FC2ブログ

Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

研究史を振り返る意義



大きい論文,つまり,修士論文や博士論文を書く際には,オリジナルではなくても,やはり,研究史,つまり,これまでの先行研究を振り返るという作業は,ある意味,必須です.

別に,オリジナルの意見を開陳する必要もないのですが,しかし,場合によっては,研究史の研究が少ない場合には,自分で研究史の筋道を立ててやる必要がありますから,この場合は,オリジナルの視点を打ち立てることになります.

しかし,オリジナルかどうか,あるいは,それが穏当か否かはさておき,とにもかくにも,研究史を振り返るというのは,来し方行く末を占うのに,また,自分の研究の位置を明らかに示すのにも(そして自覚するにも)勉強になるので,非常に重要です.

あらゆる研究というのは,ある流れの中にいますから,その流れをできるだけ客観的に,つまり,自分から幽体離脱してもういちど自分を俯瞰するためにも必要です.

通常は,せいぜい,「これまでのミーマーンサー研究」程度のレベルで俯瞰したり,あるいは,もうちょっと細かく「これまでのクマーリラ研究」というように絞ってやったりと,その範囲は色々です.

これが大きくなると,「本邦のインド学を振り返る」「本邦のインド仏教研究を振り返る」さらには「本邦の明治以後の仏教研究を振り返る」などとなったりします.

さすがに一人の手におえるものではないでしょうから,みなで手分けする必要があるでしょうが.

研究史を振り返る意義というのは,すでに述べたように,自分の立ち位置を示すという目的に資することになります.

そのほか,細かく研究史を見ていくと,成功する研究スタイル,失敗する研究スタイル,学ぶべき研究スタイルというものが,おぼろげながらに見えてくるという効用もあります.

その当時の(いまから見れば不毛な)論争を客観的に眺めることができます.

どちらが正解か,或る程度,いまから振り返ればわかるわけですから,間違った人の主張を間違ったものとして(いわば幻覚を幻覚として醒めて見直すように)見直すことができ,どうして,こんなことになるのか,客観的に眺め返すことができます.

これは,熱狂を共有する同時代ではなかなか難しいことでしょう.

同時代にいると,えてして,調子のいい論調や,声の大きい人の主張に耳を貸しがちです.

しかし,ありがたいことに,時間というざるは,真実(らしきもの)だけをふるいわけてくれます.

その当時にも,おそらく,(結果として)御用学者的(しかし本人はそのことに無意識的でいたって真剣)な人の調子のいい主張は,あれこれあったことでしょう.

いまではすっかり無用となったもの.

そんなものも,いまから振り返れば冷静に眺めることができます.

しかし,その当時は,きっと違ったことでしょう.

そんな中から今まで生き残ってきたものが何なのか,いまのいままで有用な研究というものがどういうものなのか,今からなら,それを醒めた目で眺めることができるようになります.

我々の場合,それは,全人格的な直接・純粋の体験などといったものでもなく,主体的な取り組みといったものでもなく,あくまでも,実証的・文献学的な研究だったということです.

地道な積み重ねが可能なスタイルです.

全体だけが存在するのか,部分だけが存在するのかという対立でいえば,後者のアビダルマ的な立場です.

ディシプリンとして,直接経験などといわれても,どうやって学生に伝えるのか,わたしには不明です.

こういうのは,個々人の力量によるところ大なので,まったくその人の個性によるものですから,放っておいても,勢いのある人は好きにやることでしょう.

文献をコツコツ読むというような面倒な作業に身を任せるよりも,まず,自己を主張し,自我を打ち出したいような,声の大きい人はどこにでも常にいるものです.

教える必要があるようなものではありません.というか,そういうのは教えることが不可能でしょう.

哲学者のいう「哲学センス」というものが,実際,教えてどうなるものでもないと同じです.(教えられないものを哲学センスと定義しているからでもありますが.)

サンスクリット文献の場合,哲学科で言われるような「哲学センス」というものは,さほど必要とは思われません.

それよりも,地味に語学に取り組める姿勢のほうがはるかに重要です.

なまじ頭がいいと,文献講読の訓練に飽きたり倦んだりしてしまうことでしょう.

サンスクリットの哲学文献を読めるようになるにも,まずは,石の上にも三年で,それくらいは我慢しないと,独り立ちはできないでしょう.

昔の論文を読むと,本人の中で全体が十分に消化されすっきりと体系だっていて,いかにも頭良い感じがするものがありますが,あのようなスタイルは,模倣してできるようなものではない気がしますが如何.(そして,そのような人の学風については,むしろ,継承する人というのがいない気がします.)

いずれにせよ,自分のできることをする,という大原則から言えば,そのような(備わっているかどうか怪しい)センスに頼ったバルトリハリ風の全体論的な学風よりも,地味にやっていけば皆でなにがしかを達成できるという経量部的な存在論(集まった個々人が全体として持つに至る何らかの結果産出能力)に立つ方が得策の気がします.

したがって,研究コミュニティーというのは重要になります.

突出した個の力よりも,チームプレイというような,なにやらチームスポーツのような話になってしまいました.

悲劇的なヒーローが,逆境の中,ひとりで敢然と立ち向かうというような,カルナ的なドラマも好きですけど,大学で推奨すべきものでもないでしょう.(そういう人は,生まれながらに鎧を身に付けてないといけませんし.)
スポンサーサイト



  1. 2019/11/01(金) 18:53:07|
  2. 未分類

プロフィール

Aghora

Author:Aghora

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する