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Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

「東大仏教学への新たな視座」



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公開されてました。

一色さん、山口さん、ありがとうございます。

こういう研究史は、それはそれで楽しいものです。

自分たちの来し方行く末。

やはり、インド人のインド哲学研究と似た部分がありますね、近代における日本人の仏教研究。

近代におけるインドのヨーガも、やはり、似た感じ。

自分が属すはずの伝統をいかに高く売り込むか、という戦略とも関わります。

にしても、村上専精、結構気合の入った熱い人だったんですね。



東大のリポジトリで一色さんの面白そうな論文が隣にありました。

一色論文

サンガバドラのサンスクリットがないのは、かえすがえすも残念です。

あれば、ダルマキールティに至る仏教論理学認識論の前史を別視線から埋めてくれるでしょうけど。

ともあれ、ネタの宝庫。

漢文にアクセスしてくれる日本語論文があるので、日本語人で得しました。
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  1. 2019/10/29(火) 21:25:09|
  2. 未分類

インド映画



*ロボット2.0
ガリーボーイ
ホテルムンバイ
*ムットゥ
カーラ
*サルカール
フライイングジャット

10月に福岡で劇場公開、鑑賞したインド関連映画。

ホテルムンバイは合作なので少し毛色が違いますが。

福岡でこれだけ見られるはありがたいことかもしれませんが、日本でやるとインターミッション入れずに3時間弱を通しでやるのには閉口します。

インド映画のインターミッションなしで、エコノミー症候群になったら浮かばれませんが、そこまではないにしても、さすがに腰が痛くなってきました。

こうしてみると、タミルが4本。

しかもラジニが3本。

大◯晋もタミルがこんなに日本で受容される日が来るとは夢にも思わなかったことでしょう。

*の音楽はRahman。

ガリーボーイは秀逸。

ロボットのシャンカル監督のイマジネーションには毎回驚かされます。

ぶっ飛んでます。

昔の彼の作品にカマルハッサンのIndianがあります。

日本でもインドの必殺仕置き人としてかなり後になってから公開されています。

ポンディで大昔にドミニクと見に行ったのですが、会場一杯のタミル人。

英国人というか白人はドミニク1人。

しかも、ドミニクにそっくりのイギリス植民地官吏がぶっさりと仕置きされてました。

私刑礼賛の情の世界。

さすがにすぐに席は立てず、少し遅れてから劇場の外に。

logos無用の情の世界。

タミルと日本で相通ずるところなのでしょうか。

貪、瞋、痴の三毒をなくしたら、結構な数の映画が成立しないでしょう。
  1. 2019/10/27(日) 23:53:46|
  2. 未分類

dipavali







5時からとありますが、スタッフがぼちぼち集合するのが6時からですし、式が実際に始まったのは7時半。

N◯Kが取材の様子でした。

いずれわたしも、賃金抑制により企業の内部留保とデフレの持続に貢献する移民のイメージ映像にまぎれてテレビにでてるかもです。
  1. 2019/10/27(日) 22:51:23|
  2. 未分類

Tihar







ヴァ◯ュラあたりで盛り上がってた若手グループのやんちゃそうな一団が途中からぞろぞろと参加。

一部はいかにも若者らしく、前左の「不良席」に「かったるいなー」という感じでタバコの煙と共に溜まってました。

しかし彼らも、入ってくるときは、来賓席に居並ぶお偉方の年長者への挨拶は欠かしません。

福岡ネパール人社会のエスタブリッシュト。

若者たちも愛らしい笑顔でペコってました。

年功序列。ヒエラルキー。

一段の中に一際長身のム◯ティさん発見。

いつものようにFBビデオの生中継に熱心な様子。

携帯であっちを写し、こっちを写しと大忙し。

その姿を見ながら自分の携帯に目をやると、自分の姿も彼のFBに流れてました。
  1. 2019/10/27(日) 22:43:45|
  2. 未分類

Naanhouse







広いスペースのナーンハウス。

普段使いには広過ぎて持て余してる感がありますが、こういう集会の時には便利です。

  1. 2019/10/27(日) 19:01:11|
  2. 未分類

有用性の視座?

自分の興味の範囲内で相手の中に役立つものを見つけ出そうとする態度がどのような結果を生むかは想像に難くないでしょう.

ちょうど,植民地期のインドロジーやインドロギーと同じで,金になるものや統治に役立つもの,あるいは,自分が分かるもの,キリスト教との比較が簡単なもの,あるいは,ロマン主義をかきたててくれるようなものに,研究の熱情は向かうことになるのは明らかです.

相手自身に即してではなく,自分の興味に即すと,当然そうなります.

自分の興味範囲で相手を区切ってしまうわけです.

他人の自分評を聞いて,「はて,自分にはそんな面も確かに有るけど,ほんと,それは一面なんだけど」と思うことがありますが,それと同じです.

一部を切り取って喜んでいるだけです.

全体を捉えるというのは,(ディグナーガ的に考えても言葉をもってしては)不可能かもしれませんが,しかし,あれこれの側面を切り取る前に,自分の興味でぶったぎってしまうのも考えものです.

キリスト教との比較という観点で,自由意志というもので一所懸命インド哲学文献をさらえてみても,たいしたものは出てこないでしょう.

磁石を近づけても,そこに鉄がなければくっついてきません.

そこにないものをやみくもに求めても,くず鉄があつまるのが関の山でしょう.

対象に即して全体を捉える,という態度がまずもって重要でしょうが,現実には,もちろん,パラダイムやらに拘束されて,なかなか客観的に見ることができないのが人間.

それを自覚して,できるだけ対象に接する必要があるのはいうまでもありません.

人の気持ちが分かるというのは,そういうことでしょう.(もちろん,自己認識レベルで人の気持ちが分かるわけはありませんから,人の気持ちが類推できる,ということです.)

ミーマーンサーの研究史というものを見ると,まあ,悲惨です.

比較対象がないので,西洋の知識人にはさっぱり分からない対象ということになるでしょう.

