも毎日すすめる.

なかなか実践できるものではありません.

大きな仕事という目に見える結果の違いは,毎日のそんなちょっとした違いを反映しています.

がむしゃらに働くという感じでもなく,ひょうひょうと作業を進めておられる感じでしたし,夜遅くまで残られるということもなかったですし,時間的にも常々ゆったりと過ごされていた感じがありましたが,膨大な量の仕事は,毎日のたゆまぬ積み重ねということなのでしょう.

言うは易し,行うは難し.

猿真似だけでもしたいものです.

研究者にもいろいろなタイプがありますが,一般読者に広く役立つような和訳を流麗な現代語で(サンスクリット原典からの直の訳で)提供できる人というのは,我々の分野ではごくごく限られています.

あるいは,ありていに言ってしまえば,才能の違いということなのかもしれません.

一隅を照らすどころか,先生の著作群は,かなりの領域を照らされた、そして、今後も照らし続ける、といって過言ではないでしょう.
  1. 2019/08/31(土) 07:15:37|
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siccaka mecaka



混乱した様を指して,しっちゃかめっちゃか,むちゃくちゃ,めちゃくちゃ,などと言います.

関係ないですが,サンスクリットでメーチャカmecakaは,混じりあった混雑とした色のことです.

音的に,やはり,mとchは出会いから混じって混乱したカオス感があるのでしょう.
  1. 2019/08/30(金) 19:00:09|
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研究コミュ

そこらへんをうろうろしている,というのは意外に重要です.

A博士主催の研究会で海外の研究所に来たとしましょう.

すると,その研究会とは全く関係のないB博士が給湯室でコーヒーを入れてるのに出くわしたりします.

当然,挨拶します.

すると,「つぎ,こんな研究会あるんだけど」で話が進むことがあります.

軽い気持ちでの情報交換から,次の研究会の情報に出遭ったりします.

それが案外,つぎなる国際共同研究へとつながったりします.

面と会って話すというのは,やはり,信頼関係の醸成には重要です.

外国人同士ですから,面と向かって話さないと,なかなか「一緒にやろう」ということにはなりません.

世界的に活躍されている松○先生からも,似たようなお話を伺ったことがあります.

研究コミュニティーも,人間同士の付き合いの延長線上にありますから,「国際的」であるためには,人と会う必要があります.

日本にいながらにして「国際的」である,ということは,我々の分野では実際上,現実的に不可能です.

日本に引きこもってローカルスカラーになるのが目標なら,それはそれで構いませんけど.
  1. 2019/08/30(金) 08:11:45|
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Nabi-san




生協で食べようと,いつものようにのこのこと出かけていくと,2時過ぎで,すでに学食が閉まっています.

夏休みスケジュール進行.

ランチ難民と化してしまいました.

そうなると,「日本最大級のキャンパス」という謳い文句が,逆に,呪いになってきます.

なかにはなにもありません.

キャンパスの外にでるのも遠い遠い.(すぐそこの正門でたら何かある本郷とは偉い違いです.)

歩いて歩いて坂下のナビさんへ.(東大でいえば,上野公園方向まで降りる感じ.)

幸い,「ナビさん」は開いてました.

砂漠に水,絶望に神,アッラーアクバル.

ちょうど年上コックが外にでるところ.

入れ違いで一瞬心配になりましたが,なかには,ナビさんと,最近はいった若いコックがいました.

マトンビリヤニ800円.

なかにはジャガイモが隠れています.



夏といっても,ちょこちょこと用事が入れられます.

なんとか入試の類.

秋入学によって機会が増えてよろしかろう,などということを言いだすと,入試業務が増えるということで,しかも昨今は,別室受験という「合理的配慮」も必要な世の中ですから,当然,駆り出される人員・要員もそれに沿って増えることになります.

不測の事態に備えて予備要員などという要員まであります.

こっちにも合理的配慮してくれ,と言いたいところですが,それを言い出すのはきっと不合理だと思われるのでしょう.

そういえば,むかし,「持病があるので,長時間の監督は無理です」などといって,監督業務をすべてポアする豪胆な爺ちゃん先生がいましたが,なるほど,合理的配慮を逆手に取ると,ああなるんですね.

同僚に迷惑がかかるので,わたしにはとてもできませんが.

業務は仕事なんだから当然だ,という声はあるでしょうが,その結果が,論文数の減少という国際的な意味での研究競争力の低下につながっているのは言うまでもないでしょう.(世界ランキング100位以内を目指すことを社是とされている我々にとっては研究も仕事です.)

人間の時間は限られていますから,片方が2時間増えれば,他方が2時間減る,というのは道理です.

授業のないせっかくの期間に,ちょこちょこと仕事をいれられる,これが一番こまります.(囲碁の名人のようにスケジュールの急所をついてきます.)

2週間以上海外となると,いろんな支障が出てきます.(なので,すっかり諦めました.心が折れた,といえばいいでしょう.)

そして,これが,一部の種類の研究にとって致命的であるのはいうまでもないでしょう.

文化人類学者にとっては言わずもがな.

インドなど,先も読めず,時間のかかる場所での長期の調査旅行など,現在の制度では土台無理というもの.

いかぬがまし.

遠い遠いセピア色の昔には,インドに行くなら4週間くらいは必ず行ってましたが,夢のまた夢.

西インドの図書館めぐりは,まだ行けてませんが,年も取ったし,業務はこんな状態だし,無理していく気もうせました.

年を取るということは,こういうことでしょうか.

やる気をくじかれたとでもいうのでしょうか.

熱いうちに行かしておいてくれればよかったものの,若ければ若いほど,業務を無視する厚かましさはありませんでしたから,無理というもの.

まあ,人間,いつの世もいろんな制約の中で,やれることをやるだけですから,こういう制約下でのゲームとでも思って,可能なことをやるだけです.

すでに作業をせねばならない写本も山とありますし.

家での作業だけで,すでに,何回うまれかわっても足りないほど写本はあります.

したがって,合理的配慮のできるオトナとしては,先の読めない調査旅行は終了.

今後いくなら弾丸的な一箇所集中方式とならざるをえません.

しかし,一箇所に集中すると,そこがだめだったときのダメージが大きすぎます.

リスク分散の原則に反します.

つまり,合理的に考えると,いかぬがまし.

インドで先が読めたら苦労しません.

町中停電で,図書館のコピー機も,その日は一日中つかえなかったりするのが普通だったりしますから.

そういうときはそういうときで,図書館のスタッフとゆっくり雑談でもするしかありません.
  1. 2019/08/30(金) 07:00:51|
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varsa



日頃は水量の少ない遊水地もいっぱいに.
  1. 2019/08/29(木) 19:16:47|
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ダルシャナにおける写本研究

勝利の方程式とでも言うのでしょうか.

必勝パターンができあがって,それが成功しているのを見ると,他でも真似するようになるものです.

人間社会の学習・伝播というのは,そういうものでしょう.

福岡だと,ツ○パハ・ヌ○ラエリアのスリ○ンカ料理のパターンは,その後,九州中に広がって,福岡でもスリラ○カ料理というと,あのスタイルで一色になっています.

東京でいう○リーのカ○ミールと同じで,ご飯を辛いルーで食べるのには最適ですから,はまったひとは一定期間たつとまた来たくなります.

一種の中毒ということでしょう.

癖になる味.

支持されるものは,模倣によって,どんどん広がっていきます.

福岡でも飽和気味にあるこのスタイルのス○ランカ料理ですが,いまだ,退潮傾向は見られませんから,やはり,みんな,ご飯を食べるのに最適だと思って通うのでしょう.

カシ○ールが各地に伝播するのと同じです.

結局,日本人ですから,おいしくご飯をいただける何らかのXが必要ということでしょう.

最近の福岡の居酒屋では,炉端焼スタイルが流行れば,新規オープンはやたら炉端.

倶利伽羅紋紋をデザインしたような鯉口シャツまで模倣.

人類,太古の昔から火を囲んでBBQするのが大好きですから,人間の本性にあっているのでしょう.

かつての写真雑誌フォー○スのあとに続いたフラ○デーと同じで,二番煎じというか,柳の下のドジョウというか,まあ,模倣は楽です.

外食産業では,どの分野でも,模倣はおなじみです.

のれん分け,あるいはこじれた喧嘩別れというのも,広義には,まあ,模倣の一種に数えてもいいでしょう.

長浜方面のラーメンに見られるように.

で,いいたいのは,インド哲学における写本研究.

残念ながら,T大学部・修士では,写本に触れる機会はほとんどありませんでした.

M1の春だったでしょうか,南インド旅行をしたときに,ケーララ大学のキャンパスに行ったことがありましたが,その時に,お土産気分で,ちょっとコピーしてもらったくらいです.

たしか,Niititattvaavirbhaavaの紙写本を複写してもらったように覚えています.

全然つかってませんが.

シャバラ註となると,パームリーフですから,本格的に撮影依頼ということになるのでしょうが,そこまで本気でもなかったし,依頼の仕方もよく分からなかったので,その時は入手しませんでした.

写本調査というのは,先達がいないと,やり方がよくわからないものです.

とくに,図書館をたずねてどうするのか,というのは,教えてもらわないとよく分かりません.

まわりの先輩や先生で,インド写本をしている人がいなかったので,結局,マスター時代は,本気で取り組むにはいたりませんでした.(全国を見渡すと,その当時の九大のダルシャナだけが例外で,ミーマーンサーでは,針貝先生と大前さんが写本を扱っていました.)

というわけで,修士論文は,テクストは,既刊本のみを参照.

写本は使っていません.

写本というのは,最初のハードルが高いものです.

