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Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

研究者の卵の鏡



学振などでラッキーにも自由に研究できる経済的余裕と時間的余裕などができたとして、その先で、その人の地が表れてくるのが興味深いところ。

人によっては、恵まれた環境にあっても、インブツの短い短いの一本でお茶を濁して、その一年の成果が終わり、というひともいるかもしれません。

言語道断。

結局、やらない人は、いくら恵まれた研究環境にあってもやらないし、やれない、ということです。

365日、研究だけしとけばいい理想郷にあってもです。

幸い、いまの印哲界隈では、そんな甘い態度では、その先が全く続かなくなりますので、舐めた態度の人は見当たらないでしょうけど。

応募したけど落ちた他の人の機会を奪って貴重なフェロウシップを受ける以上、受ける本人には道義的な責任が生じます。

斯界に貢献する、あるいは今後貢献するようになる、という責任です。

金もらったからといって遊んでいる暇はありません。

金と暇があるうちにできることに勤しまねばなりません。

海外での長期の研鑽、金と時間と手間のかかる基礎資料の整備、和文英文論文作成、今後のための新たなネタ積み、つまり、長期を見据えた新規資料の解読などなど。

人生で研究だけに集中できる時間など滅多にあるものではありません。

1. 遊んでいる暇はない
2. 金もらった分の仕事を自らを律して行うこと

さらにいえば、

3. 周囲の後輩の面倒を見ること

も入ります。斯界をリードする人材と見込まれたのですから当然の義務です。

自分の興味範囲外の文献を共に読むことで自身の能力も高まりますし、また、瞬発力も鍛えられます。

一方、やらなくていいのは、

4. 研究室や先生の事務の肩代わり

です。いまだに昔の事務助手と混同している先生がいたら、時代錯誤も甚だしい。

院生時代のことですが、面識もない大昔の大先生ほかの葬式の手伝いを半強制で3回もさせられたのを思い出します。

いまなら、何ハラと呼ばれるのでしょうか。

おかげで、その頃は、大きめの葬式の手順に詳しくなりましたけど。

実家から急遽送ってもらった黒のスーツを着て、そこらへんの紳士服屋で買ったばかりの黒いネクタイ締めて、駅から葬儀場への道に立って「会場はこちらになります」と声出し。

大学院の研究と何の関係があるのでしょうか。

まあ、葬式研究の人には関係あるかもしれませんが、すくなくとも、ミーマーンサー研究とは何の関係も見出せませんでした。

煩悶の反問。

研究室の公式行事みたいなものでしたから、サボったら後で何言われるかわかりません。おーこわ。

閑話休題。

ともあれ、学振などで選ばれた希少人材を預かっているのですから、卵を育ててかえしてやれこそすれ、その場で茹でて食べてはいけないのは当たり前。

また、今後のことを考えれば、川村さんのように、PDの期間中にきっちり博論を出版にまで持って行くべきです。

5. 博論の出版

なかなかできることではありませんし、博論だと、まだ外にオープンするには未熟と感じる場合もあるかもしれませんから、状況により一概には言えませんが、しかし、やはり、まとまった研究成果は共有されてこそなんぼ。

もちろん、昨今は、放っておけば自動でいずれネット公開されるはずですが、6年も待つのはキャリア形成の視点からは長すぎます。

批判に耐えるなら結構、耐えないなら、あるいは、無視されるなら、それはそれまで。

とにかく批判の土俵に立つのは重要。

心配しなくても、ほとんどの人はそこまで読み込んだりしませんから、それほど警戒する必要はありません。

出せるうちに、すなわち、博論の内容を自分が覚えているうちにさっさと出しておくべきです。

言わずもがなかもしれませんが、フェロウシップに落ちた人は、次回に受かることができるよう、一層の研鑽を積まねばなりません。

恵まれた時も休みなく研鑽、恵まれない時はさらに研鑽。

修行に終わりなし。

修証一如とあきらめるべし。

極楽浄土は、この世にあるのか、はたまた、あの世にあるのか、という問いかけもあるそうですが、研究者でい続ける限り、人生に極楽が現前することは、いつまでもないでしょう。