せいぜい,法学の観点から,ちょっと似てるということになりますが,現実には,ヴェーダ祭式の込み入った議論が前提にありますから,ヴェーダ祭祀儀礼の知識が必要になりますが,そのヴェーダ祭祀儀礼がそもそもがインド人にとっても時代遅れのものですから,どこをどうあがいても「役立つ」というようなことにはなりません.

せいぜい,ミーマーンサー由来の諺(つまり判例的な解釈原則)が法律解釈の拠り所として役立つくらいです.

歴史を遡れば,クマーリラしかり,ミーマーンサーの重要性は火を見るより明らかですが,研究が遅れてきた一因には,インドで伝統がすたれていたということもありますが,それに加えて,西洋の知的な網に引っ掛からなかった,ということもあります.

つまり,なんだかよく分からない知的体系がある,ということで,切り捨ててこられたわけです.

サーンキヤやヴァイシェーシカなら,簡単に分かります.

こんな感じの哲学体系です,と一言で説明できます.

ヴェーダーンタも神学ですから,これも,わかりやすいものです.

「神学の一種です」といえば終わりです.

しかし,ミーマーンサーをずばっと捉える表現は,西洋にはありません.

聖典解釈学とはいえ,その聖典が,そもそもが,祭祀儀礼についての聖典ですから,祭事哲学でもあり,聖典解釈学でもあり,判例集でもあるわけです.

タルカパーダだけを捉えれば,聖典擁護の論理であり,一種の「言い訳」でもあるわけです.

どれもこれも,ミーマーンサーという学問の一面でしかありません.

自分の興味と自分の頭でもってミーマーンサーやクマーリラという巨像を捉えようにも,虚像だったり,せいぜい,群盲象の妄像となる次第です.

すくなくとも,最初に,相手の言うことに素直に耳を傾けるという態度が必要でしょう.

文献的な意味での参与観察です.

1年2年3年4年と一緒にいて見えてくるものがあります.

文献も同じことです.

巨大な体系を相手にする場合は特にそうです.

マリアナ海溝を相手にするくらいの覚悟で望まないといけません.
  1. 2019/10/25(金) 19:28:22|
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received: 上野牧生・堀内俊郎:世親作『釈軌論』第5章翻訳研究(2)

上野牧生・堀内俊郎 2018
世親作『釈軌論』第5章翻訳研究(2)
佛教學セミナー 107
92(31)-53(70)

p. 86
vipaṣṭā > vispaṣṭā

p. 76
湿らせるべき(*taṇḍula)>湿らせるべき玄米(*taṇḍula)

*pipāsa > pipāsā
  1. 2019/10/25(金) 08:10:12|
  2. 未分類

received: 堀内俊郎:インドにおける『般若心経』注釈文献の研究――ヴィマラミトラ注(1)――

堀内俊郎 2019
インドにおける『般若心経』注釈文献の研究――ヴィマラミトラ注(1)――
東洋学研究 56
165(376)-195(346)

p. 166
今後の議論ための>今後の議論ための

p. 167
上記の文献も適宜参照するとともに>上記の文献も適宜参照するとともに

p. 171
śravana > śravaa

p. 174
百千コーティ>千コーティ

p. 178
New Haren > New Haven

InstitiInstitute > Institute

  1. 2019/10/25(金) 07:56:33|
  2. 未分類

合理的な人間?

なあなあとか,あるいは,いい塩梅で,十分ではないかと思いますが,どうも,プラマーナ論者は,つきつめて考えすぎ,の気がします.

つまり,100%正しいか,あるいは,そうではないか,という高い確度を求めてしまうのです.

一種の病気でしょう.

99%正しければ,もう,十分正しいと思うのですが,そのようなものは,絶対にプラマーナと呼びたくないという病気です.

推論が正しいかどうか,というので,一所懸命,「絶対に正しい」「絶対に逸脱しない」などという盲信へと猪突猛進.

そりゃ,無理でしょう.

はなから.

もちろん,そのような無理あるところを一所懸命考えるところに,あれこれと面白い論法が出てきて,議論が発達したので,こういう無理無理の公案にぶちあたることは,決して悪くないのですが,しかし,つきはなして客観的に見れば,「ごくろうさま」としか言いようがありません.

犠牲者がupamaana.

もともとは,「ガヴァヤは牛のようだ」というような比喩にすぎなかったupamaanaですが,プラマーナに100%の確度を求める中で,そのような本来の比喩は死亡,さっさと別のものに置き換えられてしまいました.

ニヤーヤによれば,「これはガヴァヤという名称を持つものである」という100%の確度を持つ認識,つまり,名称と名称所有物との関係の認識が,upamaanaの実質になってしまいます.

identificationの一種です.

なんやそれ,という感じですが,こんなことを真剣に論じるようになったのも,もとはといえば,upamaanaに100%の確度を求めたからです.

ミーマーンサーでもupamaanaをめぐっては,へんなことになっていますが,いまは省略.

で,議論は疑惑と発動.

合理的人間というのは,正しいと分かって行動する人でしょう.

見込みをもって行動する人.

インド哲学用語では,prek.saaを前提として行動する人,というように表現します.

予想をもって行動する,ですから,ある一定の見込みがあってするのであって,やみくもに行動する狂人ではない,ということです.

当然,プラマーナは,行動の成果とつながってはじめて有用なプラマーナたりえますから,プラマーナは正しい,しかも,(彼らの病気のせいで)100%正しい,ということを求められるわけです.

プラマーナに基づいて行動する,とは,100%正しいということが分かって初めて行動する,ということです.

しかし,本当に現実はそうでしょうか?

ニヤーヤ学派ながら,ジャヤンタは,なんと,これを否定してしまいます.

世間では,疑惑からでも行動して問題ない,と.

実際,我々は,多くの場合,100%正しいと信じて行動を開始するわけではありません.

いけるかなー,くらいの期待で行動するわけです.

これは,インド哲学では,疑惑から発動する,と表現されます.(インド哲学で疑惑というと,厳密には,50・50%でしょうが,しかし,6・4割でも,それを疑惑と呼ぶことに問題はありません.すこしでも疑いがあれば疑惑なわけです.彼らには確率という概念は明確にはないので,probabilityということは,ほとんど問題になりません.すこし残念な点です.)