というわけで,教育的にいうならば,やはり,最初の呼び水で,教師が最初は与えるというのが一番楽な方法です.

残念ながら,T大の印哲にはその環境はありませんでした.

わたしが写本を本格的に収集し出したのは,インドでドミニクに会ってからです.

そもそも,サンスクリット文献の中でも「哲学したい」というのがインド哲学・ダルシャナを選ぶ人の動機でしょうから,写本のような文献学っぽいことというのは,特に哲学志向のひとは忌避する傾向にあります.

東大の諸先輩方を見ても,ダルシャナとなると,写本をあつかっているひとというのは,その当時では思い当たりません.

ひとり例外が.

前田先生です.

しかし,前田先生の弟子筋(つまり私がよく見知っている先生・先輩世代)に,写本を扱っているひとがいないのはどういうわけでしょうか.

そこらへんの経緯はよく知りません.

哲学者然とした,当時の助手の谷澤さんも,言葉にして言ったかどうかまでは覚えていませんが,「写本とかやってもしょーがねーよ」という,てやんでいの江戸っ子ぶりの態度でした.

文法学の場合は,そもそも,テクストがちゃんとしてますから,それほどでもないでしょうから不便を感じなかったのかもしれません.

しかし,実際には,谷澤さんの主対象であるVPに見られるように,とくに,svav.rttiともなると,写本まで遡らないと問題おおありなのですが.

まあ,マハーバーシャあたりだと,古の学者がちゃんとやってくれていますから,とくに,不便を感じることはないでしょう.

シッダーンタカウムディーやカーシカーなども,ちゃんとしてるでしょうし.

偉大な先達のおかげです.

ほかにも,ダルシャナだと先輩方はいらっしゃいますが,みなさん,哲学にせよ文献学にせよ,写本まで踏み込まないというのが共通したスタイルでした.

一時代前の日本のインド哲学において,写本研究の側面は,無視されてきました.

これは,単に,時代的制約・場所的制約・環境というべきか,とくにアクセスの問題がおおきいでしょう.

海外にいれば,そこの図書館にあったりしますから,とっかかりができます.

ペン大も,図書館に写本コレクションがあります.

わたしも,シャバラの写本の現物をペン大で見たことがあります.

オックスフォードにいたっては,ものすごいコレクションで,いまだ増え続けています.

ひとつ写本を入手すれば,そのあとは,いもづる式にあちこちにとりに行きたくなるものです.

それが,日本の場合は,最初の一歩がないものですから,どうしても,とっかかりの部分で気づきがありません.

そして,知らないとなると,凝り固まってしまうのが人間.

「そんなもん,みてもしゃーねーよ」と居直ってしまうのが普通でしょう.

しかし,写本と比べてみて,舞台裏を見ると,インドのいい加減なテクスト校訂の実情に,砂上の楼閣ぶりを実感することになります.

海岸近くのちっぽけな小汚い小屋レストランにあるキッチンの舞台裏を覗き見るようなものです.

見なけりゃよかった,というような感じです.

信用できません.


ひょんなことから,NM写本をやりはじめ,最初に校訂版を出したのが,2003年.

このNM写本研究は,うまくはまりました.

あれこれと有意義な訂正が.

NM写本研究の必勝方程式.

有意義なのは誰の目にも明らかです.

その後,NM写本は,アレッサンドロもやってますし,アレックスワトソンも今現在やっています.

日本でも趙さんが修論であつかってましたし,また,ハルのハンブルク弟子でも,扱っている人がいます.

あれこれと写本で直るとやる気も起きるというものです.


時代は変わり,いまでは,ダルシャナ周辺でも,普通にみな,写本を扱います.

九大関係でも,佐藤,須藤,眞鍋.

斉藤さんも,インドでいまや,ダイレクトにケーララ写本のカタログつくりに取り組んでいます.

写本ハンターの大前さんと一緒に回っていた広大の宇野さん,さらには,最近では,ラクナウにもいた川尻さん.

さらにはジャイナ図書館絡みでは松岡さん.

東大でも志田さんは,世界をまめに回っていました.

すっかり状況はかわっています.

プラマーナでいえば,かつての桂先生(京大・トロント・広大時代の桂先生)は写本とは無縁だったと思いますが,それがいまではPST写本にどっぷり.

時代の反映ということでしょうか.


須藤君からメールが来たと思ったらバングラからでした.

バングラ写本というと,横地さんのスカンダ関係で話を聞いたくらいです.

今後,ダルシャナをやるひとは,なんでもやらないといけないから大変です.
  1. 2019/08/29(木) 08:23:19|
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シャーストラにおける文体



文学においては文体,つまり,スタイルの違いが正面から云々されますが,哲学神学論書などのシャーストラにおいても,実際には,時代により,あるいは,ひょっとすると場所により,また,伝統により,文体というものはかなり違います.

たとえばカシミールによく見られるスタイルなどというのもあります.

私の場合,シャバラからはいったので,彼が模倣する『マハーバーシャ』流の古い文体が体にしみこんでいるので,当初より文体の幅が広がったのは幸いでした.

あれが,後代の『マーナメーヨーダヤ』やら『タルカサングラハディーピカー』だけから入ったなら,あとあと苦労することになったでしょう.

とくに,iti句の後付けなどは,シャバラでは普通ですが,後代になると,現代感覚と同じで前に持ってくることのほうが多い気がします.

古い文体を踏襲する作品にエディターが慣れていないと,句読点(つまりダンダなど)の打ち方で,よく,間違っているのを目にします.

こういうのは訓練で身に付く感覚ですから,最初に癖がつくと,なかなかその頭から逃れられないものです.

マックからウィンドウズに切り替えるような頭の切り替えが必要です.

シャバラとクマーリラを読み比べれば,文体の違いというのはすぐに分かります.

プラバーカラは,また,これはこれで独特な文体で,慣れるのに苦労します.

講義で喋っているのをそのまま録音して起こしたような文体ですから,その場にいないと,いったい,どう話者が切り替わっているのか,声色のヒントもないので,困ってしまいますが,幸い,マドラスのエディターが凄腕なので,ちゃんと区切ってくれています.

落語を改行なしにずらずらと書かれたら,いま誰が喋っているのか理解するのに苦労するでしょう.

区切りだけでエディターのすごさがわかります.

ジネーンドラブッディ自身は,後代のひとなので,十分に普通の文体なのですが,といっても古いスタイルを未だ残すディグナーガへの註釈ですし,また,文法家でもありますから,若干,古い形式を保っているところがあります.

彼は彼で,彼のスタイルに慣れる必要があります.

とくに,見出し語というか,引用句の頭であるプラティーカを引く字句註釈の場合,いったい,何について語っているのか,もとの文と引き比べて見ないと読者としては迷ってしまうことになります.

何について喋っているのか,判断の主体はディグナーガなのか,あるいは,ジネーンドラブッディなのか,ということです.

幸い,復復註とかではなく,註釈なので,そこまでややこしくないですが,とはいえ,これが,マーダヴァなどの,ディグナーガの論敵も入り乱れてくると困ってしまいます.

いったい,これは,マーダヴァをディグナーガが引いているのをジネーンドラがマーダヴァになりきって解説しているのか,なんなのか,云々.

誰が喋っているのか,誰の意図を誰が解説しているのか,透明のガラスを何枚も透過して向こうを見るようなもので,いったい,どこを光がとおっているのか,対象(内容)は見えても,途中の経過が見えないことがあります.

青の認識と「青」という認識の違いのようなもので,さらにややこしいことに,「「青」という認識」という認識,まである,といった具合です.

というわけで,600年以降ばっかり読んでいると,文体への準備幅が狭くなるということでした.

逆に,それ以前ばかり読んでいても,後代のシャーストラらしい文体に不慣れになって,拒絶反応を起こしてしまうことでしょう.

明晰さと簡潔さを追求する,いかにもの哲学者らしいマンダナ,ウダヤナあたりは,非常にドライな文体です.

『ニヤーヤ経疏』を書いたヴァーツヤーヤナも,自分への復復註のウダヤナ作品を読んだら「むずかしい言い方するなー」と漏らしたことでしょう.

シャーストラの各種文体になれる教科書としては,様々な文体を総合した感のあるジャヤンタの『ニヤーヤマンジャリー』がやはりお勧めです.

韻律も各種用いてますし,あちこちに,音装飾まであります.

マンダナのように論理ドライになりすぎることもないので,喉が渇くこともありません.

戯曲風もあり,飽きない仕組みが各種用意されています.

やはり,教養ある作者のものを読むのが一番です.

古の学者の底深さというものは,やはり,すごいものがあります.

ここらへんの奥深さの違いというのは,たとえば,ウンベーカ(700年頃)とスチャリタ(900年頃)にもあります.

クマーリラへの註釈である両者を読み比べると,その威厳というか,たたずまいの違いというものを意識させられます.

分かりやすいからスチャリタのほうが好きという人が多数でしょうが,わたしは,圧倒的にウンベーカが好きです.

スチャリタあたりになると,現代人と同じ感覚なのかなという気がして,教養の底が見える気がします.
  1. 2019/08/27(火) 19:42:13|
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リテラシー



昨今はリテラシーと称して,それ用の授業も設けているようですが,見るところ,小手先ラーナー向けの授業が多いという印象をうけます.

結局のところ,リテラシーとは,王道の学問がこれまでやってきたように,資料批判の態度のことでしょうから,これまでと同様,実践を通して培われるべきものでしょう.

それは,古典に取り組んだりの中から自然と学ばれるべきものということになります.

とりたてて目新しいものではありません.

リテラシーという呼び名が新しいだけで,別に指示対象にかわりはありません.

