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Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

ケーララ・インディアン・レストラン、福岡









本日はビリヤニも。
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  1. 2019/11/24(日) 15:16:55|
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Kerala Indian Restaurant Fukuoka

















2019.11.10オープン。

ケーララKerala州カンヌールKannur県Thalassery(タリッシェリTellicherry)市出身のサノージSanojさん。

なんでまた多々良に、という疑問が起こりますが、お住まいが近くとのこと。
  1. 2019/11/23(土) 15:16:14|
  2. 未分類



麻辣拌という漢字だったと思いますが、写真の通り、辛味の効いたものあれこれのごった混ぜ。

漢字メニュー解読のあと、オーダー、何がくるか毎回ドキドキですが、ナイスなセレクトでした。

複雑に切られた野菜が何か、ホールの旦那さんに聞いたところ、日本語を思い出しているらしく、沈思黙考すること2秒。

一言

「いも」
  1. 2019/11/20(水) 19:39:33|
  2. 未分類

अन्धाधून

インド映画.

百道に見に行ったら劇場内3人だけ.

レイトショーとはいえ,さすがに少ない.

まあ,わざわざ劇場に見に来ませんよね.

見に行ったのは原題がAndhadhun.

邦題が「盲目のメロディ」.

このタイトルでは全く行く気が起きませんでしたけど,単に,惰性で行っただけでした.

結果当たり.

見ておいて良かったです.

盲目のピアニストの話.

ちなみに副題は「インド式殺人狂騒曲」で,こちらが体を表しています.

このまま.

どたばたのサスペンスといった風で,展開が速いので飽きません.

夜も遅かったので下手したら寝るかと思ってましたけど,眼が冴えました.

女優も,あの可愛かったタブーちゃんが,いまや,妙齢の金持ち美人マダム.

時の経つのは早い.

そして,恋人役には,ネットフリックスのSacred Gamesにも出ていたRadhika Apte.

タミル生まれの(名前からすると明らかに)マラーティー人.

ちなみに,アープテーという名前は,サンスクリット英語辞書の最も有名な「アープテー」の辞書作者の名前と同じ.

いかにもマハーラーシュトラ州プーナ市あたりにいそうな学者家系の名前.

おやじは脳外科の医者らしい.(彼女も大学はプーナのカレッジ.)

インテリ家系.

ちなみに,この映画,インド興業的には大成功.

中国でも結構受けたようです.

中国人にどこがツボったのでしょうか.

監督はマラーティーのシュリーラーム・ラガヴァン.

緻密で論理的.

にしても,ヒンディー語の字幕監訳が先輩なんですけど,ご活躍の様子で何よりです.

わたしがインドに初めて遊びに行ったのが1992年の春ですが,そのとき彼はベナレス留学中.

サンスクリットカレッジでの彼の授業風景を覗かせてもらったのを思い出します.
  1. 2019/11/19(火) 20:28:10|
  2. 未分類

ユスフザイ福岡








マリアンがいると、ちゃんと野菜が入って、ヨーグルトソースもかけるのですが、この日マリアンはチュッティー。

若いパーキスターン兄ちゃんのイムランのみ。

サラダ出すのが面倒だったのでしょう、スペースにご飯を詰め込んでくれたようです。

ちなみに、スイーツの味はいつもとは微妙に違っていまひとつ。

ブレがあるのも家庭風。

これにチキンカレーも購入。

メニュー表を見ると、600+500+500=1600かと思いましたが、イムラン「1800、あ、違う、1700」とのこと。

一枚100円のパンも一枚入れてくれたのかと思い、そのまま払いましたが、入ってませんでしたから、彼の勘違いか、あるいは、メニュー価格表が違うか、あるいは、私の知らない何かが100円分存在するのか、いずれかでしょう。

マトンプラウが、やはり、自分の舌には合っています。

ボスが辛いのがダメらしく、優しい味付けです。

ちなみにメニュー全てがあるわけではないので、最初に今日は何があるか聞かないといけません。

チラシに車の売買まで言及しているのがさすが。

弁当ついでに車買う人も、そのうち、出てくるでしょうか。
  1. 2019/11/19(火) 20:23:50|
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伊都