世間的な事柄に関しては疑惑から発動しても問題ない,ただし,ヴェーダ聖典に関係するような大規模な祭祀に関しては,100%の確度が求められる,というダブルスタンダードがジャヤンタの意図するところです.

つまり,世間に関しては,まあ,どうでもいい,ということです.

ただし,世間での事例も,ヴェーダに少しは役立つことになるので,まったく無用ではない,というのが彼の世間の守り方です.

(役立ち方の詳細は省略.)

ともあれ,我々の日常生活において,実は,プラマーナに100%の確度は全然必要ない,ということです(――ジャヤンタによれば).

「手に入るかも」くらいの疑惑混じりの期待で行動を開始,あとから,「あ,やっぱり正しかった」と分かって十分なわけです.

最初から,「この認識は正しいのかどうか」と吟味する必要はありません.

そういう必要があるのは,ヴェーダ聖典に基づく認識だけです.

日常の営為を一種「ないがしろ」にするジャヤンタのこの見方は,仏教から来たものと思われます.

世俗と勝義との二階建てを認める仏教ならば,このように世間の営為を一段低く見ることに全く問題はありません.

疑惑から行動しようがどうしようが,所詮,世間は錯誤に満ち満ちた世界ですから,そんなもので終わって十分なわけです.

疑惑から行動する,と世間をみなすことに問題はありません.(実際,知覚であろうが推論であろうが,いずれも,本質的には錯誤であり,それに基づいて,聖者ならぬ世間の人々は行動しているわけです.)

ジャヤンタの見方というのも,もとをたどれば,このような世俗と勝義の二階建てを,世間とヴェーダとに転用したとみなすことができるでしょう.

経済合理性などと人間を理想化して,あたかも十分に計算して行動するかのようにみなすのではなく,まあ,所詮は錯誤(と錯誤であっても何とかうまくいってる世界)に基づいて生きているのが人間ということです.

もちろん,本質的には錯誤だけど世俗では正しいという世俗諦というものと,世俗でも錯誤でしかない単なる錯誤とは区別して考える必要がありますが,そこはそこで,また別の話.(つまり,勝義と正世俗と邪世俗という三分になります.)

この三分法が,唯識の三性説とパラレル構造にあるのは言うまでもないでしょう.
  1. 2019/10/24(木) 19:21:27|
  2. 未分類

文献に揉まれる



インド哲学プロパーの文献の場合,和訳となると,実際はかなり難しいものです.

テクニカルな議論が続きますし,専門家が専門家向けに書いたものであって,一般読者を予想して書かれたものではありませんから,初見でいきなり読めるようなものではありません.

やさしいものも,先生が解説して分かるくらいのレベルで書いてあります.

やさしいというのも,実際には,あれこれの議論を凝縮してるので,逆に,難しかったりします.

つまり,先生が解きほぐして解説してくれて初めて成立するようなものが多かったりします.

入門書も意外に,奥が深かったりするのは,そうした次第です.

独習用の教科書というのは存在しないにひとしいといっていいでしょう.

基本,先生の解説付きで初めて成立するようなものが,いわゆる綱要書の類です.

その口頭での註釈をサンスクリット註に書き起こしたものが,良質のコメンタリーというわけですが,初学者がいきなり,そのコメンタリーを読みこなせるわけもなく,結果として,インド哲学を独習ではじめようとなると,壁にぶつかるわけです.

わたしは幸い,ヒンディー訳やヒンディー註をたよりに勉強を始めることができたからいいものの,あれを,まったく構造の異なる英語にいったん置き換えて解説されるなどしても,非英語人にとっては,訳が分からなくなるだけだと思います.

ミーマーンサーの哲学部分の綱要書である『マーナメーヨーダヤ』は,ヒンディーもありますし,英訳もありますが,あれをわざわざ英訳を通して学ぶというのも,いまから見ると,なんだかな,という気がします.

ヒンディー訳(というか補いのついた解説)はそれほど悪くないので,やはり,ヒンディーがあると楽です.

ヒンディーと日本語は語順が似てますから,そのままのナチュラルな感覚でサンスクリットも入ってきますが,英語でいったん語順がぐちゃぐちゃにされると,「サンスクリットには語順がない」などと言ってしまうのでしょう.

英語やドイツ語でサンスクリットを習っていた(習わざるを得なかった)時代はさぞかし大変だったでしょう.

はたして,どの程度まで,サンスクリットをマスターできていたのでしょうか.

辻のような,すぐれた言語学者(つまり言語感覚の優れた人)ならいざしらず,漢文ばかり読んでいたような人がいきなりサンスクリットを英語・独語を通して理解しようとしても,そう簡単にはいかなかったことでしょう.

結局,サンスクリットを読んでも,すぐにチベット訳に逃げたりするのも,心情は分かりますが,学問的には,そのような態度は首肯しかねます.

サンスクリットはサンスクリットで読むべきであるのは自明です.

で,和訳の話.

和訳すると,実力が露呈してしまいますから,多くの人は忌避することになるでしょう.

なぜなら,論文なら,分かる部分だけ訳せばいいですし,そこだけ取り出して議論すればいいので,取捨選択がききますが,和訳となると,まとまった量を訳すことになりますから,なかには,自分のわからないところまで訳さざるを得なくなるからです.

で,インド哲学の場合,ぽろっと出てくる比喩や参照など,あれこれと奥深いものがあります.

いわゆる「常識」というものです.

それを知らないと分かりませんし,また,あれこれの教養が問われることになります.

そういう部分まで含めて全訳を強制されることになるわけです.

で,実力が露呈.

無知がさらされてしまうわけです.

むしろ,そういう部分が出てくることで,新規情報に強制的に接し,あらたな知見を得て成長することができるのですが,一昔前のものを見てると,たいがい,難しい箇所は「さらっと」飛ばしていたりします.

勉強する気も,挑戦する気も,はなから無いわけです.(いまなら用例検索をかければ,大概の問題は解決するのですが,むかしの人はカードでしょうから,カードをどっさり用意してないと問題解決が難しかったというのもあるかもしれません.)