また,対象が日本語ソースだけに限られていれば,そもそも話になりません.

同じような情報ソースと,同じような思考の人間(現代の日本語人)が書いたものばかり読んでいれば,頭が限られ,または,毒されるというものです.

夜郎自大がまた一丁出来上がるだけのことです.

世界国家を大上段から論じる御仁は,案外,外国語を知らなかったりします.

確信に満ちて断言したほうが説得力がましますが,情報遮断のほうがむしろ,確固とした信念の確立には役立ったりします.

「~主義」「~イズム」というのは,往々にして,凝り固まった狭い信念から生まれたりします.(もちろん,外から眺める思想史家としては,それぞれをラベルづけするのは重要なことです.)

また,馬鹿の一つ覚えのように特定言語を押すのも,なにかのコンプレックスの裏返しなのでしょうか.

よっぽど苦手意識があったのでしょうか,自分ができなかったからと言って子供に勉強を押し付ける親御さんのようで,苦笑を禁じ得ません.

情報リテラシーを標榜するならば,情報ソースは多いに越したことはありませんし,多種多様な思考背景・利害をもったひとたちの情報にアクセスすべきでしょうから,まずは,外国語――英語は当然なので英語以外も――をまなぶにしくはありません.

もちろん,現代だけでなく過去からも.

振れ幅は大きい方がいいでしょう.

まったく考え方の違う時代・場所のひとたち(しかも優れた知識人)から,その思考法を学ぶことは,最高のリテラシー教育といえます.

そして,過去ということになれば,当然,多くの人が継承してきた古典ということにもなり,古典語の学習も必要ということにもなります.

たとえば1500年前の人間,しかも,日本語ではなく,サンスクリット語など.

かれらもまた,自分が母親と喋っていたのはサンスクリット語ではなく地方語だったでしょう.

様々な背景をもった往時のインド文化圏の知識人が,サンスクリットという雅語を共通語としてやりとりしています.

情報ソースとして多様性,厚みに富んでいることはまちがいありません.(もちろん,サンスクリットのような文献をものしたひとは市井の人,というわけではありません.あくまでも,往時の知識人や有力者などということにはなります.声なき民衆の声はそもそも聞こえません.資料限界はいやおうなくあります.)

サンスクリット文献学習はリテラシー教育の実践である,といって間違いないでしょう.

しかし,早い安いを求めるのは世の常.

即得往生したいのは誰しも同じ.

お手軽にリテラシーを身に付けようなどという浅ましさは誰の心にも巣食うもの.

だれしも「楽しよう根性」はもっています.

84000の法門を一行に縮めて見たり,あるいは,複雑な曼陀羅もごくごく単純な曼陀羅に縮めて見たり云々.

お手軽で短い方が好きなのは誰しも同じ.(大衆化という意味で,常に,それを意識することは,マーケッターとしては重要ですが.)

「これで健康に」と言われれば,単一の健康食品に飛びつくのと同じ心理です.

リテラシーも,日本語の授業でお手軽に身に付けば楽なものです.

しかし,さっと学んだものはさっと抜けていきます.

ざらざらとした苦労をしてこそ身に付くものがあります.

語学もそうでしょうし,批判の態度というのもそうでしょう.

リテラシーとは態度であり,身に付けるべき習慣のことですから,聞・思・修の修が必要となります.

座学の聞だけで身に付いたら苦労しません.

楽して儲けることを是とする風潮のなかでは,面倒な古典語や(英語以外の)外国語をやるひとはますます減るでしょうが,リテラシーということを考えれば,多様な情報ソースへのアクセスという点で,まったく逆行する態度だといわざるをえません.

目標と行動とがちぐはぐだ,ということです.

リテラシーでも何でも,楽して身につけば苦労しません.

お手軽なリテラシー教育を標榜するなら,ガマの油売りの香具師とかわりありません.

一定規模の大学ならば,第二外国語,第三外国語,古典語を提供するという矜持は守る必要があるでしょう.
  1. 2019/08/26(月) 07:35:22|
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kakka soyo



散逸したサンスクリット原典,その場合,それのチベット語訳を云々することになろう.

しかし,チベット訳からあれこれ想像しても一向に埒が明かない,という事例には事欠かない.

過去の論争の幾つかがすぐに思い浮かぶ.

Aさんがサンスクリットを想定しながらチベット訳を読んでも,サンスクリットを想定しないでチベットを読むようなBさんは,チベット語訳から適当な可能な読みを提案して無理筋を対抗案として提示.

もちろん,チベット語訳だけからでは,いろいろな可能性があるのは否めない.

たとえ,サンスクリット感覚的には,それは,自然ではないとは分かっていてもである.

結局,Aの主張にたいするBの対抗主張により,引き分けとなり,せっかくのAさんの主張も,あたかも間違った主張であるかのようになってしまう.

論争というのはそういうものであろう.

むかしから,ジャーティなどのテクニックが用いられたのも,負けそうになったら困るので,相手との引き分けに持ち込むためである.

というわけで,チベット語訳からだけあれこれと想像しても,結局,決定打のni"scayaとならないというのが悲しい定め.

なんだかんだと文句のつけようがあるのである.

ラトナーカラのPPUの原典が出てきてよかったし,また,ディグナーガのPS(V)が,PSTから相当復元できて何よりである.

原典を読めば決定的に分かることも,あれやこれやの可能性の隙間を残すチベット訳だけからは,どうにもこうにも隔靴掻痒.



ともあれ,原典にアクセスできる良い時代になったものである.

結局,ムニ・ジャンブーヴィジャヤジーのように,たとえチベット語だけからでも,後代の関連サンスクリットを参照したりしてサンスクリットを想定しながら読むならば,かなりの精度で内容理解は可能なのだ,ということは,あとから,復元原典と比較・採点して分かることである.

ディグナーガの場合,ダルマキールティに至ってシステムに変更が加えられているので,ディグナーガそれ自体を知ることがダルマキールティなどからは困難になっている.

偏向ガラスをかまされているようなものである.

まずはPSTなどに基づいて原典復元,そして,ジネーンドラの一部の偏向バイアスに注意しながら,原義を救い上げていく必要がある.

もちろん,ダルマキールティ以前のクマーリラによるディグナーガ解釈が,ディグナーガそのものの意図を知るのに助けとなるのは言うまでもない.

ダルマキールティよりもクマーリラのほうがディグナーガを理解するのに役に立つのである.

ここのところは,素人が陥りやすい罠である.

註釈を字義通り受け取り,そのまま信じるウブで素直な人(説一切ウブ)は,すこし,京の都あたりで,言外の意を掴む訓練をした方がいいだろう.

あるいは,シャーストラにおいても,アーナンダヴァルダナの言うがごときdhvaniを学ぶ必要があるかもしれない.

余韻や余白,作者の真の意図,それを読み込むことは,テクストに向かう楽しみのひとつである.

そして,それは,こちら側の間違った勝手な投射ではなく,向こうに根ざしたものでなければならない.

ダルマキールティいうところのvastu-bala-prav.rtta-anumaanaでなければならない.

そのために,様々な状況証拠を重ねる必要がある.

すべてを主体の投射と切り捨てる立場もまた,極端な説(いわば断辺)として斥けられるのである.

  1. 2019/08/25(日) 10:15:29|
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バジェコ









深夜まで続くべきもの,ティージ.

というわけで,10:00で終わるわけもなく,その後,みなさん,あちこちに流れていくようです.

ナングロも考えましたが,バジェコへ.

2階はダンスのどんちゃん騒ぎ.

歌い終えたराणा君が,店に戻ってきたかと思うとスーツから仕事着に変身.

普通にコックの仕事に戻っていました.
  1. 2019/08/24(土) 11:42:38|
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仮設の病



ゼロを認識するのが難しいのは世の常.

インドの場合は例外的に,当初からゼロを認識していました.

すなわち,文法学においては,ゼロ代置を操作対象としてそこにあるものとして当初から扱ってきました.

非有はそこにあるのです.

あるいは,あるものとして扱われます.

見えないものがある.adar"sanam lopa.h.

マイノングや虚構主義者もびっくりでしょう.

ダルモッタラも虚構対象については,「存在と非存在とに共通する」と言い切っています.

マイノングが聞いたら大喜びでしょう.

つまり,二律背反の支配を受けないものがそこに「あり」ます.

インド人も,もちろん,このような考えを受け入れるのに準備ができたひとばかりではありません.

むしろ,一般的には,二律背反に縛られたひとのほうが多数でしょう.

したがって,頭の固い有相派からダルモッタラは,「非常識」と断罪されてしまいます.

二律背反に縛られたおつむの固い人はどこにでもいるものです.

同僚の倉田さんの光文社からの新書もめでたく出版されたようで何よりです.

無相派の考え方も,虚構主義や,あるいは,マイノングあたりと絡めて論じれば面白いことになるでしょう.

また,少しずれるかもしれませんが,非存在の同一性・非同一性については,聖典解釈学者のクマーリラが当初から問題にしています.

非存在abhaavaもそこに実在vastuとしてあるとするのがバラモン教の基本的な考え方です.

ゼロや非存在・非有ということでいえば,数学だけでなく,哲学分野でインドには提供できるものがまだまだあるでしょう.

そういえば,マティラルにもNegationというのがありましたが,あれは,新論理学ナヴィヤニヤーヤからの話題提供が中心でしょう.

古い所をほじれば,まだまだ面白い話題はつきないはずです.


で,写真は,伊都の中心部.

後付けの建物がたっています.

建築家がバランスを考えて空白・余白としても,空き地とみるとそこにプレハブのような仮設をつけたしていくのは世の常.

