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Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

集中最終日









無事に集中の最終日.

つつがなし.

朝から晩まで,学生のように授業に出るとなると,さすがに老体にはこたえます.

夕方5時近くになると,電池が切れてきて,頭の中で文意が焦点を結ばなかったりします.

パワー低下,機能停止.

ともあれ,あれこれと,普段は見知らぬ分野の勉強になりました.

八尾さんに感謝です.

眞鍋と空港までお見送り.

空港内,いろいろな店が入っていて至極便利です.

「福岡のあれを食い逃したー」という人のために,あれやこれやが準備されています.

いつ見ても,もつ鍋屋には人がたかってます.

満員のそちらは遠慮して,隣の「海幸」へ.

メニューがびっくりするほど何でも揃ってます.

ベトナム人バイトが要領よく接客.

空港内の店なので,出てくるのも割と迅速です.

眞鍋の頼んだ川棚風の瓦そば,山口も西日本なので,福岡で出すのもありなのでしょう.

需要あれば供給有り.(遍充関係ではありませんが.)
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  1. 2020/01/31(金) 21:03:15|
  2. 未分類

ヴィナヤ集中

八尾先生による集中講義.

火曜から金曜まで.

岡野教授が紹介で,「Yao (アクセント上下)さん」と発音しているのが気になりました.

わたしは,Yao (上上)さんと発音するのが普通だと思っていましたが.

上下だと,中国人のYaoさんのように聞こえます.




まずは,イントロであれこれ.

基本の基本から,最新の研究状況にいたるまで,あれこれと聞けてとても勉強になります.

律は,これまで,シュミットハウゼン論文でちらっと見るくらいでしたが,研究史という意味でも興味深い.

日本はなんといっても平川彰,海外はショーペン.

ほかにもあれこれと重要な研究が.

平川彰選集の質・量の分厚さをみると,なんでしょう,彼我の差に唖然.

いまどきの大学教授というのは,こんだけの成果を残す時間は物理的にないと思いますが,どうなんでしょうか.

あるいは,現代でも,平川彰の質・量を越えることはありうるんでしょうか?

とても想像できませんが.

ともあれ,偉大な先人の成果を吸収できるよう,もうちょっと勉強します.

まあ,我々印哲のどこの分野も大体同じですが,地味に文献をしっかり正確に読むという作業が基本.

いま読んでいるGnoli本も,見れば見るほど,穴があれこれ.

写本と一緒に見るとなお楽し.

樺写本なので,実際,剥がれ落ちている箇所もあります.

ともあれ,鮮明なカラー写真で写本をチェックできる態勢を整えてくれた先人にも感謝.

こうやって,地味に着実に,あれこれの人々の努力により,徐々に前進していくものなのでしょう.




八尾先生が3年PD滞在したマクマスター,どこにあるのかと思いきや,トロントのすぐ隣でした.




昼は,学内のイタリアン「イトリーイト」に.

夜は,「漁師小屋」に.

イカ刺し,うちわエビ刺し,カワハギ刺しなどなど.





平川彰は別に好きで律を始めたわけではないそうです。

先生に言われて嫌々やってたら、いつのまにやら、あの成果です。

分野の選択など、そういうものでしょう。

次第次第の変化のうちに、なんとなくある方向性が見えてくる。

というわけで、最初は好き嫌い言わずにとりあえず食べてみるのが肝心です。

  1. 2020/01/29(水) 06:33:38|
  2. 未分類

帰謬論者たち



帰謬論者たちが博多に集合.

眞鍋の思い付きではじめたにしては,意外に人が集まった感じです.

彼の人徳でしょうか.

九大勢のほか,東京,京都,広島から.

研究会会場は,伊都キャンパス.

終了後,移動して,天神にて懇親会.

総勢9人.

お寺さん率たかし.

喫煙率も.

煙の知覚(視覚・嗅覚)に満たされました.