  1. 2019/11/18(月) 16:34:48|
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Georgia













コーカサスと聞くと印欧祖語DNAが騒ぐかどうかはさておき、グルジアワイン。

ソーマの回し飲みの会とかあれば荘厳祭式主義者としては理想ですが、ともあれ、紀元前6000年の壺ワインの味を空想しながらテイスティング。

「(巨大な)瓶が(ひとりでに)割れる」という例文をカルドナ先生が好んで言及するのを思い出しました。
  1. 2019/11/17(日) 18:53:33|
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わかりやすくすることでわかりにくくなる



英語論文の直し.

さいわいにも,熱心なエディターが細かくあれこれとコメントをつけてくれているので,その注文にそって直しています.

日本語なら日頃,日本語人大学生を相手にしていますから,大学学部生レベルの一般読者であれば,何を分かって何を分からないのか,この表現だと通じないか通じるか,ということも分かりますが,さすがに英語となると,一般レベルがどうなのかは五里霧中.

注文に沿って,やさしく書き換えたり,あるいは,追加したりするしかありません.

日本語もそうでしょうが,英語となると,さらにサンスクリットの基本構造から離れるので,どうしても分かりやすい英語表現と,原語との距離があいてしまいます.

勢い,英語で分かりやすくしようとすると,サンスクリットの原語では自明の意義素やニュアンスや含意が失われてしまうことになります.

一般に寄り添って分かりやすくしようとした結果,原語のニュアンスが消えてしまい,かえって,根本的な構造が見失われ,分かりにくくなってしまうという例です.

翻訳という作業は,どうしても,そういう犠牲を伴ってしまいます.

しかし,哲学のように抽象的な議論の場合,この,分かりやすくしようという作業――つまり直訳から離れる作業――というのは,致命的な結果をうむことになります.

英語でわかったような気になっても,じつは,根本的なところで原語から遠ざかり,結果として,彼らの世界(世界観)そのものから離れてしまっているからです.

フラウワルナーの直訳スタイルが専門家から尊ばれるわけです.

なぜか.

直訳でわかるしかない世界というのがあり,しかも,それが,哲学文献の理解においては決定的に重要だからです.

わかりやすい英語にあらためることで,失われてしまう情報が余りにも多いということです.

アメリカなどは,とくに,一般向けの注文が多い所で,「一般に通じないものは意味がない」というプラグマティズムが浸透しているでしょうから,専門家の直訳調のジャルゴン風味は嫌われる風潮があります.

[ ]などの補い記号も使わない人が多かったりと,一般志向が徹底していたりします.

しかし,そのことで,原語を想定しえない読者は,重要な情報を失ってしまうことでしょう.

自分の足場から一歩も動かないまま,どうして,相手のことを理解できるでしょうか.

自分の世界観を再確認・補強するだけで,おそらく,違和感のある新たな見知らぬ世界観を学ぶことはない,ということになってしまいます.

いいたいのは,例えばイヌイットの雪の細かい分類や、萌黄色や群青色などといった,微妙な分節の異なりの問題だけではなく,世界観そのものが決定的に違っているということです.

寄って立っている世界が違うのに,それを別の世界観で理解しようとすると,通じたようで実は通じていない,ということになってしまいます.(なにやらクワインのような話ですが,そういうことです.)

ともあれ,原理的に翻訳が不可能だとしたら,読者が分かったような気になるくらいにもっていけば,上等というでしょう.

TED風にプレゼンしようがしまいが,情報伝達量に対して違いはないにもかかわらず,TED風のほうが人気があるのと同じで,まあ,見せ方の問題と満足度の問題ということでしょう.

伝わりようがないのならば,せめて,伝わった気にさせるくらいのほうがまし.

たとえそれが,原語から遠ざかっていようとも.

かくして,誤解や誤読による創造的誤読が続くのかもしれません.

まあ,それも,効果的作用という意味では,立派に「役立っ」ているわけですから,存在意義はあるでしょう.

ともあれ,いくら翻訳技術が進化しても,原語を知っているという専門家の強みが消えることはないでしょう.

なぜなら,翻訳で削られた部分には幾多の重要情報がつまっているからです.