難所は回避.

難しい箇所を飛ばされたら,後々,それを使う人にとっても意味がありません.

誰でもわかるところを得意げに訳されても,皆がつまるところは飛ばしているのですから,はっきりいって,無用です.

学部時代に使わざるを得なかった先行和訳は,そういう印象を持つことが多々ありました.

いまは,どうせ使っても意味がないので,最初からみませんが.

あったとしても,あとから,論文用にチェックするだけで十分です.

最初から見ても,役立つことがほとんどないですから.(見ても間違い探しになるのが目に見えてます.)

以上はひと昔前の話.

最近の和訳は,水準もあがり,ちゃんとした専門知を備えた人も増えていますから,そういうものも幸い少なくなってきました.

水準というのは,そうして,徐々に上がっていくのでしょう.

スタンダードをどこにもっていくか,というのは重要です.

サンスクリットをダイレクトに(つまりチベットやドイツ語などを介してではなく)日本語に移して理解できるひとが増えてきたということでしょう.

サンスクリットのインド哲学文献を理解するには,語源(特に動詞語根と前綴り)の感覚を備えること,合成語の分解が正確にできること,構文(格関係など)を正しく理解できること,そして,インド哲学の常識を知っていること云々というレベルの異なる知識・勘が必要になります.

残念ながら,独習でこれを身につけた人などというのは見たことがありません.

専門的な訓練が必要です.

頓悟・漸悟でいうと,漸悟あるのみ.

ゆっくりとしか身に付きません.

いい先生について学ぶのが一番楽です.

辞書は英語やドイツ語だったりしますが,それを除けば,サンスクリットを日本語でダイレクトに学べる環境がそろっている現代は,良い時代だといえます.

空海や明恵をはじめ,昔の碩学も,現代をうらやましがることでしょう.

インドにダイレクトにアクセスできるという点では,現代も捨てたものではありません.

明恵がついになしえなかったインド留学も,現代なら,そこそこ簡単にできますし.(長期ビザはまあまあ面倒だったりしますが.)

で,なにが言いたいかと言うと,全訳作業というのは,勉強になる,ということです.

その理由は上に述べたところです.

自分の好きなものばかり食べていると知らず知らず偏食になります.

出された物を好き嫌い言わずに食べることで,でこぼこも直るというわけです.

「社会に出て揉まれる」という言い方がありますが,さしずめ,「文献に揉まれる」ということになりましょうか.
  1. 2019/10/22(火) 18:35:51|
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ユスフザイ





  1. 2019/10/18(金) 22:34:58|
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真理論

ひとつの議論ばかり追いかけるのは飽きるので,あれこれやりたいタイプですが,しかし,中には面白いトピックというのもあり,掘れば掘る程,あれこれと面白い議論が出てくるもの,というものもあります.

そういう議論は,そのために論法が開発されていたり,また,重要な論法があれこれと駆使されていたりと,基本の基本から,応用の応用まで,幅広く議論の練習にもなりますし,もちろん,争点にもなりますから,論争史を押さえるにも適当な事例となりますし,対立点が何かを見るのにも良好な視座を与えてくれます.

真理論もそのひとつ.

クマーリラのチョーダナーが間違いなくその論争の出発点.

誰もここを無視しては通れません.

英語にはなりますが,Kataoka 2011で,当該箇所は,テクスト校訂と英訳と,詳しい訳注があります.

哲学的には,ジョン・テイバーが結構昔に論文を書いており,そこから,ダン・アーノルドやラリーも最近は哲学的議論に加わっています.

テイバー以前には,ミーマーンサーの視点からの真理論など,ほとんどないに等しいか,浅薄な理解しかなかったのですが.(ほぼ,ニヤーヤの他律論の視点からのみ書かれていました.無知の知すらない.ミーマーンサーの自律的真は盲信扱い.無知は怖いです.)

本邦では,志田さんに石村さんと,切れ味の鋭い論文がいくつもあるので,日本語でも十分に基本的な議論を追えるほど整備されてきています.(ひと昔前のサンスクリット学者でこれらの細かい議論を扱ったインド哲学系のひとといえば,宇野先生くらいでしょうか.きわめて例外.)

石村さんのTSP研究は重要でしょう.

仏教論理学の方からも,いわゆるpramaa.nabhuuta関連で,praamaa.nyaについて議論が深まっています.

稲見さんのデーヴェーンドラブッディとシャーキャブッディの研究もありますし.

というわけで,ミーマーンサー,ニヤーヤ,仏教と,三方向から眺める材料はそろっています.

福岡にも遊学にきて,イギリスで博論を出したピーターがその後続けられなかったのは残念ですが.

続けてられれば,より総合的に全体像が眺められていたでしょうが.

材料系の論文という点では,まだまだ未整備の感があります.

とくにウンベーカについては,もっと詰める必要があるでしょう.

意外にキーです.

刊本も悪くはないですが,とはいえ,ベナレス写本をチェックしないことには始まりませんが.

Vラガヴァンは写本しか信用してなかったそうですが,まあ,細かい議論をしようと思えば,刊本を疑いたくなるのも仕方ありません.

南のクップスワーミ周辺が出したテクストは慎重に校訂されており,じっくり考えられてますけど,これが,カ○カッタやらベ○レスやらで,あまり信用のおけない写本で新しそうな数本をちょろちょろ見て適当に作ったやつなど,ひどいといったらないです.

区切りもろくにされてないものが,ごろごろありますし.

まともなダンダ(句点)のないテクストにはダンダ(罰)を与えたいくらいです.

NKusのヴィーラ・ラーガヴァ・アーチャーリヤのサンスクリット註を見れば,もうそのレベルの高さに驚くばかりです.

「現代のヴェーダーンタデーシカ」と言われるのも当然です.

ちなみに,ヴェーダーンタデーシカのセーシュヴァラミーマーンサー,ミーマーンサースートラに注釈しているのですが,ヴェーダーンタデーシカが別の読みを前提としているのに,スートラの先行刊本に引きずられて,スートラの読みが間違っているのに気が付きました.