箱崎も末期はひどいことになっていました.

プレハブプレハブの余白つぶし.

ゼロがそこにあることを見ないのが普通の人間.

しかも,移転を控えて,なんでもプレハブ.

最後は事務棟までもがプレハブでした.

先生の一部もプレハブ,事務の一部もプレハブ.

清貧法人プレハブ人生の謳歌の嘔吐.

俗世の本質は仮設だとのありがたい警告なのかなんなのか.

同僚の京谷さんは,凱旋門などの仮設絡みでサントリー賞ですが,彼自身が仮設のプレハブオフィスに住まわれていました.

仮設の実践.

伊都も,雨除けの天井があとづけでつけられたり,ど真ん中にあとづけの安っぽい建物が付加されたりと,建築家が当初意図したせっかくのインスタ映えの景観も,まったく異なったものになりつつあります.

この先どうなるかもあらかた予想がつくというものです.

箱崎の如し.

いずれ文系のどこかにも,余白を埋める仮設的な何ものかが追加されていくことでしょう.

すでに,週に二日しか使われない展望台が当初から追加されているので,なにができても驚きはしませんが.


そういえば,来月から構内全面禁煙実施だそうです.

わたしには全く関係ありませんが,広大な敷地を誇っていますから,愛煙家が学外に出ようとすると大変でしょう.

上下の高低差もありますから,愛煙行為のために,禁煙して運動しないと,上下の移動もままならないという逆説が生じるかもしれません.

そういえば,箱崎で学会をやったときのこと,休憩のたびに4階からぞろぞろ降りていく小川先生を隊長とする喫煙ガナがいたのを思い出します.
  1. 2019/08/24(土) 11:03:01|
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तीज

  1. 2019/08/24(土) 10:46:13|
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ティージ

  1. 2019/08/24(土) 10:41:39|
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फ़ुकुओका तीज संस्कृति कार्यक्रम

ティージは一般名詞としては三日目,すなわち,黒分あるいは白分の三日目を指します.

ネパールのハルターリカー・ティージは,バードラ月の白分2日目~5日目の四日間.

2019年(ネパール暦2076年)は8月30日が新月で,三日目は9月2日.

女性(特に既婚女性)のためのお祭り.

詳細はhttps://ne.wikipedia.org/wiki/%E0%A4%A4%E0%A5%80%E0%A4%9C

神話としては,パールヴァティー(ヒマーラヤの娘)と,その夫であるシヴァに結び付けられます.

福岡ネパールソサイアティーの2019年のティージは,8月23日金曜日,赤坂の中央市民センターにて.

理由は,平日の金曜日のほうが,市民センターが押さえやすかったからでしょう.

18:00--22:00の使用料は17000円.

500席の三階ホールは一杯でした.

会場としては駐車場も広く,300円なので,便利です.

チラシには6時開始とうたっていましたが,当然,その時間にはじまるわけもなく,7時ころまで会場の外に大勢の人がたむろっていました.

そもそも,会場使用が6時開始ですから,まずは会場準備ということなのでしょう.

音響のチェックも欠かせません.

前回は,一部のCDがうまくかからず,バジェコの兄ちゃん歌手は悔し涙でしたが,今回は,一部で出だしがまずかったものの,大きな音響トラブルはありませんでした.

実際のプログラム開始は,7:30も十分にまわったころ.

ネパール国歌に続いて日本国歌も.

歌手の登場は8時ころ.

おそらく,時間が押して,当初予定の在福男性歌手陣がひとりひとり歌う時間がとれなかったのでしょう,最後に男性3人が一緒に歌っていました.

撤収が10時厳守ということなのか,前回のアクロス円形ホールは9:50分くらいに怒涛の撤収開始でしたが,今回は,余裕をもって9:30には撤収が開始されていました.

よっぽど強く会場側に言われていたのでしょう.

というわけで,正味の歌・ダンスの時間は結構短かったです.

あれではご婦人方も踊り足りないでしょう.

入場料2000円は安い気がします.

ネパールからプロ歌手も二人呼んでいますから,経費もかかったことでしょう.

スポンサーそれぞれの顔写真がひっきりなしに背景に映し出されているのが笑えました.































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歌手は

一人目がサンジナー・ラーミチャーネー・マガル.

https://www.facebook.com/singersamjhanalamichhanemagar/

二人目がスニター・ドゥラール.

歌手のセレクトが、どういう基準なのかが気になります。

https://en.wikipedia.org/wiki/Sunita_Dulal

にしても,このプラディープ・シュレーシュタさんの顔が中川さんに似ているのが気になって仕方ないです.
  1. 2019/08/24(土) 08:35:41|
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どちらを向いて教えるのか

大学の提携仕事でカルチャーセンターに派遣されたことが数回.

業務の一環なのかなんなのか微妙な仕事である.

土曜日.

毎回思うのは,「はたしてこれが社会貢献なのか」ということ.

大学生を教えることを主眼とする者が,一回りも二回りも上の方々に教えることの意義はなんなのか,と.

むしろ,こちらがお知恵を拝借したいくらいである.

講演よりも,座談会形式にして,対話の中から向こうの知恵も取り入れてお話を伺ったほうが,よっぽど有意義である.

わたしの知識にしても,私が上から習ったり,あるいは,私がこれまでの学習で身に付けたことは,大学人としては,今後の世代に伝えるべきものである.

それがaanulomyaというものである.

praatilomyaな流れには何か違和感を感じざるを得ない.

なかんずく,それが社会貢献,社会連携と銘打たれていることに疑問を持つ.

社会貢献とは何か.

これからの社会に役立つことであろう.

これからの社会は誰が担うのか.

若者であろう.

とすれば,我々が行うべきは大学生の教育(あるいは大学にこれからはいる人への影響力行使)ではないのか.

身近な人々である所属大学の大学生を忘れて「社会貢献」という抽象的なものを具体化した先の「社会」なるものが,カルチャーセンターにこられる,時間的・経済的に余裕のある先輩方だとしたら,それは,本末転倒ではないのか.

まずは身近な人々のことを気にかけるべきである.(家族をほったらかしにして,外の人のことばかり気に掛けるならば,それは本末転倒であろう.)

社会貢献というならば,まずは,うちの大学生向けの教育に全力を傾けることこそ社会貢献であるべきである.

なぜ,本来の業務が社会貢献でないのか,わたしには理解できない.

なぜ,社会連携の社会は大学の外でなければならないのか.

大学生を鍛えることこそが社会へと繋がっていくのではないのか.(影響力の及ぶ身近な周囲が我々が第一に関与すべき「社会」である.)

あるいは,内容を正しく伝えるべく,社会連携という標語を,大学外連携と言い換えるべきであろう.

しかし,大学の中で既にいそがしいのに,大学の外まで教育に責任を持てというのはどうか.(たとえば,小学校の先生の教育分野での社会連携とはいかなるものなのか.)

理系の人が行う「研究」連携なら分かる.

外の私企業との「研究」連携である.

こちらもあちらも利せられるところがあろう.

いっぽう,外との「教育」連携というのはあるのか.

理系の彼らがやるとしたら,間違いなく,高校生向けのわかりやすい講演だったりする.

つまり,未来志向である.

社会連携,つまり,大学外の私企業などとの連携を「教育」について行う場合と,「研究」について行う場合とを区別する必要があるということになる.

社会連携
=大学外の私企業などとの連携
1.研究
2.教育
3. それ以外

大学にメリットのあるのは1である.

これは,しかし,私のような分野にはあまり関係がない.

2の「学外」への教育は,小学校の先生が小学生の教育に一義的に責任があるだけなのと同様,大学の先生の責任範囲を超えている.

あるいは,業務の一環としてやるべきことではない.

やりたい人がやればいいことである.

大学が率先して謳うべきものではない.

行きたい人はカルチャーセンターの授業を喜んで受け持つだろうし,あるいは,街中の団体主催の講演会もするだろう.

それはあくまでも個人の領域である.

お休みの土日をどう使おうが,その人の勝手である.(そして文学部でも多くの人は個人的に既に様々なことを大学外でやっている.)

大学の社会連携というのは,そもそもが理系が私企業との研究連携を堂々と行うための言い換えであったはずである.(つまり,私企業との癒着と思われないための.)

それを文系にもっていったときに無理が生じているのかもしれない.(街おこしのための~学というのは、一昔前はなかったように思うが。)

大学人は社会の教育にも責任を持つべきというなら,それは,小学校の先生にもあてはまるのか?

生涯教育ということならば,それは,大学の中で引き受けるべき事柄である.

ともあれ,社会連携や社会貢献という取り繕った綺麗な言葉の乱れが気になるところである.

よくあるように,理系と文系とで状況が異なるにもかかわらず,向こうで定義される概念をこちらに持ってきたことで無理が生じている気がする.

ともあれ,時間的・経済的に余裕のある先輩方に教えることを「社会貢献」と言われても,わたしには実感が湧いてこないのである.(子供食堂にベンツで乗り付けてくる人にも食事を喜んで提供する度量が必要ということになろうか.)

正確に,私企業などを通した学外での生涯学習支援とでも呼んでほしい.

そして,土曜日に行われるそれは,本来,大学の業務ではなく,個人の領域に属すべきものである.

そして,それは,文系でも分野によっては既にミクロレベルで十分に行われているので,いまさらマクロレベルで謳うべきもの,強制すべきもの,ポイント化すべきものでもない気がする.

フォーマルセクターとインフォーマルセクターと呼ぶべきなのかどうか分からないが,インフォーマルな領域に属すものについては,数値化されていないだけで,すでにあれこれと存在するのである.