他県からばかりかと思いきや,意外に,九州出身者がいて,それにもびっくり.

次回は是非,湯煙のあがる場所にてやろう,という話で盛り上がりました.
  1. 2020/01/27(月) 19:10:46|
  2. 未分類

プラサンガ

須藤君の発表・整理のおかげで,かなり,問題点が見えてきました.

プラサンガ(帰謬法)研究というのをどうやって進めるのか,ということです.

論法自体に関しては,特に疑問はないので,中身については,問題にしても,たいして有益ではない気がします.

それよりも,プラサンガというものが,どう扱われていたのか,どのようなものとして見なされてきたのか,ポジティブ・ネガティブな受容・批判さらには,プラサンガと例えば因の三相との関係など,周辺とのすり合わせ・摩擦,そちらのほうが面白いように思います.

彼らが必死に議論してきたものを見ると,結局,そのような周辺の問題に収斂するようです.

プラサンガが明らかにしてくれるのは,因の三相だったり,因の五相だったりの限界かもしれません.

そもそも,正しい理由が何か,ということを必要十分に定義しようというのは,実は,かなり難しいことで,いろいろと言われてきましたが,しかし,そのいずれも,様々な問題点や反例が挙げられてきて,それに応じて,様々な対処法が考えられてきて,ダルマキールティのパラダイムチェンジを迎えるわけです.

しかし,そうはいっても,ニヤーヤなどのバラモン側は,基本路線はあいかわらずですから,様々な意図のもと,プラサンガを位置付け直そうとします.

結局,ヴァーチャスパティあたりまで,その紆余曲折が続いた,ということになるでしょう.

客観的に見ると,ラディカルなパートラスヴァーミンのanyathaanupapannatva一本槍でいいように思いますが,バラモンにしても仏教徒にしても,そうそう単純に「はいそうですか」と受け入れるわけにはいかなかった,というその葛藤を見ていった方が楽しい,ということです.

下手に伝統があると,自由に何も言えないですから,みなさん大変です.

日本の或る宗派の寺に生まれたら,おいそれと「きょうから私はベジタリアンになります」などと言うのがはばかられるのと同じです.(シュミットハウゼンが論文でそれについて若干の嫌味を言ってました.)

いやいや,みなさん,あれこれと事情があるんですよ,ということで,そこの葛藤が面白いわけです.

ルールのないゲームがゲームとして成立しないのと同じです.

ダルマキールティみたいなひとは,織田信長とおなじで,ルールからして根本的に見直して取っ払ってしまう破壊力を持っているのでしょうけど,まあ,普通の人は,普通に粛々と,調整していこうとするわけです.

ジネーンドラブッディなどを読んでいると,常識人すぎて,巨匠の矛盾の狭間で苦労して,かわいそうになるくらいです.

ともあれ,プラサンガに関しては,思想そのもの――これは簡単に整理可能――よりも,うなぎのような思想史のぐねぐねうねうねとしたうねりとうなりにうながされてうなづいた方が有益である気がします.
  1. 2020/01/27(月) 19:01:43|
  2. 未分類

ハンブルク便り



研究室にドイツから郵便.

なにかとおもいきや,BDKで一年福岡に滞在,そして,無事ハンブルクに戻ったウラディーミルから,研究室の皆にマジパン.

リューベックのもの.

リューベックといえば,大昔にハルとだれかと三人で日帰り旅行をしたのを思い出します.(ハルが純粋に遊び旅行に行くのも珍しい.)

そのだれかがだれかを思い出せませんが.

次に会ったときに聞かないといけません.
  1. 2020/01/27(月) 18:23:59|
  2. 未分類

ナドーネル



これまでとちがって,ドライな感じ.

キーマに黄身.

いつもながら野菜がうれしい.
  1. 2020/01/25(土) 11:25:08|
  2. 未分類

KIR







タタラにあるケーララ・インディアン・レストラン.