ヴィーララーガヴァーチャーリヤも,ヴェーダーンタデーシカの理解に基づいて一部は訂正を提案していましたが,もう一部にはさすがに気が付いてないという次第.

スートラ刊本も信用できないようなレベルです.

いやはや.

ちなみに,セーシュヴァラミーマーンサーは,ミーマーンサーをラーマーヌジャ派が囲い込むために(つまり自派に取り込んで権威づけるために)書かれたもので,先行する通常の(つまりヴァイディカなバラモン達の)ミーマーンサーとは全く異質のものですから,これをミーマーンサーの伝統と捉えるのは的外れです.

なんかむかしどこかで,「ミーマーンサーも有神論化した」などという言説を耳にしたことがあったので念のため.

ミーマーンサー伝統それ自体の変容とみなすには無理があります.

ただしくは,ラーマーヌジャ派による取り込みと解釈すべきです.(ヴィシュヌ教のバーガヴァタ派については,ヤームナのアーガマプラーマーニヤや,ジャヤンタのアーガマダンバラを見ると,その当時の位置付けが窺えます.)

もちろん,既に権威の確立したテクストに註釈を書くことで自派の権威を高めるというのはインド哲学文献の常套手段なので,程度問題といえばそうですけど.(現代でも,「~先生は」などと,勝手にビッグネームを持ち出して自分を弟子に仕立て上げて,あたかも自分が正式の継承者であるかのような顔をしている人を枚挙するに暇はないでしょうけど.北斗の拳あたりの見過ぎかもしれません.)

長いものには巻かれるのは,インドも日本も今も昔も同じです.

そういえば私も昔,同窓会の席上,対面で一緒に食事させていただきました,N大先生と.

さすがに誰も真正面に座る人がおらず,最下層で下働きしていたわたしが,最後に座ったのが,ぽっかり空いたその席だったという次第.

「きみは何の勉強をしているのかな」

「ミーマーンサーです」

「ミーマーンサーはむずかしいからね」云々.

矍鑠としてまだまだメンタルな衰えは全く感じさせない会話でした.

あちこち講演で呼ばれるというのは,メンタルの維持にはいいのでしょう.

研究室の誰かがツーショット写真を撮ってくれてどこかにあるはずですが,最近見ないので,なくしたかもしれません.

あるいは,研究室のアルバムがどこかにあるならば,なにか残っているやもしれません.

「どこかにこのXはあるはず」と,隠没経典みたいな議論になってしまいましたけど.
  1. 2019/10/16(水) 08:00:56|
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箱崎サスラリガラ



向かいには、お洒落なイニエスタ



となりの二階はこれまたお洒落中華の青いクマ。



同じビルには美容室。



よく見ると、サスラリの「リ」が「り」の平仮名です。

とすると、日本語的には、サスラる、という意味で、サスラり、という連用形から名詞化しているのでしょうか



ナングロ相場を見習ったのか、2種盛り900円



500円。

軍隊上がりの新人コックは、ヒンディーであれこれと喋ってくれます。

お子さんは双子で男の子と女の子だそうです。

結婚当初のカップル写真も見せてくれました。

「いまは妻はモーティーだよ」と嬉しそうでした。
  1. 2019/10/16(水) 07:37:51|
  2. 未分類

二項対立と昇華

Kaalaの場合,背景にある既知の二項対立としては,

白vs黒(=時=死=閻魔)
ヒンドゥーvsそれ以外(この場合は特に新仏教)
ヒンディー(サンスクリット)vsタミル
中央vs地方
北vs南(特にタミル)
バラモンvsダリト(アンタッチャブル)
ラーマvsラーヴァナ(10頭)
浄vs不浄(洗濯etc)
法vs不法(暴力)
非暴力vs暴力
ガーンディーvsアンベードカル
富vs貧困
政治家vs略奪(土地収奪)される下層民
都会の光vs影のスラム
開発vs未開発(後進)
地元民vs国内移民

云々.

ムンバイということもあり,マラーティー要素も若干ありましたが,それを膨らますと複雑になるので,ちょっとだけ.

現実は現実でいろいろあり,これらをドキュメンタリーで描いてもエグくなるだけでしょうが,商業映画として綺麗な映像でラジニを軸に昇華させるところにKaalaの魅力がある気がします.

映像綺麗ですし.

ラジニも素晴らしいですが,敵役ナーナーの迫力なくしては成立しないでしょう.

ジーンズ履いた格好いいスタイルのナーナーのイメージしかなかったのですが,まさか,あんなでっぷりの迫力を出せるとは意外でした.

マサーラー的なお約束で恋愛場面もいれてますが,たるくなるので,もうちょいカットしてもいい感じかも.(女優さんは十分に綺麗でしたけど.なにしろ,もう両人,年取っている設定なので.)

「サルカール」も,恋愛場面がありましたが,かなり削ってテンポがよかったですから,比較して余計にそう感じたのかもしれません.

傘のシーンは何度見ても素晴らしい.
  1. 2019/10/15(火) 08:00:06|
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ISF



















  1. 2019/10/14(月) 22:57:22|
  2. 未分類

イオンシネマ



いつものように,大野城イオンでインド映画上映.

福岡市内ではないですし,車もないと不便なので,さすがにこんなところまで来る人は限定されますが,それでも,回を追うごとに人は増えている気がします.

能天気なヒンディー映画(とはいえ若干の環境問題)に,タミル映画二本の渋いセレクト.

後者は政治(選挙)とカースト.

それにタミル愛.

いずれもアクションが盛りだくさん.

タミル映画は,日本人には少々どぎついかもしれない暴力描写には事欠きません.

ジャヤラリターとカルナーニディのイメージも,いずれ別の顔に変わってしまうのでしょうか.
  1. 2019/10/14(月) 14:44:57|
  2. 未分類

ISF









前のおっちゃんコックがやめて,店主が渡印して連れてきたばかりの新しいコック.

背格好が前のオッチャンとほぼ同じなので,ちらっと見た時には一瞬,同一人物かと思ってしまいました.

