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Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

nityaな生き方,naimittikaな生き方



ニティヤな生き方などというと,諸行無常を標榜する仏教徒からはお叱りを受けるやもしれぬ.

しかし,ここでいうニティヤは常住の意味ではない.

定期祭でいうところのニティヤである.

つまり,臨時祭(契機祭)であるnaimittikaや願望祭kaamyaとの対比で問題となる定期祭のニティヤである.

決まったときにやるのが定期祭ニティヤ.

毎日の日暮れと夜明けに祭火に献供するアグニホートラ.

文字通り新月と満月の日に行う新月満月祭.

春に行う大規模なソーマ祭.

いずれも基本的なニティヤ祭,つまり,定期祭である.

決まったときに繰り返されるルーティーンワーク,いつものお定まりの最低限の義務としての祭祀行為である.

願望祭はそうではない.

やりたい時に(――ただし指定された手順・時に則って――)やればいい.

こちらは,100%の力で頑張る必要がある.

さもないと目標を達成できない.

で,本題は,よく見る自己実現の生き方.

こちらは,自分の(好きな)目標を立てて人生設計する,というもの.

これは完全に願望祭的な生き方のモデルを念頭に置いたものである.

Aという目標のために必要な手順であるBを行う.

Bを行うことで望んだAを実現する.

AのためのBに沿った人生設計を行う,そして,そのBのための準備Cを今やる,というのが自己実現型モデル.

その人の時間は全て究極の目標であるAに支配されることになる.

Aのために最大限の努力を行う必要がある.

頑張れば頑張るほどAはよりプラスとなるはずである.(そうしないとBという手段への努力が報われないから仮想的にそう立てられる.)

Aのためにある,Aをprayojaka(使役主体・引き起こすもの)とする現在である.

しかし,日々の行動を見ても分かるように,ほとんどがルーティーンワークであり,願望祭的な行動要素というのは僅かである.

いちいち意思決定していたら疲れる.たいがい,無意識でなんとなく行動しているものである.(平日の朝に黒い靴下を取る場合,どれでもいいから,たまたま箪笥の一番上にあるものを無自覚的に取るようなものである.いちいち自由意思によって選択しているわけではない.)

パターン化したほうが楽である.

日々、月々、季節季節、年々のルーティーンワークをこなす,という生き方もある.

親の職業を継ぐ場合もあろう.

なにか自分が意識して望んだAを実現するわけではない.

単にBをやるだけである.

Bは所与の義務である.(義務行為によってAが実現されるわけではない.結果的にAが付随することはあるかもしれないが.)

知らないうちに,意識してそう望んだわけではないが,いつのまにやらそういう道に進んでいることもある.

すべてを予測してAという目標とBという手段を設定,それに従って生きるというのは,たいした自由意思への信頼と事前予測可能性への過度の期待というものではないか.

合理的な人間像というのは期待も含めた遍計所執性に過ぎない.

そうあってほしい,しかし,現実はそうではない.

夢を語るのは文字通り夢があっていいが,なにごとも冷徹な現実から出発すべきである.

自己実現型以外の型も全然ある,ということである.

ひとつを押し付けられるならば,それに反発したくなるのは若者の性.

自己実現の夢に酔う人と,ルーティーンワークで目の前の義務をこなす人.

もちろん,後者においては,その場その場でのやりくりが必要となる.(義務的な祭祀行為においては代用品の使用が一部に認められる.)

義務である以上,最低限の努力で済ませればそれでいい.(当然,Bを行う以外の余白の時間は,この義務に支配されることなく残る.ひとむかし前の公務員的なライフスタイルである.いまは,どこも人員削減でハードワークとなっているので,余白の時間などありようもないが.)

ここでは願望祭のようにプラスを実現するのではなく,マイナスにならないようゼロを保つ最低限の努力が求められる.

してみると,小川さやか氏の「その日暮らし」というのは,自己実現的・願望祭的であるよりかは,むしろ,ある機会・契機に応じて行わざるを得なくなる臨時祭的生き方に近いように思われる.