オーナーのママがケーララに戻ったので,「おふくろの味」を味わうことはできませんでしたけど,またまた,半年もたてば戻ってくることもありうるとのこと.

ビリヤニとシンプルなチキンカレー.

後者は娑婆系.
  1. 2020/01/24(金) 22:20:41|
  2. 未分類

プラサンガ研究会

帰謬論証研究会(プラサンガ研究会)第一回研究会

帰謬論証研究会 幹事 眞鍋智裕

開催日 2020 年 1 月 25 日(土)~26 日(日)
会 場 九州大学伊都キャンパス・イースト 1 号館 1 階 B106 教室(E-B106 教室)
アクセス:https://www.kyushu-u.ac.jp/ja/campus/ito/

キャンパスマップ:https://www.kyushu-u.ac.jp/f/37269/2019ito_3.pdf

(イーストゾーン○80 の建物です)
*JR 筑肥線九大学研都市駅から昭和バスの 4 番乗り場(九州大学イーストゾーン行)から乗車.「九大中央図書館」
あるいは「九大イーストゾーン」の停留所で下車.「九大中央図書館」で下車した場合は,目の前のエスカレータ
ーを上がるとイースト 1 号館があります.「九大イーストゾーン」で下車した場合,二つ建物があるうちの右側の
建物がイースト 1 号館です.

1 月 25 日(土)研究会
13:00-13:10 研究会の趣旨の確認

研究発表

13:10-14:40 須藤龍真(九州大学大学院博士後期課程・JSPS 特別研究員 DC1)
「論証対象の確定と必然関係――anyathāsiddha を巡って」

――休憩――

15:00-16:30 佐藤智岳(九州大学大学院博士後期課程)
「無分別状態での説法を論難できるか」


1 月 26 日(日)研究会

研究発表

10:30-12:00 眞鍋智裕(JSPS 特別研究員 PD)

「svaprakāśa 論証における pramāṇa について――シャンカラ派の事例」

――昼食――
全体討論
13:30-15:30

---------------------

帰謬の会などというと,バラモン的には,Vaita.n.dikaの会と同じですから,自分の論を立てずに,相手の論の突き崩しだけを行い,曲解・詭弁的論駁・敗北の根拠といった邪道系討論テクニックを駆使した殺伐とした会を想像させますが,幹事によれば,和気あいあいとやるつもりだそうです.

最終的には,プラサンガからプラサンナ(心が澄んだ状態)になるのでしょうか.
  1. 2020/01/21(火) 07:42:36|
  2. 未分類

日経にオノちゃん



2020.1.20
日経朝刊
文化36面

  1. 2020/01/21(火) 00:35:00|
  2. 未分類

Moro 2019

Metalogic in East Asia:
Discussion on the Antinomic Reason (*viruddhāvyabhicārin) in P'an piryang non
Moro Shigeki
International Journal of Buddhist Thought & Culture
Vol. 29
No. 2
69-91




p. 71
Niyāya > Nyāya

p. 78
We can conjecture that Wonhyo used a kind of reductio ad absurdum.


とありますが,なぜ,背理法(帰謬法)になるのか,英語で書かれているので,いまひとつ師さんの意図を掴み損ねているかもしれませんが,どうも,わたしには,帰謬ではなく,残余法(消去法)だと思えるのですが.

ロジックを整理すると,

因は正因・不成立因・不定因・矛盾因のいずれかに分類される
相違決定は正因でもなく,矛盾因でもなく,不成立因でもない
ゆえに相違決定は不定因に分類される

というようなことなので,消去法pariśeṣaでいいような気がしますが,なにか見落としているのでしょうか?

護山あたりに聞いておいてもらいましょう.

p. 79
For any reason h(h') of the antinomic reason


とありますが,遍充式を述べているので,あくまでも,あらゆる因について当てはまると思うので,For any reasonとなるのであって,of the antinomic reasonという限定は不要のように思いますが,どうなのでしょうか?