全然わかいので,まったく違いますが.

たまたまヴィジャイの「サルカール」を見た後ですが,そのコックさん,名前はサルカール.

覚えやすい.

もう一人の背の高いコックはムサルマーンですが,こちらはヒンドゥーだそうです.

ともあれ,万全の二人態勢にもどり何よりです.
  1. 2019/10/14(月) 13:51:28|
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伊都校内



昨年は二日のうち一日キャンセル。

したがって、晴天を祈り、今年のテーマは燦々。

今年は雨はなかったものの、強風につき、2日とも学祭がキャンセル。

燦々は確かに確保されましたが、風までは考えていませんでした。

いっぽう、芸工の大橋キャンパスは問題なし。

伊都の強風が問題です。

15回授業の皺寄せで、11月からこの体育の日前後に移しましたが、やはり、この季節の設定に無理があるのでしょう。

とはいえ、あちらをたてればこちらがたたず、月曜15回の確保が難しくなるでしょう。

しかも、クォーター制導入で今でもギリギリ。

15回厳格化のそもそもは、厚○省管轄下発の余波だったように記憶しています。

伊都移転と15回。

どちらも「合理的」判断の結果なのでしょうけど、そのせいで、こんなところにきしみが生じているのかもしれません。
  1. 2019/10/13(日) 17:08:16|
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春日「印度的香辛料工場」突伽天女供養定食



三連休は、ドゥルガープージャーターリーと題して豪華な定食。

  1. 2019/10/13(日) 16:57:19|
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九大伊都校内蜜珈琲



訪問研究員到着.

構内案内もかねて,学食の後,ハニーコーヒーに.
  1. 2019/10/13(日) 16:53:23|
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春日「三三三柴棍」餅麵









三連休は、春日にて、インド映画。

Flying Jatt、Sarkar、Kaala。

タイガーシュロフの翌日にヴィジャイのダンスを見ると,どうしても,スピードとキレが劣って見えてしまいます.

ヴィジャイも相当にうまいはずですが.

さすがにタイガーとでは体のキレ具合が違いすぎました.

というわけで,あらためて,タイガーシュロフのすごさを実感.

Flying Jatt,訳者の二人のひとりは,佐藤裕之さんでした.
  1. 2019/10/13(日) 16:43:33|
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サスラリ箱崎







ニューロードの看板がサーガルマータになったとおもったら,いつのまにやらサスラリガラに.

サスラリガラはもともと和白,そして,箱崎に二号店.

そして,最近は,美野島パーティーハウスがサスラリガラ三号店に.

合計三つも展開.

腰の低いオーナーですが,さすが,やり手です.

いずれも(ネパール人学生の観点から)適正な価格でやってますし,メニューもきれいに新調.

学生用のダルバートも600円ですから,これは,みなさん来るでしょう.

一番安いダルバートが700円あたりだと,ぴたりとネパール人学生がこなくなる,という気がしますが如何.

今日も今日で,ネパール人学生がお祭り気分――実際お祭りなわけですが――で生を飲みながら,贅沢に水タバコ.

飲み過ぎたのか,トイレ前で卒倒してました.顔面蒼白.

どこかで見た顔のコックは,聞くと,和白店からの移動.

前の人より断然おいしいです.

さらに,「ありがとうございます」(平身低頭)の一言だけをマシーンのように(オーナーから)研修された(であろう)新人のムキムキマンがいます.

なにやってたのかと(ヒンディーで)聞くと,アールミーでした.

道理で筋骨隆々.

コックの味と価格設定という観点からいくと,箱崎店,まったく問題ないように思いますが,今後どうなるでしょうか.

内装がネパール人向けなので、日本人客に期待して商売するには向いてません。
  1. 2019/10/08(火) 23:27:42|
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SG





シュリーガネーシュならぬスリガネッシュでのダサイン.
  1. 2019/10/08(火) 23:26:29|
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文系で最後まで残ったのは



経済でした.





トラックの走るところが,かつての文学部,英文・印哲・中哲の並ぶ一階の前.

正確な位置すら思い浮かべる目印もありませんが,農場のミツバチの小屋らしきものが残っているようです.





創造・存続・破壊,そして,ヴィシュヌのまどろみ.

あれこれ訳知り風に立派な方々が建設的かつ利益相反的な議論をしていらっしゃるのかもしれませんが,これまでの事例からのbhuuyodar"sanaによって素人が推論するならば,六○松や三○閣よろしく,立つのはあれしかないでしょう.

というか,周囲の敷地で背後にたっているのも,それですし.

新興マンションが増えると,いずれ,カフェ,パン屋,塾などの需要が増えますから,案外,九大生がこんなところまで塾バイトしにきたりして.

ともあれ,福岡ナンバルワンのパンストックは,今後ますます安泰でしょう.

箱崎,市内のようなスペシャリティーコーヒー系のカフェ空白地帯でしたが,そのうち,どこかにできるでしょうか.

中庭にあったはずの立派なメタセコイア三本は跡形もありません。

人知れずさっさと切り倒したのでしょう。

http://kaula.blog110.fc2.com/blog-entry-3026.html
  1. 2019/10/08(火) 23:20:40|
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大法輪11月号

  1. 2019/10/07(月) 19:20:58|
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SG





ラーメン鉢にサモサチャートとは意表を突かれました.

スープモモがラーメン鉢に入ってくるのはよくありますが.

スリガネッシュ博多店.

TRの兄貴コックが,別の店から移動.

というのも,彼が前にいた店は,

明日香
→スリガネッシュ2美野島店
→美野島パーティーハウス
→サスラリ美野島店

への最後の変更に伴い,そちらから異動.

最近のビザの厳格化のせいか,どうも,国外から新たに呼ぶのが難しくなったのか,コックの国内移動のほうが多くなっているのかもしれません.

というわけで,味は,かつてのスリガネッシュ2と同じ.

モモが浸かる,チープなトマト缶のスープがB級のいい感じを醸し出しています.(褒めてます.)

そして,同じような味の再認識がサモサチャートにもanuv.rtti.

お世辞にもpaaka-ku"salaではありませんが,兄貴(元エンジニア)のホスピタリティは最高です.