受かっても地獄、落ちても地獄、地獄は一定住処ぞかし、のほうが、むしろ実態に近いかもです。

お休みしてる暇はありません。

ラットのようにグルグル走り続けないといけません。

そういうもんだから。


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  1. 2019/10/01(火) 23:54:01|
  2. 未分類

JSPS

学振の結果がでたようです。

例年と同じく、悲喜こもごも。

やはり、書類に準備をかければかけるほど、結果もよくなるという印象です。

計画は念入りに、文章は推敲に推敲を重ねて。

さらに、あれこれのひとに読後感をたずね、悪印象の部分は削除、好印象を残すための部分を丁寧に書き直す必要があるなと実感。

指導教員ひとりのチェックだと限界はあるでしょうから、やはり、複数人に見てもらうべきだと思います。

ひとに見てもらうためには、どうしても、早め早めの準備が必要になります。

ぎりぎりで出すとなると、誰もチェックする時間がありませんから、書類の推敲が足りなくなってしまいます。

準備に時間をかける必要があります。

日頃、ぎりぎりセーフの提出を習慣(あるいは人によってはエンジン)とする人も、心を入れ替えて、早め早めに準備して、善財童子よろしく、できるだけ多くの先達(PD経験者など)に見てもらう時間を取る必要があると思います。

もちろん、業績はごまかしが効きませんから、毎年さぼらずに、最低限のノルマをこなして、学会発表・論文掲載を心がける必要があるのは言うまでもありません。

また、国際学会も、英文での成果があると印象が違うでしょうから、経済的にも時間的にも能力的にも非常に面倒でしょうけど、やはり欠かせません。

他との差異に意味がある以上、国際学会や国際誌という差は重要になるでしょう。

幸い、九大印哲研究室は、これまでの実績者が多数いるので、先達にアドヴァイスを求めることができます。

S藤 PD&海外学振
M鍋 PD
S藤 DC2
S藤 DC1

(小さい研究室にしては結構な数に見えますが、この水面下では、出したけどハズれた応募書類と推薦書が何倍も累々と転がっているのが実態です。そんな簡単ではありません。臥薪嘗胆が普通。)

挑戦しないことには何事もはじまりません。

自分はまだまだだと委縮する必要はありません。

JSPSに挑戦して、返ってきた評価が低ければ、それは、客観的にそのように見られているだけ、ということ。

さらに精進して、研究成果を積み増しし、研究計画を練り直すだけのことです。

他人による評価が低い、自分の実力はこんなものではないという自負があるならば、中身と外見を鍛え直して、見返してやればいいだけのことです。

一人ではなく複数人の厳正な評価ですから、評価者の側をおかしいと取る必要はありません。

自分の主観や見せ方のほうに問題があると取るべきです。

斯界に貢献する(ことになる)「研究」者の養成としてJSPS特別研究員の制度がある以上、他者の評価をむげに切り捨てるのは自己欺瞞となりかねません。

他人に評価されてなんぼ。

そのためには、書類に真摯に取り組む必要があります。

書類に真摯に取り組めない者が、どうして、論文に真摯に取り組めるというのでしょうか。

隙だらけの書類を書く人がいたとして、では、そのひとの論文成果を信用しろというほうがむしろ無理があります。

JSPSの評価者も、今後の斯界を担う優秀「そうな」人に賭けるわけですから、当然、推論としては、ちゃんとした書類のひとを選ばざるをえません。

それ以外に評価の基準はないのですから。

インド哲学・仏教学となると、まあ、それぞれの枠に1~2人が限界です。

全国から1人しか選べないわけです。

貴重も貴重、稀少です。

斯界の若手のレベルもあがってきて、競争は熾烈を極めていく一方。

自然淘汰の厳しい世界。

斯界の今後の発展のために、どうしても、優秀な人材を残していく必要があります。

「優秀」というのは、やはり、色々な意味でです。

見せ方、魅せ方も必要な能力のうち。

たかが書類と侮っている内はあまちゃんです。

人の評価が得られるように頑張ることも必要です。
  1. 2019/10/01(火) 07:39:06|
  2. 未分類

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