つまり,なんであれ或る理由について,もしそれが二条件を満たしているなら,それは相違決定である,との意図なら分かりますが,なんであれ或る相違決定について,もしそれが二条件を満たしているなら,それは相違決定である,というようなことは,意図されてない気がしますが.

注の26を見る限り,無限定の理由についてのように思いますが.(Whatever ....とあります.)

いまひとつ,最後のトートロジーを生み出すことになる,最初の限定(....... of the antinomic reason)の意図が分かりません.

英語なので,なにかのニュアンスを掴み損ねているのかもしれませんが.




ともあれ,インド人にとっても元曉にとっても,誰にとっても問題となるところは同じなので,面白いところです.

さらに,そこに,写本(伝承)の問題まで加わって,面白さ倍増です.
  1. 2020/01/20(月) 19:30:07|
  2. 未分類

世界哲学史目次

1巻(古代Ⅰ) 知恵から愛知へ
序 世界哲学史に向けて 納富信留
1 哲学の誕生をめぐって 納富信留
2 古代西アジアにおける世界と魂 柴田大介
3 旧約聖書とユダヤ教における世界と魂 髙井啓介
4 中国の諸子百家における世界と魂 中島隆博
5 古代インドにおける世界と魂 赤松明彦
6 古代ギリシアの詩から哲学へ 松浦和也
7 ソクラテスとギリシア文化 栗原裕次
8 プラトンとアリストテレス 稲村一隆
9 ヘレニズムの哲学 荻原 理
10 ギリシアとインドの出会いと交流 金澤 修

2巻(古代Ⅱ) 世界哲学の成立と展開
1 哲学の世界化と制度・伝統 納富信留
2 ローマに入った哲学 近藤智彦
3 キリスト教の成立 戸田 聡
4 大乗仏教の成立 下田正広
5 古典中国の成立 渡邉義浩
6 仏教と儒教の論争 中島隆博
7 ゾロアスター教とマニ教 青木 健
8 プラトン主義の伝統 西村洋平
9 東方教父の伝統 土橋茂樹
10 ラテン教父哲学 出村和彦

3巻(中世Ⅰ) 超越と普遍に向けて
1 超越と普遍への知 山内志朗
2 東方神学の系譜 袴田 玲
3 教父哲学と修道院 山崎裕子
4 論理と真理 永嶋哲也
5 自由学芸と文法学 関沢和泉
6 イスラームにおける正統と異端 菊地達也
7 ギリシア哲学の伝統と継承 周藤多紀
8 仏教・道教・儒教 志野好伸
9 インドの形而上学 片岡 啓
10 日本密教の世界観 阿部龍一

4巻(中世Ⅱ) 個人の覚醒
1 都市の成長と個人の覚醒 山内志朗
2 トマス・アクィナスと托鉢修道会 山口雅広
3 存在と本質 本間裕之
4 イスラーム哲学 小村優太
5 情念と倫理 松根伸治
6 中世の認識論 藤本 温
7 中世哲学の総括としての唯名論 辻内宣博
8 朱子学 垣内景子
9 鎌倉時代の仏教 蓑輪顕量
10 中世ユダヤ思想 志田雅宏

5巻(中世Ⅲ) バロックの哲学
1 中世から近世へ 山内志朗
2 神秘主義 渡辺 優
3 経済と倫理 山内志朗
4 近世スコラ哲学 アダム・タカハシ
5 イエズス会とキリシタン 新居洋子
6 神学と哲学 大西克智
7 科学論と方法論 池田真司
8 朝鮮思想と日本 小倉紀蔵
9 明時代の中国哲学 中島隆博
10 朱子学と反朱子学 藍 弘岳