なんでも数値化してポイント化しようとすると,「こいつらはなにもやってない」ということになるが,見えないものというのはあるのである.

「あなたに見えてないからといって無いわけではない」と指摘したのはダルマキールティであった.

ともあれ,言いたいのは,我々にとっての真の社会貢献というのは,第一義的に,大学生という若人を教育することにある,ということである.

それは,小学校の先生が第一義的に小学生の教育に責任があるのと同様である.

いずれも知の受け渡しは上から下が自然であろう.

逆の場合はまた別の理屈が必要となる.

数学の得意な中学生が親に逆に数学を教えてあげるという場合の理由が特殊であるのと同様である.
  1. 2019/08/22(木) 20:25:02|
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Zaeka







5人でザエカ.

夜はあけてないことが多いので電話で予約,さらに,当日の昼も確認電話.

念には念を.


アリさんが厨房で忙しく働く調理中の2割の時間を5人で会話,

アリさん調理前後の8割はアリさんの独演会.

まずは注文前にしばし隣に座って座を温めてくれます.

調理終了後,配膳の後にもどっかと隣にすわって独演会本番.

マトンX2,チキンビリヤニX2,ナンX2,チーズナンX2,ダールX1,チャイX5で,お腹いっぱいに.

一人2000円切ってました.

御馳走様でした.


アリさん,番号非通知の電話は取らない主義.

あるとき,3回しつこくかかってきたので,怒って3回目に取ったそうです.

そしたら,「ビリヤニありますか」との注文電話.

非通知について説教.

アリさんに電話するときは気を付けましょう.


きょうのマトン肉は自分の家族用のスペシャルだったそうです.

チーズナンは,一個目は普通,二個目は「たくさん入れました」ということで,たっぷりチーズでした.

しかも,一個目は4カット,二個目は8カット.

ランダムなのか,二個目で喜ばす戦略なのか.
  1. 2019/08/22(木) 07:53:15|
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nityaな生き方,naimittikaな生き方



ニティヤな生き方などというと,諸行無常を標榜する仏教徒からはお叱りを受けるやもしれぬ.

しかし,ここでいうニティヤは常住の意味ではない.

定期祭でいうところのニティヤである.

つまり,臨時祭(契機祭)であるnaimittikaや願望祭kaamyaとの対比で問題となる定期祭のニティヤである.

決まったときにやるのが定期祭ニティヤ.

毎日の日暮れと夜明けに祭火に献供するアグニホートラ.

文字通り新月と満月の日に行う新月満月祭.

春に行う大規模なソーマ祭.

いずれも基本的なニティヤ祭,つまり,定期祭である.

決まったときに繰り返されるルーティーンワーク,いつものお定まりの最低限の義務としての祭祀行為である.

願望祭はそうではない.

やりたい時に(――ただし指定された手順・時に則って――)やればいい.

こちらは,100%の力で頑張る必要がある.

さもないと目標を達成できない.

で,本題は,よく見る自己実現の生き方.

こちらは,自分の(好きな)目標を立てて人生設計する,というもの.

これは完全に願望祭的な生き方のモデルを念頭に置いたものである.

Aという目標のために必要な手順であるBを行う.

Bを行うことで望んだAを実現する.

AのためのBに沿った人生設計を行う,そして,そのBのための準備Cを今やる,というのが自己実現型モデル.

その人の時間は全て究極の目標であるAに支配されることになる.

Aのために最大限の努力を行う必要がある.

頑張れば頑張るほどAはよりプラスとなるはずである.(そうしないとBという手段への努力が報われないから仮想的にそう立てられる.)

Aのためにある,Aをprayojaka(使役主体・引き起こすもの)とする現在である.

しかし,日々の行動を見ても分かるように,ほとんどがルーティーンワークであり,願望祭的な行動要素というのは僅かである.

いちいち意思決定していたら疲れる.たいがい,無意識でなんとなく行動しているものである.(平日の朝に黒い靴下を取る場合,どれでもいいから,たまたま箪笥の一番上にあるものを無自覚的に取るようなものである.いちいち自由意思によって選択しているわけではない.)

パターン化したほうが楽である.

日々、月々、季節季節、年々のルーティーンワークをこなす,という生き方もある.

親の職業を継ぐ場合もあろう.

なにか自分が意識して望んだAを実現するわけではない.

単にBをやるだけである.

Bは所与の義務である.(義務行為によってAが実現されるわけではない.結果的にAが付随することはあるかもしれないが.)

知らないうちに,意識してそう望んだわけではないが,いつのまにやらそういう道に進んでいることもある.

すべてを予測してAという目標とBという手段を設定,それに従って生きるというのは,たいした自由意思への信頼と事前予測可能性への過度の期待というものではないか.

合理的な人間像というのは期待も含めた遍計所執性に過ぎない.

そうあってほしい,しかし,現実はそうではない.

夢を語るのは文字通り夢があっていいが,なにごとも冷徹な現実から出発すべきである.

自己実現型以外の型も全然ある,ということである.

ひとつを押し付けられるならば,それに反発したくなるのは若者の性.

自己実現の夢に酔う人と,ルーティーンワークで目の前の義務をこなす人.

もちろん,後者においては,その場その場でのやりくりが必要となる.(義務的な祭祀行為においては代用品の使用が一部に認められる.)

義務である以上,最低限の努力で済ませればそれでいい.(当然,Bを行う以外の余白の時間は,この義務に支配されることなく残る.ひとむかし前の公務員的なライフスタイルである.いまは,どこも人員削減でハードワークとなっているので,余白の時間などありようもないが.)

ここでは願望祭のようにプラスを実現するのではなく,マイナスにならないようゼロを保つ最低限の努力が求められる.

してみると,小川さやか氏の「その日暮らし」というのは,自己実現的・願望祭的であるよりかは,むしろ,ある機会・契機に応じて行わざるを得なくなる臨時祭的生き方に近いように思われる.

1.願望祭的:自己実現,夢をかなえる(ゼロからプラスへ)
2.定期祭的:ルーティーンワーク,時々の決まった義務を最低限の努力でこなす(マイナスにならないようゼロを保つ)
3.臨時祭的:降りかかってきたものをその場しのぎの最低限の努力でこなしてかわす(マイナスにならないようゼロを保つ)

マイナスにならないようゼロを保つという義務行為という点で定期祭と臨時祭は似た性格を有する.

いずれも義務である.

やらなくてはならない.

どうしてもやらねばならないのだから,Bを行うためのCが手に入らないならば,Cの代用である安物のC’の使用でも許される.

(逆に,願望祭においては,100%の努力が必要となるので,代用品の使用は認められない.そのものが入手できないなら,夢をあきらめるしかない.)

臨時祭は,文字通り,nimittaという契機に基づいてあるものである.

具体的には,へまをやらかしたという契機に応じて行う修復儀礼のことである.

降りかかったマイナス要因への対処である.

生き方で言えば,降りかかった災難を取り除くために,その場その場で臨機応変に対応していく,対処していく,という生き方になる.

自己実現も不可能,かといって安定した職業もない,となれば,機会・契機に応じて,マイナスにならないようなんとかゼロの均衡を保つしかない.

機に臨むという意味では臨機的と表現してもいいだろう.

高みのプラスを目指すのは,出発点に余裕があるから.

しかし,常にマイナスへの転落圧力にさらされている環境にある場合,戦略としては,マイナスに陥らないよう,ゼロを保つ努力が必要となる.

自己実現の夢に酔っている暇はない.

社長が夢・願望を語るが,社員の全員が同じ型に生きるわけではない.

むしろ,社員は無自覚的・無意識的な定期祭的なモデルで生きるのが大半である.

義務としての出社である.

そこに100%の努力を求めるのは無理がある.

昨今の自己実現型の夢を刷り込もうという授業を見ていると,なるほど,社長とおなじ願望祭型モデルを植え付けようという策略かとも思われる.

自己実現といいながら,案外,100%の努力をしてくれるシステムのコマを作るための策略やもしれぬ.

やりがい搾取というのはその例であろう.(これは夢を語る点で明らかに願望祭型である.)

マイナス転落の圧力が弱いという点で,プラス実現の夢を語れる環境というのはもちろん既に恵まれた社会にある,ということであろう.

しかし,みんながみんな,プラスを目指すわけではない.

みなが願望祭ばっかりやってる社会というのも変である.

現実には,他の生き方もあるし,そちらのほうが実は多数派であり一般的である.

日本社会も貧しくなってマイナスにならないような努力が求められるということになれば,臨機的naimittikaな生き方というのが必要となることになる.

小川さやか氏の主張は,そのような文脈で捉え直すことができよう.

さて,大学人の場合,

1.研究は願望祭
2.授業は定期祭
3.委員会などの業務は臨時祭

というようなことになるだろうか.

やれないなら,あるいは,やりたくないならやらなくていいのが願望祭である.

それを義務としてやらせようと強制すると,「最低限の努力」「代用品」が侵入し,ひどいことになるのは目に見えている.

研究における代用品の安物というのは,ねつ造などである.

最低限の努力は,データの改ざんやネタの盗用といった類であろう.

ともあれ,夢を語ること・語らせることが,逆に,息苦しい生き苦しさの閉塞につながるとは逆説である.

隅々までの時間の支配.

「最低限こなしてくれればあとは好きにして」という余白がなくなった社会というのも怖いものである.

究極の目標に筥○宮のように「○国降伏」を立てて,abhicaaraにまい進し出したら,社会のどこにも余白はなくなろう.

夢を語るモデルが頭に植え付けられていると,abhicaaraという殺生行為も案外すんなりと受け入れられるのかもしれない.