1.願望祭的:自己実現,夢をかなえる(ゼロからプラスへ)
2.定期祭的:ルーティーンワーク,時々の決まった義務を最低限の努力でこなす(マイナスにならないようゼロを保つ)
3.臨時祭的:降りかかってきたものをその場しのぎの最低限の努力でこなしてかわす(マイナスにならないようゼロを保つ)

マイナスにならないようゼロを保つという義務行為という点で定期祭と臨時祭は似た性格を有する.

いずれも義務である.

やらなくてはならない.

どうしてもやらねばならないのだから,Bを行うためのCが手に入らないならば,Cの代用である安物のC’の使用でも許される.

(逆に,願望祭においては,100%の努力が必要となるので,代用品の使用は認められない.そのものが入手できないなら,夢をあきらめるしかない.)

臨時祭は,文字通り,nimittaという契機に基づいてあるものである.

具体的には,へまをやらかしたという契機に応じて行う修復儀礼のことである.

降りかかったマイナス要因への対処である.

生き方で言えば,降りかかった災難を取り除くために,その場その場で臨機応変に対応していく,対処していく,という生き方になる.

自己実現も不可能,かといって安定した職業もない,となれば,機会・契機に応じて,マイナスにならないようなんとかゼロの均衡を保つしかない.

機に臨むという意味では臨機的と表現してもいいだろう.

高みのプラスを目指すのは,出発点に余裕があるから.

しかし,常にマイナスへの転落圧力にさらされている環境にある場合,戦略としては,マイナスに陥らないよう,ゼロを保つ努力が必要となる.

自己実現の夢に酔っている暇はない.

社長が夢・願望を語るが,社員の全員が同じ型に生きるわけではない.

むしろ,社員は無自覚的・無意識的な定期祭的なモデルで生きるのが大半である.

義務としての出社である.

そこに100%の努力を求めるのは無理がある.

昨今の自己実現型の夢を刷り込もうという授業を見ていると,なるほど,社長とおなじ願望祭型モデルを植え付けようという策略かとも思われる.

自己実現といいながら,案外,100%の努力をしてくれるシステムのコマを作るための策略やもしれぬ.

やりがい搾取というのはその例であろう.(これは夢を語る点で明らかに願望祭型である.)

マイナス転落の圧力が弱いという点で,プラス実現の夢を語れる環境というのはもちろん既に恵まれた社会にある,ということであろう.

しかし,みんながみんな,プラスを目指すわけではない.

みなが願望祭ばっかりやってる社会というのも変である.

現実には,他の生き方もあるし,そちらのほうが実は多数派であり一般的である.

日本社会も貧しくなってマイナスにならないような努力が求められるということになれば,臨機的naimittikaな生き方というのが必要となることになる.

小川さやか氏の主張は,そのような文脈で捉え直すことができよう.

さて,大学人の場合,

1.研究は願望祭
2.授業は定期祭
3.委員会などの業務は臨時祭

というようなことになるだろうか.

やれないなら,あるいは,やりたくないならやらなくていいのが願望祭である.

それを義務としてやらせようと強制すると,「最低限の努力」「代用品」が侵入し,ひどいことになるのは目に見えている.

研究における代用品の安物というのは,ねつ造などである.

最低限の努力は,データの改ざんやネタの盗用といった類であろう.

ともあれ,夢を語ること・語らせることが,逆に,息苦しい生き苦しさの閉塞につながるとは逆説である.

隅々までの時間の支配.

「最低限こなしてくれればあとは好きにして」という余白がなくなった社会というのも怖いものである.

究極の目標に筥○宮のように「○国降伏」を立てて,abhicaaraにまい進し出したら,社会のどこにも余白はなくなろう.

夢を語るモデルが頭に植え付けられていると,abhicaaraという殺生行為も案外すんなりと受け入れられるのかもしれない.

あとはクマーリラに登場願って,「殺生は悪だけど,abhicaaraという行為それ自体は悪ではない,むしろ善である」とでも言わせるか,あるいは,クリシュナに降臨願って,「クシャトリヤの義務にしたがって後先考えるな」とでも言わせれば,矢の雨を降らせる立派なクシャトリヤが完成しよう.
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  1. 2019/08/21(水) 07:39:22|
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