精米された白米に栄養がないのと同じです.

白米のほうが食べやすいでしょうけど,食べやすくすることで,あれこれの重要な要素が失われてしまっているのは疑い得ません.

  1. 2019/11/17(日) 09:21:28|
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笑顔



制度の変更以降,激しい内部変化の続く福岡ネパールレストラン業界.

たしかに,あそこも,あそこも,オーナーがかわっています.

10月18日に香椎の再開発エリアにオープンしたムスカン.

語感からすると,息子さんの名前あたりから取ったのでしょうか.

わかりやすいことに,やきとりの成吉の二階.

メニューの通り,なんちゃあない系のインネパです.

誰がオーナーかと思いきや,○○○○の二号店とのこと.

そちらも,かつてのオーナーからは変化していたようで,なかなか,オーナー移動が激しいようです.

ちなみに,頼んだのはレディースセットですが,問題なくオーダー可.

にしても、味わいのある無秩序な建物群を一掃して再開発した結果、更地に立ったのが仮設プレハブ風の焼き鳥だったり、その二階の屋根裏風の空間に間借りしたかのようなインネパだったり、はたまた、コンテナ複数を店舗に改造した居酒屋村だったりと、再開発も香椎エリアのディープな本性までは変えられなかった、ということでしょうか。

カオス万歳。

ちなみに、このチープな剥き出しの階段を見ると、伊都文系のチープ階段を想起してしまいます。

おかげで、ウィーンあたりの宮殿の装飾も豪華な階段にいくと、ベル薔薇ごっこもしたくなるいうものです。

王宮前のビルの装飾を排したせいで、ウィーンの建築家はえらく非難轟々だったそうですが、伊都文系のは、はるかに徹底した機能主義です。

上り下りの機能だけ純粋に追求するとああいう非常階段風になるのでしょう。

仮設的存在。

ウパーダーヤプラジュニャプティを生活空間に徹底した新たな建築思想として、逆に、もてはやすべきかもしれません。

箱崎のプレハブ棟群は、その究極の在り方だったのかもしれません。

  1. 2019/11/16(土) 18:08:49|
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伊都









  1. 2019/11/15(金) 21:20:18|
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辛味と風味と















  1. 2019/11/13(水) 19:50:58|
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九州南アジア研究会

日時:2019年11月30日(土) 
   13時30分~17時  

場所:福岡大学七隈キャンパス2号館(商学部棟)

発表者:

池田篤史氏(福岡アジア美術館)
「教主の肖像ーシク教の美術・信仰・アイデンティティー」

石上悦朗氏(福岡大学)
「インド経済論と地域(地方)・社会研究の接点――かなり限られたレビューから」
  1. 2019/11/13(水) 08:08:06|
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悠久の時間

皆で集まって国際シンポをしたのが2012年.

わたしの場合,英語発表ということもあり,発表の時から,完全原稿を用意していました.

そのあと,あまり改訂することもなく,さっさとプロシーディングズ用に提出したのがいつだったでしょうか.

それから一切音沙汰なし.

最初から数えると,それからはや7年.

ようやく最終校正が送られてきました.

おもに英語を直してくれたもの.

ちゃっちゃと見て,一部,コメントにしたがって追加をして,即日返送.

あちらこちらに悠久の時は流れているようです.

もう出ないものとすっかりあきらめていましたが,まだ,編者に出す気はあったようです.(参照に不便なので、ほかのところから出そうかとも思いましたが,それも面倒なので,そのまま放置していました.)

異熟の時が長い場合もあり,業が無に帰することはないとの教えでしょうか.

牽果から与果まで,さすがに長いです.

しかし,いままでの調子でいくと,本が本当にでるのは,いったいいつになるのでしょうか.

そういえば,むかし,先輩のKさんだったでしょうか,手紙での将棋のやりとりの話を聞いたことがあります.

一手送っては手紙を待ち,向こうが一手の手紙を返して来たら,こちらが二手目の手紙を返送.

なかなか優雅な文通将棋です.