6巻(近代Ⅰ) 啓蒙と人間感情論
1 啓蒙の光と影 伊藤邦武
2 さまざまな道徳感情論 柘植尚則
3 社会契約というロジック 西村正秀
4 啓蒙から革命へ 王寺賢太
5 啓蒙と宗教 山口雅広
6 植民地独立思想 西川秀和
7 批判哲学の企て 長田蔵人
8 イスラームの啓蒙思想 岡崎弘樹
9 中国における感情の哲学 石井 剛
10 江戸時代の「情」の思想 高山大毅

7巻(近代Ⅱ) 自由と歴史的発展
1 理性と自由 伊藤邦武
2 ドイツの国家意識 中川明才
3 西洋批判の哲学 竹内綱史
4 資本主義経済の批判 佐々木隆治
5 進化論と功利主義の道徳論 神崎宣次
6 数学と論理学の革命 原田雅樹
7 「新世界」という自己意識 小川仁志
8 スピリチュアリスムの復活 三宅岳史
9 インドの近代思想 冨澤かな
10 「文明」と近代日本 苅部 直

8巻(現代) グローバル時代の知
1 分析哲学の興亡 一ノ瀬正樹
2 大陸哲学 檜垣立哉
3 ポストモダン 千葉雅也
4 ジェンダー 清水晶子
5 哲学と批評 安藤礼二
6 イスラーム 中田 考
7 中国の現代哲学 王前
8 日本の哲学の連続性 上原麻有子
9 アジアの中の日本 朝倉友海
10 アフリカ哲学 河野哲也
総論 伊藤邦武




ないものねだりは承知で勝手な注文をつけるならば,,,,

インド(チベット)仏教関連で哲学っぽいものを,という趣旨で考えた場合,目次だけから判断するに,すべて2の下田先生に丸投げしている感がありますが,一本だけでは荷が重いのではないでしょうか?(下田先生の専門から考えるに,経典からの説明が中心になるでしょうし.)

まだ第二巻は未刊なので,中身がどうなるのかは知りませんが,やはり,中観・唯識は,ずっとチベットまで伸び,さらに,中国・日本まで来ますから,もう一人くらい,中観・唯識のいずれかで,インド・チベットくらいの展開が見られるものがあってもよかったかもしれません.

東アジア仏教の展開においても,発想の源になっていますから,やはり,論書の展開を,もう少し詳しく伝えてもよかったように思いますが.

より哲学的(論書的)な観点から書けるとなると,やはり,後代のチベット仏教あたりから俯瞰できるひとがあっても良かった気がします.

まあ,中観・唯識に関しては,すでに余所でいくらでもあるので,わざわざこのシリーズで扱う必要もないかもしれませんけど.

それに,すでに,ぎりぎりいっぱいで,入れる余裕などないでしょうけど.(しかし,たとえば,日本哲学・日本思想というにしても,その発想の大元にある中観的なものの見方について,押さえる必要がでてくるでしょう.あるいは,中観など完全に無視して,東アジア仏教の思想展開が考えられるのでしょうか.真諦も南都仏教の人もびっくりでしょう.)

しかし,純粋に「高度な哲学」「入り組んだ思索」ということでいうと,チベット仏教を除くのは,かなりバランスを欠いている気がします.

どこかで触れないと,という気はします.

時代的にどこに入れるかは難しいところですが.

ダライラマ猊下も,まさか,「世界哲学史」の中で完全無視されるとは思わないでしょう.

この手のシリーズは,取捨選択が大変です.

分野のあてがついても,単純に,書いてくれる人がいない,という場合もあるでしょうし.(忙しくて断った方もきっといらっしゃることでしょう.)

現実的には,時代区分で機械的に作った各お題から担当者に割り振るよりも,availableな人から逆算して目次を組み立てたほうが,いいものができるのかもしれません.

演繹的よりは帰納法的.

さらに現実的には,両方なのでしょうけど.

往還.

わたしがインド・仏教関係の哲学・思想でもし作るならば,ぱっと思い浮かぶところで,あれやこれやの各先生方には,お願いするところですが,おおかた,断られるかもしれません(笑).