店内,喫茶店風の洒落た内装で落ち着けます.

昼は近隣のサラリーマン,OLのランチ.

夜はオーナー一家のお友達の若いネパール人が喫煙もくもくで,たむろう店.

隣席の3人は,ネパール語の今どきのラップに載せて,自撮りをSNSにあげていました.

素人のラップにしては,かなり巧みでした.

サラリーマンよろしく,ネパール人の若者も,ボトルキープ.

焼酎ではなくてウィスキーでしたが.

ダサインですが,SNSのネパール筋からは,「騒ぎ過ぎて近隣に迷惑かけて警察よばれないように」というメッセージに,ポリーシュ呼ばれてしょんぼりのネパール人が写ってました.

ほかにも注意書きがあれこれ.(これをこれしたり,あれをあれしたらいけません等.)

ネパールなら無礼講でしょうが,日本だとそうはいかないのが辛いところです.
  1. 2019/10/06(日) 23:02:08|
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Ofuse towa nanika?

みなさん,お金がなくなってきたから,お布施(あるいはその相場)が低くなってきているのでしょうか.(いや,それだけではない,というのが以下.)

対価としてのお布施.

何に対する?

当然ですが,目に見えるものと目に見えないものとの対立で言えば,宗教行為において重要なのは,目に見えないもの.

末木先生の強調するところの冥のほうでしょう.

つまり,いままでは,来世での昇天(あるいはそれと類比的に捉えられた極楽往生など)にたいして対価としての大枚をはたいてきても惜しくはなかったわけです.

しかし,来世(あるいは涅槃を含むあの世)を信じないような世の中になれば,当然,この世の目に見えるものだけに対する対価ということになりますから,しょぼい儀礼にはしょぼい対価が相応,ということになります.

逆に,目に見える効果には,それ相応の対価ということになります.

医療がその最たるものです.

みんな大好きノーベル賞のY中先生.

現代の(目に見える)救済者なわけです.

Q大も医療による救済行為のおかげで,立派な講堂(どこぞの元社長さんのS木さんの立てたS木講堂)が立ちました.

目に見える「救い」と目に見えない「救い」のうちから,目に見えない「救い」がなくなったのが現代日本.

当然,目に見える戒名に差を見つけたり,お願いするお坊様の数くらいしか差別化の方途がなくなってきてしまいます.(馬場ちゃん言う所の,現世内で完結する厳罰主義というのも,プラス効果(福徳)とマイナス効果(罪悪)のうちの,マイナス効果――罪――の話で同じ構造です.)

まあ,一般家庭ならお呼びするのは一人が普通でしょうから,そこには差のつきようがありません.(ダライラマ猊下クラスの見るからに高貴なお坊様ならいざしらず,普通,そこらへんにお呼びするお坊様で,高貴かどうかの差が見た目でつく人は稀でしょう.)

また,お経の短長などに大した違いは見いだせないでしょう.(Mは声がいいので,人の寺のお助け出張で行ったりすると人気だったそうですが.)

結果として,目に見える,はではでDJ法要などに活路の方向性を見出すということになったりします.

ともあれ,目に見えないものを信じない場合には,大枚をはたく甲斐もなくなるというもの.

というわけで,価値をあげるには,目に見えないもの,つまり,来世を信じましょうというべきなのでしょうか.(かつてのように,グロい地獄絵図をこれでもか,というくらいに子供のころから刷り込むか,また,生まれ変わりの物語や本生譚をあれこれとしないといけません.)

望みは薄そうですが.

というわけで,ともあれ,現実分析としては,目に見えないものを信じなくなると,当然,目に見えるものの対価としてお布施を捉えるということになり,当然,目に見える部分に相応して値段が決まってくる,ということになります.

つまり,単なる普通のサービス商品(たとえばマッサージや医療行為)とかわりがなくなってしまうわけです.

マッサージ行為それ自体には大して差がありません(あるいは差の訴求能力がない)から,なんとか,アロマだったり建物だったり雰囲気だったり言葉遣いだったりと周辺で差別化を図って値段をあげるのが常套手段.

しかし,お寺ならいざしらず,昨今の街中の祭礼場だと,その差もつきにくくなってしまっています.

ともあれ,目に見えないアプールヴァを信じなくなったら儀礼もおしめーよ,ということなのでしょうか.

シヴァ教のタントラ儀礼が流行りだす一方で,ヴェーダ祭式もすっかりすたれて商売あがったりのヴェーダ儀礼家や,それを理論的に支えたミーマーンサカも,きっと,同じ悩みを抱えていたのでしょう.

「きょうのダクシナー低いなー」などと,古のバラモンもぼやいていたのでしょうか.

ミーマーンサカのルサンチマンなどと題した論文を書いたら,北米なら受けそうですが.

ちなみに,王権にとって宗教儀礼は権威づけという目的があります.

つまり,それ相応にぶいぶい言わせるという見栄の為,という明確な目的があります.

一種の名誉欲です.

しかし,ぶいぶい言わせる相手がいてこそ,名誉欲も満たされます.

田舎の閉じたコミュニティーであれば,ぶいぶい言わせるのもよし,すくなくとも,それ相応の儀礼を行う必要があります.

でないと,ケチとの悪評が流れるでしょう.

しかし,見栄を張る相手のいない都市部の孤立した住民にとっては,儀礼における名誉欲というのは,意味をなしません.

勢い,儀礼の簡素化という方向に流れるわけです.