いまさら業績数を稼ぐ必要もないので私の場合は別段困りませんが,若手には悠長&迷惑な話です.
  1. 2019/11/10(日) 12:44:06|
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伊都



平屋の文系食堂。

昔のバラックと比べると建物は雲泥の差。

提供される食事はどっか遠くで作られたかのような味気ないのを温めたか解凍したかような、在宅介護用の弁当と50歩100歩のおよそ火の存在がその場には推論されないような代物ばかりですが、近くにはここしか選択肢がないのでありがたくいただくしかありません。

合掌。

輸送が便利になるとこういう帰結が待っているということかもしれません。

ガーンディーやイリッチの言うことにも一理あります。

当然ですが、ジロー風スパなど、過去の遺物。

その場での火の調理が必要なメニューは存在しません。

学食とはそういうものなので、まあ、定義通りかもしれません。(その場でガンガン調理してくれるマヒドンの学食とはえらい違いです。)

上がる煙は麺類の水蒸気ばかり。

煙の存在がサンディグダアシッダです。




  1. 2019/11/09(土) 09:21:25|
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ナビさん



マトンビリヤニ800円税込。

この近所、他に選択肢が少ないせいか、日本人(九大関係者しか存在し得ません)の姿も増えている気がします。

このマンション一階、左から、スクーター屋、うどん屋、ナビさんハラール、キンコーズ、オシャレ洋食屋。

需要と供給。

うどん屋に入っていってた工事関係者も飽きたのでしょうか、たまにナビさんに入ってくる人もいます。
  1. 2019/11/09(土) 09:11:53|
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Fukuoka, Umi-Mogura



ポラポラの並びにある海モグラ。

唐津に行ったので、唐津つながりでここに。
  1. 2019/11/05(火) 20:20:59|
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Karatsu kunchi









  1. 2019/11/05(火) 08:01:36|
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Karatsu



















  1. 2019/11/04(月) 23:43:40|
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Marhaba

  1. 2019/11/03(日) 21:40:29|
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タイフェス





  1. 2019/11/03(日) 21:39:54|
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与えるということ



ティルパティでは寺院にお世話になった.

寺院といっても,日本で言う「講」の宿泊所のようなものである.

お寺には,信者さん向けの宿泊施設が附属している.

信者は毎日あちこちからくる.

週末ともなれば一杯である.

かれらは,ティルパティ市内から出発して一時間ほどバスに乗った山頂のティルマラにある黄金寺院にお参りに来る.

金持ちの商売人が遠くボンベイなどから泊まりがけてやってくる.


すごい金持ちが来たときなどは,お寺に住まう学生たちもざわざわしている.

「あのひとはすごい金持ちだ」などといううわさでもちきりである.

しかも,そのお金持ちさん,学生に10ルピー(当時で35円)ずつ配ってくれるという大判ふるまい.

みんな一列に並んでいるので,何を待っているのかと思って私も並んでみると,いきなり10ルピー札をくれるではないか.

「いや,いらない」と言うと怪訝そうな顔のお金持ち.

「なんで?(貧乏な)学生なのに」という顔である.

ともあれ,わたしは貰う気はないので列からすぐに離れる.

10ルピーに興奮した友人たちも口々に「もらっとくもんだ」という.

なるほど,バラモンなら,つべこべ言わず,くれるもの(布施)は貰っておくべきなんだなと,この時学んだ.

まあ,別にわたし自身はバラモンでもないので,どうしようが勝手だが,さすがにバラモン学生にまじって勉強している以上,無用な軋轢は避けるべきである.

「次は貰うぞ」と思ったが,次の機会が訪れることはなかった.


ちなみに,施してもらう機会をもったのは,これだけではない.

ある時,ひどい風邪で病院にいき診察を受けた.

小さな町医者である.

お医者さんはさすがに立派な人が多い.

「君は外国からきた学生だ.大変だろう.診察代はいらないから」と言ってくれた.

診察代といっても,日本円にしてしまえば大したことはない.

100円ほどである.

しかし,ティルパティの学生にとり100円は大金である.

学生達は,月々700円の奨学金で生活している.

お寺に住んでいる学生は,昼と夜の食事が無料である.

普段の生活にお金はかからない.

そのほとんどをビハール州の実家に送っている人もいた.