この手のものは,タイミングもあるのでしょう.

ともあれ,昔なら単行本で出したようなシリーズでしょうけど,いまや,新書じゃないと,誰も買わないのでしょう.




執筆者紹介の頁の稲村氏の項(私の買ったものは電子版なので頁数なし)

(『思想』一一四三号など > (『思想』一一四三号)など

括弧が閉じられてません.
  1. 2020/01/20(月) 08:16:45|
  2. 未分類

学会のスリム化

学会がハガキ連絡をやめてメールに統一しました.

http://www.jaibs.jp/conference

賛成です.

現実問題として,補助金も切られたようで,金がないということでしょうから,これしか選択肢がないので,誰も反対できないでしょう.

「メール使わない会員はどうするんだ」

というような時代錯誤の反論もあるかもしれませんが,英断です.

事務局(T大印哲関係者)の不要な労働負担(印刷・発送業務)も大幅に減ることでしょう.

簡素化.

巨大になり過ぎた学会は,お役所仕事と同じで,えてして,サービス過剰の方向に走り,つまらん肥大化をしがちです.

その結果,(経済・時間・労務)コストが増大します.

そして,学会本部の担当者――ポスドクの中からそれように雇われている一人と学会嘱託――に過大な業務負担がのしかかります.

そんなことも想像できない人は,学会本部に過剰な期待を寄せてしまうのでしょう.

「ハガキ代×会員数」の費用が,ネットで無料で済むのですから,そうしない手はないでしょう.

広大と九大でやっている西日本インド学仏教学会は,昔はハガキでやっていたそうですが,私が九大開催時の担当になってからは,面倒なので,全部メール連絡にしました.

「ハガキ連絡しか無理な人は?」というような意見もあるでしょうが,そもそも,広大と九大の院生がメインの対象です.

それでうまくまわっています.

それどころか,昔より,活発な会となっています.(交流のある京大関係者からも参加者があったりするので.)

応募多数,枠にいっぱいいっぱいで,たまに断らざるを得ない事態もあります.

印仏学会も,会員の中で発表する人は,各大学の院生,先生がメインです.

連絡はネットで十分でしょう.

ネットにしないほうが意味不明です.

さらにいえば,業務負担ということでいえば,懇親会準備などに労力を割くのは無駄です.

あまりにも大きな懇親会は,開催校の業務負担能力を越えている気がします.

思い切ってやめるべきではないでしょうか.

教室での発表も,それぞれの教室でやってもらえばいいわけで,いちいち,模造紙に発表者の順番を印刷するなどの手配は不要だと思います.

さらにいえば,プログラム印刷も不要です.

ネットに載せておけば,事前にダウンロードすればいいのですから,それで済むでしょう.

もう少し,担当者の業務負担を減らすために簡素化を考えたほうがいいでしょう.

大事なのは何かということです.

それは,若手の発表機会であり,論文のための雑誌です.

荘厳な儀礼ではありません.

また,久々に会う年配者同士が慣れ合う事後の飲み会でもありません.

各教室のタイムキーパーと司会とを決めさえすれば,あとは,各教室で勝手に回るはずです.

金もない,労力もない中で,なんとか回すためには,簡素化を進めるべきでしょう.

現況において,学部生もわずか,院生もわずか,助手もなし,先生も数人というような研究室の場合,開催校引き受けが現実的に不可能なのは当然です.

「身の丈にあった選択」が必要です.(教証:文科大臣)

仲間内の事後の飲み会手配は,各グループ,そういうのが得意な人にお任せすればいいでしょう.

偉い先生に会いたいという人は,日中に挨拶すればいいだけのことです.

そのために,休憩室のコーヒー類を充実させた方がましです.

そんなつまらんことのためにわざわざ大々的に懇親会を開く必要はありません.

そもそも同じ会場にいれば,いくらでも機会は見つかります.