あとはクマーリラに登場願って,「殺生は悪だけど,abhicaaraという行為それ自体は悪ではない,むしろ善である」とでも言わせるか,あるいは,クリシュナに降臨願って,「クシャトリヤの義務にしたがって後先考えるな」とでも言わせれば,矢の雨を降らせる立派なクシャトリヤが完成しよう.
  1. 2019/08/21(水) 07:39:22|
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悠久の時間



時間論が好きな人はなぜか周辺に多いのですが,わたし自身は哲学的に鈍いのか否か,それほどピンとこなかったので,身をもって理解したのは,いまのところ,アビダルマの三世実有くらい.

ひとまず,それで満足しています.

で,いわゆる時間論はさておき,個人個人の時間の使い方感覚はいかなるものか,ということになると大別して2タイプがいます.

とくに用事をいつ終わらせるかという時間の感覚の場合ですが,

1.さっさと終わらせる
2.できるだけ先送り

というのに大別できます.(真ん中もいるでしょうし,用事の内容によるというケースバイケース派もいるでしょうが,いまは無視.)

周囲の人を見ていると,相対的に多いのは後者の感じです.

さっさと終わらせる人というのは少数派です.

(つまり,さっさと終わらせる人の方が稀少価値がある,ということになります.)

人間ですから,嫌なものには目をつむり,とりあえず先送り,というのが普通なのでしょう.

はやいひとは,いつもはやい.

ペーパーもちゃんと2週間前にはチェック用に送るし,必要書類もちゃんと期限のかなり前に送ります.

逆に,遅い人は常に遅いというのはいつものこと.

原稿が直前の場合もあるし,書類も,ほんとに締切直前.

あるいは,締切を過ぎているので,仕方なく事務にお願いする場合もあります.

後者の場合は,いわゆる「ケツに火が付かないとがんばらない,がんばれない」ということなのでしょう.

良いように見れば,ダッシュ力に自信があるのかもしれません.

そういえば,先輩のひとりは,でかけるのもぎりぎりにならないと無理というひとで,むかし,一緒に新幹線の駅にダッシュして,切符買って,改札通って,階段をかけあがったことがあります.(間に合いました.)

つきあわされるほうとしては,たまったもんじゃありません.

彼はいつもそうなので,へっちゃらという感じですが.

最近あったときも,やはり同じ行動パターンのようで,毎回,駅と空港はぎりぎりだそうです.

まあ,時間的には待ち時間が発生しないので効率的かもしれませんし,瞬間瞬間のターボで生きてるという充実感は増すかもしれません.(肯定的に見れば,ということですが.)

そういえば,いまはトレイルランニングもしているそうですから,訓練にもいいのかもしれません.

急ぐ,焦るというのは,メンタルには健康とは思えませんが,身体的には健康なのでしょう.(戒律的にお坊様は走れませんが.そういえば,その先輩,お坊さんでした.)

心の平穏というヨーガ的視点でいえば,前者の方針を貫徹するに越したことはないでしょうが,はたして,前者と後者の選択の分かれ目は,訓練次第なのでしょうか.

先生がうるさい人だと締切よりだいぶ前にどの学生も出すようになるという傾向がありますから,まあ,やはり,訓練次第という気もします.

しかし,日頃の行動パターンで,習慣性のものですから,先生が怖いという特例はさておき,一般には日常の態度が問題となるのでしょう.

癖や行動パターンは直すのが難しい,ということでしょうか.

大物になると,ほんとに最後の最後まで出さないという人がいます.

ふたり共著のAさんは仕事の早いタイプ,Bさんは遅いタイプ.

当然,Bさんが期日を守るわけもなく,ずっと出ません.

そうこうするうちにAさんが急死.

Aさんが亡くなってから,ようやくBさんが原稿を出していた,ということがありました.

原稿を出す人もそうですが,編者がなかなか仕事しないタイプだと,これまた,いつまでたっても雑誌が出ないということもあります.

わたしも,7年前ので,まだ出てないのがありますが,どうなるんでしょうね.

そのほか,海外の話でたまに聞くのは,博論原稿を(最終の正式な提出前に事前に先生に提出しても)なかなか先生が見てくれないというのもあるそうです.

机上に放置.

インドだけでなく,あちこちに流れる悠久の時間.

そういえば,むかし,相当前に(コピー不可の)証明書を提出したところ,締切日直前になって事務から「証明書を出してください」といわれたことがありました.

あまりにも前に事務に提出したので,事務の人もすっかり忘れてしまっていたようでした.

しかも,事務の人,その書類をなくしてしまっていました.

私の手元にたまたまあった別の証明書を代用で提出して事なきを得ましたが,あぶないところでした.

あんまり前に提出すると,相手が忘れてしまう,というパターンもあるようです.

ちなみに,なくなったその書類,あとから,事務机上の一画にある書類ファイルから発掘されました.

カーマスートラのウサギと象とおなじで,なにごとも,相性の問題もあるのかもしれません.

  1. 2019/08/20(火) 19:36:34|
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小川さやか著『「その日暮らし」の人類学』

フォーマルセクター
インフォーマルセクター

に関する従来の議論への氏の違和感を見ていると,なるほど,この構造は,

実体有dravyasat
世俗有sa.mv.rtisat

の二層と似ているという感がする.

普通の人は,sa.mv.rtisatレベルの認識を実体有dravyasatレベルに照らして「正しい」「間違っている」と断ずるであろうが,しかし,世俗有sa.mv.rtisatレベルは,そこでまわっているのだから,その視点で論じるべきである.

上に寄せて議論するのは的外れではないか,というのが件の違和感の正体であろう.

食い違いがないavisa.mvaadinとして世俗有sa.mv.rtisatレベルの言語知シャーブダを捉えたのはディグナーガであったが,それをプラマーナ全体へと広げたのはダルマキールティであった(cf .中須賀美幸の議論).

実体有dravyasatレベルから断ずるのではなく,むしろ,このダルマキールティのように,世俗有sa.mv.rtisatレベルから捉え直した方が有用ではないか,あるいは,ひょっとしたら事態を正確にとらえているのではないか,という気がする.

食い違いがないavisa.mvaadinでいいではないか,という気持ちである。

まあ,もちろん,ダルマキールティ自身は,従来の実体有dravyasat志向の思考も温存しながら,経量部的に,食い違いがないことavisa.mvaadaの実質内容について効果的作用arthakriyaa云々を言い出すのだが.

もちろん、唯識的には、実際的効用があるように「見え」れば、それでいいのである。

なお、法律的に非合法イリーガルだが道義的に合法か否かのlicit, illicitの区別も世俗有と通常の意味での錯誤の対象である非有の区別と平行的である。

上の世界から見れば一律に間違ってはいても、下の世界にも更なる「正誤」の区別はあるので、よくよく見てみる必要がある。

さらに言えば、道義的にも間違っているイリシットのほうが、世界の本質を捉えるには取っ掛かりとなるかもしれないというのが、瑜伽行派の戦略である。
  1. 2019/08/19(月) 19:39:53|
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因三相



自分の専門から少し離れた学会に出るのは耳学問のため。

そこでは、発表者が言っていることを自分で評価するのは難しい。

勢い、質疑応答から、何が問題になるのか、どういう文脈にこの発表を位置付けるかを学ぶことになる。

社会問題などを扱う場合に出る質問で、インド学仏教学ではまず聞くことのない質問形式が、

「事実確認ですが」

というものである。

インドの推論形式で言うなら、これは、パクシャダルマターにあたる。

推論のいわゆる「因の三相」の第一が主題の属性であること、である。

山に煙のあること。

音声が作られたものであること。

等々。

要するに、

甲が乙である、

甲に乙がある、

という事実の確認である。

ここから、一般法則に則って推論するが、その前提となる事実が、パクシャダルマターである。

これの細分に各種あるがいまは措いておく。

ともあれ、質問者はまず、ここの確認をする。

理の当然である。

ここが間違っていては議論が成り立たないからである。

ダルマキールティは例えば、ニヤーヤ学者にたいして、

「そもそも山には壷と同じような意味での形状配列はない」

と指摘する。

次に問題になるのが、推論の肝となる遍充である。

つまり、一般法則。

乙なら必ず丙

である。

現代の質問形式としては、

「必ずしもこの結論は導かれないのでは」

と、反例を指摘することで逸脱不定を指摘してみたり、

「むしろこちらが隠れた本質的な理由となるのでは」

と他の本質的な理由であるウパーディを指摘してみたり、ということになる。


本当のところは縁起の世界であり、甲に乙だけがあるわけでもないし、乙だから丙というのが正しく見えても、実は隠れた理由があるかもしれない。

事実の向こうは複雑である。

我々に理解できるような単純化が説明の際は働く。

統計の向こうで何がうごめいているのか知るのは大変である。

ジャヤンタの言うように、原因総体ということになれば、結果の原因を列挙するのは不可能になる。

議論には言葉による単純化と有自性化が働く。

本当は因果関係において、単独自立不変の原因や結果などないにもかかわらず、我々は言葉を使う際には、単純に、原因や結果という固定した別個のものを前提とせざるを得ない。

世俗有の世界に立たざるを得ない。

世間の言葉はそのようにして働いているからである。

結局、世俗の範囲内で整合性をもってうまいこと説明できていればそれでいい、ということになる。


言語ゲームというのも、つまりは、この世俗有の言語のことであろう。

  1. 2019/08/17(土) 09:36:29|
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救世主と梅酒



入ったコンビニの名札を見るとカルキさん。

救世主として移民が降臨する時代が来たとの意でしょうか。

そのとなりがウメシュ。

ウマーの夫のシヴァも、まさか、日本で梅酒と同音で発音されるとは予想しなかったでしょう。
  1. 2019/08/17(土) 07:08:06|
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ユスフザイ弁当屋

  1. 2019/08/16(金) 22:07:40|
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M

風の谷へ帰省するMを含め6人で密談。

というか、結果的に店が貸切状態に。

お盆の夜にネパール料理屋にくる日本人もいませんから。

なお、一階と三階はネパール人がグループでどんちゃん騒ぎしてました。

普通はスープモモやスチームモモのほうが好みですが、ここは、フライドモモがうまかったです。

意外な発見。

パニプリの残った芋をMが食べていましたが、単品で見ると、あてのポテサラがわりになる気もします。

相変わらずの意思疎通の危なかっしさで、スチームモモを注文したつもりがチリモモに。

ボトルのレッドワインがボトルのアサヒビールに。

まあ、ブラフマン一元論の立場からは皆同じ有ですが。

ちなみにここの「生ビール」の指示対象はクリアアサヒです。

  1. 2019/08/15(木) 10:29:32|
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パンストック二号店その他









ランもこんな直射におかれるとは思わなかったでしょう。災難。







  1. 2019/08/14(水) 14:32:51|
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劣等感

卑屈な気持ちや劣等感というのは,長年虐げられた状態にあると,常々感じさせられるに至るものなのでしょうか.