100円が学生に重いのは当然である.

「たかだか100円だから,おごってもらわなくてもいいんだがな」とも一瞬思ったが,その好意を無駄にすまいと,お礼を言って病院を後にした.

体が弱っていたのでいちいち反論するのが面倒くさいというのもあったかもしれない.

いま考えても,素直に受け取っておいて正解だった.

くれるものは,ありがたく,かつ,気持ちよく貰っておけ,ということである.

そこに重荷(債務)を感じる必要はない.


ティルパティの寺院は,昼夜食事つき.

学生は通常,相部屋.

来印当初,わたしも相部屋で,4人と一緒に,ゴザの上で楽しく寝泊まりしていた.

しかし,さすがに日本人の体力で,5人雑魚寝は無理だった.

来て一週間で,ひどい病気になった.

寺院の当主(スワーミー)の計らいで,特別に個室にしてもらった.

当主というべきか住職というべきか,彼は,宗教者でもある.

独特のオーラがあり,とても寛大だった.

まったく見ず知らず,無縁の日本人学生を親切に5カ月も泊めてくれた.

オールフリー.

学生だからである.

そこに何らの負担も感じる必要はなかった.

学生だから無料で当然という感じで皆泊まっていた.

わたしのほかに,サンスクリットの学生はビハールから2人,オリッサから4人,UPから1人.

その他,近くの総合大学の理系学生が2人.

その費用を支えているのは,お参りにやってきては多額の寄付を置いていく信者さんたちである.


日本で生活していると,どうも,他人に恵んでもらうことに負い目を感じる.

実際,相手も恩返しを期待している風がある.

布施文化が薄いからであろうか.

他人の世話になるというのも同様である.

ただほど高いものはない.

与えるという行為,すなわち,ミーマーンサーでいう所の「自己の所有権を放棄して相手のものとすること」は,神とのやりとりである祭祀行為(祭式ヤーガや,献供ホーマ)の本質的な部分である.

財のやりとりが社会生活において最も重要なものであることは疑うべくもない.

それは儀礼とても同じである.

「借りたものは返す」というのは倫理の最も重要な部分である.

神様とても,その法則に従うからこそ,人々は護摩をするのである.

しかし,そうでない心のメカニズムもあるということである.

今風に言えば,皆で支え合うシェアのシステムということである.


森を育てるには時間がかかる.

いまや満開のインド工科大学IITも,創立は1951年に遡る.

いっぽう,植林するどころか,「自己負担」「自己責任」「受益者負担」という新自由主義の論理を掲げて,学生からも金を巻き上げようと虎視眈眈の当今某国.

さもしいというべきか,貧しいというべきか.

30年後がどうなるか,火を見るよりも明らかであろう.

矢内原なら「滅びよ」と言うだろうか.

まあ言われずとも滅びる気がする.
  1. 2019/11/02(土) 10:27:46|
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研究史を振り返る意義



大きい論文,つまり,修士論文や博士論文を書く際には,オリジナルではなくても,やはり,研究史,つまり,これまでの先行研究を振り返るという作業は,ある意味,必須です.

別に,オリジナルの意見を開陳する必要もないのですが,しかし,場合によっては,研究史の研究が少ない場合には,自分で研究史の筋道を立ててやる必要がありますから,この場合は,オリジナルの視点を打ち立てることになります.

しかし,オリジナルかどうか,あるいは,それが穏当か否かはさておき,とにもかくにも,研究史を振り返るというのは,来し方行く末を占うのに,また,自分の研究の位置を明らかに示すのにも(そして自覚するにも)勉強になるので,非常に重要です.

あらゆる研究というのは,ある流れの中にいますから,その流れをできるだけ客観的に,つまり,自分から幽体離脱してもういちど自分を俯瞰するためにも必要です.

通常は,せいぜい,「これまでのミーマーンサー研究」程度のレベルで俯瞰したり,あるいは,もうちょっと細かく「これまでのクマーリラ研究」というように絞ってやったりと,その範囲は色々です.

これが大きくなると,「本邦のインド学を振り返る」「本邦のインド仏教研究を振り返る」さらには「本邦の明治以後の仏教研究を振り返る」などとなったりします.