縮小経済の中,不要なものについてはゼロから見直す時期が来ているということです.
  1. 2020/01/17(金) 19:54:17|
  2. 未分類

ユスフザイ



早い時間はマリアン、遅い時間はパーキスターン人の兄ちゃん。

奥の部屋も完成したのでスペースは余裕。

金曜日のハイタイムはぎゅうぎゅうだそうですが。

わざわざ、その時間にお邪魔しようとは思いませんが、しかし、その時間でないとない特別メニューのあるのが悩ましいところ。
  1. 2020/01/17(金) 19:49:40|
  2. 未分類

研究員の時間

さて,研究所などの研究員の場合,定義上は,研究だけに専念できるわけです.(現実は様々ですが.)

大学で教えるとなるとちがいます.

当然,授業もありますし,委員会もありますし,あれこれあるわけです.

つまり,細切れの時間で研究をせざるをえません.

しかも,優先順位的には,授業,委員会,余った時間(余暇も含む)での研究というようなことになります.(忙しいときには,日曜大工ならぬ,日曜研究者みたいなことにもなりかねません.)

授業優先です.(なかには,業務優先という人もいるかもしれませんが,多くの人が,バッティングする場合には,「授業があるのですいません」といって,委員会のほうを休みます.迷惑かける相手が学生になる場合には,やはり,そちらのほうを考慮するのが普通です.)

修士,博士というのは,勉強だけに専念できる時間のはずです.(実際には,学費のためやら何やらでバイトがあったりでしんどかったりするのですが,それはさておき.)

恵まれている場合には,それだけに使えます.

インド留学をすると,友達もまわりにいないので,時間がたっぷりあります.

惰眠をむさぼろうにも限界があります.

暑いと昼に寝ようという気にもなりません.

というか,午後に寝ると,ぐっしょり汗かいてどっと疲れて必ず体調壊すので回避していました.

しんどくても,扇風機の下でぼっとするか,どこか空調のあるところにでかけてじっと耐え忍ぶかするほうが得策です.

学振DCは,まだ学生でもあるので,単位をとる必要はありますが,基本,バイトもしなくていいので,たっぷりと時間があるはずです.

PDは言うまでもなし.

また,研究所の研究員も,PDと似たようなもので,自由に研究を進めることが許されています.

一番めぐまれた環境.(現在だけが存在するという経量部的観点からは。つまり将来の不安を除けば。)

そういう時間というのは,大学に就職すると,ほんとにないので,遊ばずに勉強しておく必要があります.

とくに,じっくりと大きいテキストに取り組むなど,時間のかかる作業は,記録(ノート)も含めてちゃんと残しておくとあとあと便利です.

研究助手の時だったでしょうか、カルカッタの図書館仕事にでかけたときのこと,持って行ったのはPVSVのニョーリ本一冊だけ.

図書館で写本の注文仕事が済むと,あとは待つだけ.

それで,ひたすらカフェで(というか場末の食堂をカフェ使いして)PVSVを原文で読んでました.

最初は全く分かりませんが,前後しながら何十回も試行錯誤しながら読んでいくと意味が徐々に通じてきます.

そんな悠長な作業ができるのも,24時間,時間が自由に使えてこそです.

時間がないとできません.

忙しいならば,さっさと読まないといけませんから,分からないところはカルナカ註をぱっぱと見ながら,さっさと理解していくでしょう.(山に登るのに,あれこれと道具を使うのと同じです.)

しかし,徒手空拳で,なにもなしに原文だけ読むのも楽しいものですし,力をつけるにも役立ちますし,なによりも,著者と一対一で対面する感覚があります.

きょうは,朝起きて授業に出かける前に1頁ほどは読めるかと思いきや,気が急いて集中もできず,結局一行も訳せませんでした.

そうこうしてるうちに日常の中に朽ち果てていくのでしょう.

諸行無常.