目に見えない功徳も信じていないし,権威づけの効能も求めていない場合,ただの儀礼行為に,誰が大枚をはたくのでしょうか.
  1. 2019/10/06(日) 09:26:47|
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106



店に到着すると、既に5組くらい、名前を書いて外に待ってました。

人気。

福岡店4周年、この土日だけのスペシャルミールス2100円。

盆の中央に座を占めるのは豪華にもビリヤニ

はいいのですが、白米がないので、ラッサムの行き場に、はたと困りました。

(一方のサンバルは、ワダで何とか解決。)

1日限定30食の他の皆さん、いかに解決したのでしょうか。

そのまま豪快に飲むと、タマリンドの酸でむせかえる可能性がなきにしもあらずと思い、慎重にいただきました。

キョヘキさん、夜に行ったところ、既にスペシャルは非存在だったとのこと。

drsya-anupalabdhi。

思い返せばこの量はきついので、逆にふつうのミールスもありだったかもと自省。

ちなみに、通常ミールスはドリンク付き。

スペシャルはなし。

つまり、スペシャルのスペシャルさは、おまけ部分にはなく、本体部分にあるとの心意気でしょう。

ドリンク半額サービスに釣られて、ランチにしては生ビールが出てました。

「半額」という事実から「飲むべし」という命令が導かれるのでしょうか。

半額という事実から、飲まないと半額損した気分になるので、この場合、「しないと失墜する」という恐れから発動している気がします。

つまり、飲みたいから飲むという願望祭的な発動理由ではなく、飲まないと損することになるから飲むという定期祭的な発動理由になります。

してみると、「この学問は役に立ちます」「学びたいでしょ」という直線的な売り方だけでなく、「この学問を学んでないと、将来、すごい損失になるかもよ」という、反実仮想に訴える生命保険のような一種の煽り方も、セールストークにはありかもしれません。

基礎科学の場合、実際、そういう売り方のような気がします。

後悔先に立たず、とは、誰が言い出したのでしょうか。
  1. 2019/10/05(土) 23:02:10|
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Takeshi Sakasegawa's live with his friends



An acoustic guitar live (solo-guitar style) by one of my graduate students (left), Takeshi Sakasegawa, with his friends, Okapi and Karlijn Langendijk, at Hakozaki Luther Church.





  1. 2019/10/05(土) 10:58:36|
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研究者の卵の鏡



学振などでラッキーにも自由に研究できる経済的余裕と時間的余裕などができたとして、その先で、その人の地が表れてくるのが興味深いところ。

人によっては、恵まれた環境にあっても、インブツの短い短いの一本でお茶を濁して、その一年の成果が終わり、というひともいるかもしれません。

言語道断。

結局、やらない人は、いくら恵まれた研究環境にあってもやらないし、やれない、ということです。

365日、研究だけしとけばいい理想郷にあってもです。

幸い、いまの印哲界隈では、そんな甘い態度では、その先が全く続かなくなりますので、舐めた態度の人は見当たらないでしょうけど。

応募したけど落ちた他の人の機会を奪って貴重なフェロウシップを受ける以上、受ける本人には道義的な責任が生じます。

斯界に貢献する、あるいは今後貢献するようになる、という責任です。

金もらったからといって遊んでいる暇はありません。

金と暇があるうちにできることに勤しまねばなりません。

海外での長期の研鑽、金と時間と手間のかかる基礎資料の整備、和文英文論文作成、今後のための新たなネタ積み、つまり、長期を見据えた新規資料の解読などなど。

人生で研究だけに集中できる時間など滅多にあるものではありません。

1. 遊んでいる暇はない
2. 金もらった分の仕事を自らを律して行うこと

さらにいえば、

3. 周囲の後輩の面倒を見ること

も入ります。斯界をリードする人材と見込まれたのですから当然の義務です。

自分の興味範囲外の文献を共に読むことで自身の能力も高まりますし、また、瞬発力も鍛えられます。

一方、やらなくていいのは、

4. 研究室や先生の事務の肩代わり

です。いまだに昔の事務助手と混同している先生がいたら、時代錯誤も甚だしい。

院生時代のことですが、面識もない大昔の大先生ほかの葬式の手伝いを半強制で3回もさせられたのを思い出します。

いまなら、何ハラと呼ばれるのでしょうか。

おかげで、その頃は、大きめの葬式の手順に詳しくなりましたけど。

実家から急遽送ってもらった黒のスーツを着て、そこらへんの紳士服屋で買ったばかりの黒いネクタイ締めて、駅から葬儀場への道に立って「会場はこちらになります」と声出し。

大学院の研究と何の関係があるのでしょうか。

まあ、葬式研究の人には関係あるかもしれませんが、すくなくとも、ミーマーンサー研究とは何の関係も見出せませんでした。

煩悶の反問。

研究室の公式行事みたいなものでしたから、サボったら後で何言われるかわかりません。おーこわ。

閑話休題。

ともあれ、学振などで選ばれた希少人材を預かっているのですから、卵を育ててかえしてやれこそすれ、その場で茹でて食べてはいけないのは当たり前。

また、今後のことを考えれば、川村さんのように、PDの期間中にきっちり博論を出版にまで持って行くべきです。

5. 博論の出版

なかなかできることではありませんし、博論だと、まだ外にオープンするには未熟と感じる場合もあるかもしれませんから、状況により一概には言えませんが、しかし、やはり、まとまった研究成果は共有されてこそなんぼ。

もちろん、昨今は、放っておけば自動でいずれネット公開されるはずですが、6年も待つのはキャリア形成の視点からは長すぎます。

批判に耐えるなら結構、耐えないなら、あるいは、無視されるなら、それはそれまで。

とにかく批判の土俵に立つのは重要。

心配しなくても、ほとんどの人はそこまで読み込んだりしませんから、それほど警戒する必要はありません。

出せるうちに、すなわち、博論の内容を自分が覚えているうちにさっさと出しておくべきです。

言わずもがなかもしれませんが、フェロウシップに落ちた人は、次回に受かることができるよう、一層の研鑽を積まねばなりません。

恵まれた時も休みなく研鑽、恵まれない時はさらに研鑽。

修行に終わりなし。

修証一如とあきらめるべし。

極楽浄土は、この世にあるのか、はたまた、あの世にあるのか、という問いかけもあるそうですが、研究者でい続ける限り、人生に極楽が現前することは、いつまでもないでしょう。

受かっても地獄、落ちても地獄、地獄は一定住処ぞかし、のほうが、むしろ実態に近いかもです。

お休みしてる暇はありません。

ラットのようにグルグル走り続けないといけません。

そういうもんだから。


  1. 2019/10/01(火) 23:54:01|
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