さすがに一人の手におえるものではないでしょうから,みなで手分けする必要があるでしょうが.

研究史を振り返る意義というのは,すでに述べたように,自分の立ち位置を示すという目的に資することになります.

そのほか,細かく研究史を見ていくと,成功する研究スタイル,失敗する研究スタイル,学ぶべき研究スタイルというものが,おぼろげながらに見えてくるという効用もあります.

その当時の(いまから見れば不毛な)論争を客観的に眺めることができます.

どちらが正解か,或る程度,いまから振り返ればわかるわけですから,間違った人の主張を間違ったものとして(いわば幻覚を幻覚として醒めて見直すように)見直すことができ,どうして,こんなことになるのか,客観的に眺め返すことができます.

これは,熱狂を共有する同時代ではなかなか難しいことでしょう.

同時代にいると,えてして,調子のいい論調や,声の大きい人の主張に耳を貸しがちです.

しかし,ありがたいことに,時間というざるは,真実(らしきもの)だけをふるいわけてくれます.

その当時にも,おそらく,(結果として)御用学者的(しかし本人はそのことに無意識的でいたって真剣)な人の調子のいい主張は,あれこれあったことでしょう.

いまではすっかり無用となったもの.

そんなものも,いまから振り返れば冷静に眺めることができます.

しかし,その当時は,きっと違ったことでしょう.

そんな中から今まで生き残ってきたものが何なのか,いまのいままで有用な研究というものがどういうものなのか,今からなら,それを醒めた目で眺めることができるようになります.

我々の場合,それは,全人格的な直接・純粋の体験などといったものでもなく,主体的な取り組みといったものでもなく,あくまでも,実証的・文献学的な研究だったということです.

地道な積み重ねが可能なスタイルです.

全体だけが存在するのか,部分だけが存在するのかという対立でいえば,後者のアビダルマ的な立場です.

ディシプリンとして,直接経験などといわれても,どうやって学生に伝えるのか,わたしには不明です.

こういうのは,個々人の力量によるところ大なので,まったくその人の個性によるものですから,放っておいても,勢いのある人は好きにやることでしょう.

文献をコツコツ読むというような面倒な作業に身を任せるよりも,まず,自己を主張し,自我を打ち出したいような,声の大きい人はどこにでも常にいるものです.

教える必要があるようなものではありません.というか,そういうのは教えることが不可能でしょう.

哲学者のいう「哲学センス」というものが,実際,教えてどうなるものでもないと同じです.(教えられないものを哲学センスと定義しているからでもありますが.)

サンスクリット文献の場合,哲学科で言われるような「哲学センス」というものは,さほど必要とは思われません.

それよりも,地味に語学に取り組める姿勢のほうがはるかに重要です.

なまじ頭がいいと,文献講読の訓練に飽きたり倦んだりしてしまうことでしょう.

サンスクリットの哲学文献を読めるようになるにも,まずは,石の上にも三年で,それくらいは我慢しないと,独り立ちはできないでしょう.

昔の論文を読むと,本人の中で全体が十分に消化されすっきりと体系だっていて,いかにも頭良い感じがするものがありますが,あのようなスタイルは,模倣してできるようなものではない気がしますが如何.(そして,そのような人の学風については,むしろ,継承する人というのがいない気がします.)

いずれにせよ,自分のできることをする,という大原則から言えば,そのような(備わっているかどうか怪しい)センスに頼ったバルトリハリ風の全体論的な学風よりも,地味にやっていけば皆でなにがしかを達成できるという経量部的な存在論(集まった個々人が全体として持つに至る何らかの結果産出能力)に立つ方が得策の気がします.

したがって,研究コミュニティーというのは重要になります.

突出した個の力よりも,チームプレイというような,なにやらチームスポーツのような話になってしまいました.

悲劇的なヒーローが,逆境の中,ひとりで敢然と立ち向かうというような,カルナ的なドラマも好きですけど,大学で推奨すべきものでもないでしょう.(そういう人は,生まれながらに鎧を身に付けてないといけませんし.)
  1. 2019/11/01(金) 18:53:07|
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