インド哲学だと,西洋コンプレックスを持たずに済むことが多い気がします.

というのも,ごりごりの論書は,日本人は好きですが,実は多くのヨーロッパ人サンスクリット学者の関心事ではないからです.

ウィーンが例外なだけです.

プラマーナやってる,などと言うと,大概,「むずかしいやつね」と嫌な顔をされるのが普通の反応だったりします.

まあ,それが,普通の反応というものです.

ラグヴァンシャあたりのナイスなヴァースから入るのが向こうのインド学ですから,唯識二十論のようなややこしい議論で学部時代から頭が毒されている我々とは好みが違うのは当然です.

というわけで,インド哲学だと,フラウワルナーは例外として,ドイツ語で悩まされることもたいしてありません.

ドイツ語やフランス語に時間をかけるよりも,ヒンディー語やったほうがむしろためになります.

プラマーナも,しかも,仏教論理学だと,むしろ,日本のほうがはるかに情報に恵まれています――北川・梶山・服部・戸崎・桂といった先達のおかげです――から,むしろ,こちらのほうが優位です.

で,何が本題かと言うと,インド哲学ではなくてインド学のほう.

いわゆる,ヨーロッパが本場のサンスクリット文献学.

こちらになると,もう,先行文献がドイツ語ばっかりだったりします.(ものによってはフランス語.)

わたしの先生のひとり.

立派な方で,学生の前では決してネガティブな発言はされない方でした.

彼一流の矜持だったのでしょう.

ばりばりのインド学.

ドイツで博士号.

ならったのは,ドイツの大先生.

留学前も留学中もドイツ語ドイツ語漬けの日々だったことでしょう.

なにしろ,ドイツ語辞書の頭から勉強していった,と聞いたことがありますから.

というわけで,日本でも大先生に習って,その後,当然のようにドイツに留学.

つねにドイツが頭の上にある状態.

しかも,留学した当時は往年のアカデミックなドイツ.

メジャーに加えてマイナーまで取らないといけません.

たしか,インド学がメジャーで,マイナーでは言語学をされていたように記憶しています.

きっと,留学してドイツ語の講義をきいて,聞き取れないドイツ語に悩まされたりしていたことでしょう.

そのせいなのかなんなのか,西洋コンプレックスなのかなんなのか,ときに意外なほど,卑屈な発言をされることがありました.

「わたしにはその気持ちは全然わかりません」

と返しましたが,きっと,時代の差もあるし,分野の差もあるのでしょう.

インドへの入り方の違い.

ドイツ語を通してインドを学ぶ,ということをずっとやっていると,どうしても,ドイツには(そしてドイツ人には)頭があがらなくなってしまいます.

まあ,特定の学問分野の場合は,それが正解なわけですから,それ以外の方途というのは的外れなので仕方ないとはいえ,メンタル的には不健康な精神状態を生み出しかねません.

インドやるのになぜかドイツ.

そして,ドイツに頭があがりません,という状況.

そして,その結果,なぜか卑屈な西欧コンプレックス.

インドやるのにインドから入れて私はラッキーだった,ということくらいしか言いようがありません.

わたしの場合,ウィーンの研究員もしてドイツ語も必要な状況に迫られた(かに思えた)のですが,時代のほうが先に変化して,すでにドイツ語圏でも英語を喋るというのがアリな時代になっていました.

というわけで,多くの人が(わたしのような外国人には)英語で対応してくれますから,ドイツ語で悩まされることは結果としてありませんでした.

というわけで,なんちゃってドイツ語から脱皮することなく終わりました.

英語も,オックスフォードにいって最初の3か月くらい聞き取りに苦労したくらいで済んだので,下手な劣等感を持たずに済みました.

というか,付き合う英国人が,そもそも,インド好き・仏教好き・東洋好きの非典型的な英国人ばかりですから,これは,たとえば西洋哲学を勉強しにきた日本人留学生などとは,まったく状況が違うでしょう.

もちろん,最初の三か月は,サンダーソン教授の情報マシンガンの講義についていけるわけもありませんでしたが,まあ,サンスクリット資料のほうはわかるので,英語が分からなくても,肝心の情報のほうはわかるので,それはそれ.

別に英語を勉強しにきたわけでもないので,わからない英語は放置.

あれで,単位を取らないといけないとかなっていたら,結構たいへんだったでしょうが,お客さんなので関係なし.

というわけで,普通の日本人留学生が陥りがちな英語コンプレックスもなし.(基本インドやってるので,インド英語が分かれば十分でしょ,という逃げもありますし.)

というわけで,ひとむかし前の先生がもっていたかもしれない西欧への劣等感とは幸い無縁で済みました.

よかったよかった,というそれだけです.

ある面では,そういう先達の苦労のおかげで,そこを踏まずに済んだとも言えるわけですが.

ともあれ,メンタルな部分でへんなこだわりを持たされるに至る状況は回避するに越したことはありません.

劣等感というのは,まあ,飛躍の原動力にはなるかもしれませんが,わたしには健全に思えません.

自分に足りないところを頭で補うだけで,別に,心から卑屈になる必要はないからです.

マウンティングのモラハラ状況が不健全なのと同じです.(ということは,西欧コンプレックスも,ダブルバインドなどでうまく説明できるはずです.)

最後は安冨歩さんの「魂の脱植民地化」みたいな話になってしまいました.

最初から植民地になる状況は回避しておく,ということです.

先行研究が薄っぺらいミーマーンサーでよかったです.




関係ないですが,マーンサ(肉)の通俗語源解釈に「彼が(サ)私を(マーン)(報復で食らう)」というのがありますが,これを説明した後にミーマーンサーという単語を見た学生が,「ミーマーンサーも肉と関係あるのですか」と質問してきました.

全然関係ないですけど,通俗語源解釈としては,なにかひねりだしたら面白いかもしれません.

マーンサがレダプリケーションを起こして「肉々しい」とかいう意味にならないでしょうか.

女性形のアーを説明するのが苦労しそうですが.

そういえば,ジョンテイバー,薬院にとまったとき,「肉々うどん」がお気に入りでした.

ちなみに,最近,「資さんうどん」が市内の博多駅に向かう途中にもできてます.

全然好みじゃありませんでしたが.
  1. 2019/08/14(水) 08:03:03|
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修道論

広島のリンポチェからありがたいお話.

一切智者にまつわり,話は修道論へ.

最後は止観双運まで.

ラトナーカラのPPUで以前に修道論は勉強していたので,話の内容はほぼついていけるものでした.

やはり,サンスクリット人としては,ここらへんをまずは押さえておくのが楽でしょう.

つまり,ラトナーカラや,あるいは,カマラシーラ.

修道論に関しては,歴史的に見てもそれほどの違いもなさそうですから,どれかひとつ押さえておけば,あとは,応用が利くでしょう.

その後で,ネタ元のYBhuあたりを見ていけばいいのでは,と予想.

ヨーガの瞑想方面や,また,マインドフルネスも,こういう大きな視点から通時的に論じたものがあればいいのですが,この世にはいまだ何も存在しません.

脳波を図るのも結構ですが,文献に見られる歴史をちゃんと跡付けてほしいものです.

といっても,いまだ文献自体が校訂されてなかったりしますから,一朝一夕にはできないのですが.

50年後くらいには,インド文化圏(上座部・大乗・ヨーガ・タントラ・ジャイナなどなど)の瞑想法・観想法を文献に基づいて最初から最後まで論じたものがでればいいですが.

街中のフィットネスで木になったり死体になったりライオンになったり鶏になったりする人も,まさか自分のヨガが,大元でヨーガーチャーラブーミとつながっているとは夢にも思ってないでしょう.
  1. 2019/08/13(火) 12:44:04|
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つながり

上が繋がっているというのは後進にとっては楽です.

いわゆる世間で言うコネのことです.

そんな資源としての人的つながりが出来合いのものとして与えられていなかったのが我々.

なにもなかったに等しいです.

残念ながら.

別に上を責めているわけではありません.

どこにでかけていっても無名.

その隣で,他大から来ているひとには,むこうの先生が直々に笑顔で

「はろー,X先生は元気にしてる?なにか困ったことあったら言ってね」

と,フレンドリーに話しかけてきます.挨拶する学生も学生で

「いま,X先生はどこに出かけてます」

などと応答できます.

