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Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

因三相



自分の専門から少し離れた学会に出るのは耳学問のため。

そこでは、発表者が言っていることを自分で評価するのは難しい。

勢い、質疑応答から、何が問題になるのか、どういう文脈にこの発表を位置付けるかを学ぶことになる。

社会問題などを扱う場合に出る質問で、インド学仏教学ではまず聞くことのない質問形式が、

「事実確認ですが」

というものである。

インドの推論形式で言うなら、これは、パクシャダルマターにあたる。

推論のいわゆる「因の三相」の第一が主題の属性であること、である。

山に煙のあること。

音声が作られたものであること。

等々。

要するに、

甲が乙である、

甲に乙がある、

という事実の確認である。

ここから、一般法則に則って推論するが、その前提となる事実が、パクシャダルマターである。

これの細分に各種あるがいまは措いておく。

ともあれ、質問者はまず、ここの確認をする。

理の当然である。

ここが間違っていては議論が成り立たないからである。

ダルマキールティは例えば、ニヤーヤ学者にたいして、

「そもそも山には壷と同じような意味での形状配列はない」

と指摘する。

次に問題になるのが、推論の肝となる遍充である。

つまり、一般法則。

乙なら必ず丙

である。

現代の質問形式としては、

「必ずしもこの結論は導かれないのでは」

と、反例を指摘することで逸脱不定を指摘してみたり、

「むしろこちらが隠れた本質的な理由となるのでは」

と他の本質的な理由であるウパーディを指摘してみたり、ということになる。


本当のところは縁起の世界であり、甲に乙だけがあるわけでもないし、乙だから丙というのが正しく見えても、実は隠れた理由があるかもしれない。

事実の向こうは複雑である。

我々に理解できるような単純化が説明の際は働く。

統計の向こうで何がうごめいているのか知るのは大変である。

ジャヤンタの言うように、原因総体ということになれば、結果の原因を列挙するのは不可能になる。

議論には言葉による単純化と有自性化が働く。

本当は因果関係において、単独自立不変の原因や結果などないにもかかわらず、我々は言葉を使う際には、単純に、原因や結果という固定した別個のものを前提とせざるを得ない。

世俗有の世界に立たざるを得ない。

世間の言葉はそのようにして働いているからである。

結局、世俗の範囲内で整合性をもってうまいこと説明できていればそれでいい、ということになる。


言語ゲームというのも、つまりは、この世俗有の言語のことであろう。

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  1. 2019/08/17(土) 09:36:29|
  2. 未分類

救世主と梅酒



入ったコンビニの名札を見るとカルキさん。

救世主として移民が降臨する時代が来たとの意でしょうか。

そのとなりがウメシュ。

ウマーの夫のシヴァも、まさか、日本で梅酒と同音で発音されるとは予想しなかったでしょう。
  1. 2019/08/17(土) 07:08:06|
  2. 未分類

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