いっぽう,我々はといえば,

「アイアムフロムTキョー」

という挨拶に対して,向こうの先生もつながる友達先生がいませんから,挨拶されても困るだけ,

あっそう,

という態度が見て取れます.

会話終了.

繋がりゼロでも相手にしてくれるのはよっぽどの人格者だけです.

海外でのつながりはどこでもゼロから.

というわけで,戦略的には,上の先生に挨拶しても無駄なので,必然的に,同年代の友達付き合いから,ということになります.

国内も他大に行くと似たようなものです.

むかし,ライデンに遊びに行ったことがありました.

Vェッター先生の授業にでたときのこと.

なんと,K大大御所名誉教授のKY先生もその授業に出てらっしゃいました.

「K岡と申します.東京でインド哲学をやってます」

ともちろん挨拶.

「先生は誰かな?」

「~先生です」

「最近の人は知らなくてね」

で,会話終了.

もうすでに他大に移られて,ほぼ引退したに等しいお年でしたから,実際,最近の人事異動の事情はご存じなかったのでしょう.

それに,その年代のK大の先生は実際,T大と何の関係もないどころか,関心もないのはそうでしょうし,まあ,この程度の挨拶で終了するのは,織り込み済みのようなものです.

私の碩学との対面は30秒で終わり.

学問にたいする尊敬の念は前後で変わりありませんけど.

ひとむかしまえの印哲におけるT大とK大,あるいは,特定大と他大というと,まあ,こんな意識と関係が続いていたのでしょう.

実際の人的交流がないと無意味な敵意と妄想が遍計所執性として湧いてくるものです.

ひとむかし前の出身者には,露骨に特定大学出身者の論文を引かないという態度が見て取れたりします.

T大何するものぞ,という気概なのかなんなのか,まあ,「引用したくない」と「引用する価値なし」の間で揺れ動く心なんでしょうけど,しょーもない日本内部のさざなみの狭量部であることには違いありません.

小さい心.海外から見たら何の意味があるのか謎です.

そんな時代もいまやむかし.

S田さんがPDでK大に行った時代が画期となった感があります.

S田さん,すっかりK都に溶け込んで,国際サンスクリット学会も青年部代表のような感じで,A松御大のもとでせっせと学生を取り仕切ってましたし,HKBにも受かって長く京都にいることに.

8年もK都にいたら,すっかりK都のひとでしょう.(学部の2倍いるわけですし.)

各地を転々とするのはよいことです.

カシを変えろというPD制度には大賛成です.

古巣で自己膨張しても煮詰まるだけです.

おなじところにいると,「アハンブラフマースミ」のb.rnh状態,自己が膨張して夜郎自大が関の山.

全体論も結構ですが,まずは,知覚される別異の世界の多様性をまなぶのが先です.

S田さんも,T大にいる間にポンディもいましたし,K大にいって,そのあとは,HKB中にハーバードにも.

そしていまはTKBの先生に.

行雲流水の見本です.

最近の印哲では,この手の行雲流水は珍しくありません.

I崎さんも,W稲田からT大へ,どこかの時点でプーナもいましたし,学振でハワイにもいました.そしていまやNGYの先生.

なんでイン哲でハワイやねん,という突っ込みがありそうですが,実際,AリンダンChクラヴァルティというニヤーヤの大御所がいましたから,ちゃんと理由があります.

M-マーンサーも誰かハワイに就職してくれないですかね.(アジアに比べると物価高そうなので,多分わたしは行かないかもですが.)

S藤さんも,K大の間にJMプログラムでオックスフォードもいき,PDでQ大へ.その間に海外各地を転々.ハンブルクやウィーンにもいました.

そして,いまは,海外学振でポンディです.

しかし,ひとむかしまえは,このような漂流は例外的でした.

そもそも,T大からK大へという例が印哲の学生ではなかったでしょう.

また留学するにしても,伝手をたどって専門の先生について,一箇所で博論かくまで,というのがほとんどだったでしょう.

わたしから見るとひとつ世代が上の同僚の岡野さんも東北からマールブルクで博論です.

その時代はそれが普通でした.

わたしの世代でも,久間さんはT大からウィーンで博論,梶原さんもK大からハーバードで博論.

それが普通でした.

出身大学で博論を出すということ自体が,そもそも,私の頃から徐々に(上からの圧力で)可能になったというのがありました.(それまでは,文学部の論文博士というのは,えらい先生が年取って出すものという考え方で,青二才が取るなどというのはおこがましい,という雰囲気があったのでしょう.その意味でも,九大出身で九大で割とすぐに博士号を取った往年の戸崎先生は実に例外的です.)

印哲の世界,さいわい,いまや,どこにいても誰かどこかでつながっていますから,先生からの「今度いくからよろしく」の挨拶で簡単にいけます.

実際,H本さんの名前を出しておけば,我々の年代で繋がってない人はいないでしょう.

というわけで,これから留学したいひとにとっては,とても楽な世界がひろがっているわけです.

金さえあれば,どこでもいけます.

パリマルもそういえばフレンドリーすぎてハーバードの先生だというのを忘れてしまうくらいですが,立派なハーバードの教授大先生でした.

ディワーカルもいまやオックスフォードの大教授.

ウィンチェンゾもケンブリッジ.

ハルはハンブルク.

ビルギットはウィーンの研究所の大所長.

フランスも,大学のシステムがややこしくてよく分かりませんが,あちこちに知り合いが就職しています.

夜型人間のヴァンサンもえらいよろしげなポストについています.

こういうのは,実際,全然ちがいます.

知っているのと知ってないのと.

日本人がつながっていると向こうもわかっているので,学生相手といえども,知り合いの日本人先生の学生に邪見にもできないでしょうし.

つまり学生にとっては得です.

見えざる力が働いているわけですから.

というわけで,こういう状況が具現している間に留学するのがお得というわけです.

こんな恵まれた状況がいつまでも続くとは限りませんし.

そのうち,円がもっと弱くなれば,海外に行くひとも珍しくなるかもしれません.

戦後の日本のように.

実際,いまですら,物価の高い北米は,科研もらってても足が出てしまいます.

トロントのIABSのつぎに,ヴァンクーヴァーでWSCがありましたが,トロントで懲りたのでしょう,ヴァンクーヴァーの時は,日本人が減ってました.

わたしも二の足踏みました.

物価の高いところは,かないません.

いずれ,アジアの国々もいけなくなったりするかもしれません.

行ける間にいっておかないと.

そういえば,ここ最近,シンガポールにはまったく行っていません.

以前はよく,インド往復のトランジットで,ぶらぶら観光してましたけど.

人口減少の日本が経済的に沈み行くのはまあ確実でしょうから,今の間に,外に出る機会のある人はどんどん出るにしくはなし.
  1. 2019/08/13(火) 12:07:10|
  2. 未分類

根本裕史「書評・紹介:福田洋一著『ツォンカパ中観思想の研究』」

福田さんの長い本も,要領よく根本さんによりまとめられていますから,まずはこれを読んで全体を掴むのが簡便.

といっても,私はすでに福田さんの本を読んだ後だったのですが,,,

これから読む人は,まず,こちらの書評を読むことをお勧めします.

「肝」が分かります.

科研の細目もそうですが,日本の国立大学法人や関連の視点では,チベット学やチベット仏教学という独立した講座は存在しないに等しいのでしょうけど,そういう意味で,広大における根本さんの存在は貴重です.

今後,あとに続く人がチベット(仏教)学研究をさらに推し進めてくれると,われわれのインド仏教の理解も,チベット人の理解も踏まえることで,重厚感が出てくることでしょう.

チベット仏教というのは,チベット人がインド仏教と格闘したものであり,我々インド仏教(さらにインド思想)を研究するものにとっては,一種の「先行研究」にあたるわけですから.

いくら研究されてもやはり大物に対峙するというのは重要です.

インド思想(とくに中観ということになりますが)をやる上でも,ひとつの見方として,ツォンカパの理解は外せないでしょう.

学部・修士の頃ですが,長尾訳を頼りに福田さんと一緒に読めたのはラッキーでした.

西日本印仏の中観関連の発表を聞いていても,やはり,発表者や質問者の足腰が弱いという感じがありました.

基本的理解がしっかりしてないと,ふらふらといつのまにやら,異なる見解に寄ってしまうことになります.

ともあれ,チベット語もぺらぺら喋れて,お坊様ともツーカー,しかも人格者の根本さんのような存在が近くにいることは安心です.

チベットやりたいひとは広大に.

野村さんのチベット寺にえらいリンポチェもいらっしゃいますから,チベット仏教やるには理想郷です.

100年前の日本人学僧が聞いたら卒倒するようなうらやましい状況です.

顕教はアクセスフリーなので研究も進んでいますが,残念ながら密教に関しては,教えの特性上,部外者にオープンできないことになっている――灌頂も受けてないような部外者にべらべら秘密を喋るとヴァジュラによって頭が破裂するでしょう――ので,素人がお気軽に読める情報がまだまだ少ないのが残念ですが.

とはいえ徐々に進んでいくでしょう.




根本裕史 2018
「書評・紹介:福田洋一著『ツォンカパ中観思想の研究』」
仏教学セミナー,108,40-49

p. 43, 3
自律論証派帰謬論証派の分岐が>自律論証派帰謬論証派の分岐が
  1. 2019/08/13(火) 09:30:25|
  2. 未分類

fumichan



広島駅に帰る途中に文ちゃんへ。









懐かしい、かつて大名にもありながら忽然と福岡から姿を消した原ドーナツ。
  1. 2019/08/11(日) 21:34:14|
  2. 未分類
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