サンスクリットを読む時間もなくなったら終わりです.
  1. 2020/01/16(木) 23:33:24|
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九大ニュース

http://www.kyushu-u.ac.jp/f/37808/20_01_07_01.pdf
  1. 2020/01/16(木) 19:29:46|
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インド哲学の(説明の)むずかしさ

人に説明するのが面倒,というのは,どこの分野も大なり小なり同じでしょうけど,しかし,事実を説明するのと,抽象的な思考を説明するのとでは,そのわかりにくさの違いというのは歴然です.

思考の筋道というのは,そうそう簡単に説明できるものではありません.

インド哲学文献で,もっとも説明のしにくいものに,テキストAをテキストBがXという形で解釈したのを,さらに,テキストCがYという形で再解釈している,というように,複数の主体が関わる場合があります.

つまり,字句解釈の問題.

この場合,いちいち,主語を明記しながら,同じ字句を扱っているのに,BはAの文章をXと解釈してるが,CはそれをYと解釈している,というように説明した上で,さらに,しかしAのもとの意味はそうとは思われない云々というようなことになります.

さらに,そのうえに,前主張などが挿入されていたりすると,もう大変です.

しかし,インド哲学文献の場合,基本,註釈文献なので,A→B→C→...というように伝統が続くのが普通ですから,最初の最初から最後までの流れを押さえることが必須です.

ウダヤナのNVTPをやるには,当然ですが,NS→NBh→NV→NVTT→NVTPという経・註・復註・復復註・復復復註の流れを押さえる必要があります.(いうまでもありませんが,事実を扱う科学理論とは違って,最後の最後の説が事実に即して正解なので,それ以前の誤った説はもはや学ぶ必要なし,ということにはなりません.古典研究・思想史研究(そして思想研究)の場合は,昔むかしに遡らないと理解の秩序立て・整理ができません.)

以上は,記述対象のややこしさ.

語彙レベルでも,サンスクリットは面倒です.

ヴェーダ研究(祭式文献研究)の場合は,原義の確定というのがまずは最初です.

そして,それは,サンスクリットの理解においては生命線です.

つねに原義を意識しながらサンスクリットを読む必要がありますし,その作業を,サンスクリットを読む人は大なり小なり無意識に行わないといけません.

実際,そういう意識でイメージを広げながら誰しもサンスクリット文を書いているわけです.

(後代の)誰にとってもマザータングではありませんから,ナチュラルに書いているわけではなく,語の生成に意識的なわけです.

語源がないようなものでも,インド的には,フォークエティモロジーというこじつけ語源解釈までご丁寧にありますから,それも,それを前提としている後代の人の文章を読む場合には必要な場面があります.

さて,シンプルかつストレートな原義で文意理解が済めばいいのでしょうけど,インド哲学の場合は,そこからがさらに勝負.

いろんな意味が辞書に出ていますが,便利な哲学辞書というようなものは用意されていませんから,実際のところ,インド哲学理解のためには,自分でどれが哲学的な意味なのかを多くの意味の中から限定してやる必要があります.(例外的に,ウィーンからドイツ語で哲学術語辞典が出たり,あるいは,英独仏のちゃんぽんで,タントラ語彙辞典がでています.)

語→原義→特定的な意味

というようになります.

この作業を脳内で自動化するために,あれこれの文献を先生と一緒に読む必要があるわけです.

辞書には,色々な意味が書いてあります.

とくに,最初のほうが原義に近い意味です.

そこから派生する意味が数多く書かれています.

したがって,初学者は,いったい,語意の1~10のどれが,今の文脈に合う意味なのか探さないといけません.

あるいは,ぴったりくるものが無い場合は,文脈と原義に即して自分で想像しないといけません.

インド哲学(認識論)文献の場合は,たとえば,niyamaといっても,「内に抑える」から,ヨーガ文献に見られるような抑制(勧戒とも訳される)というのが原義に近い意味になるでしょうけど,文法学的には,「だけ」evaのavadhaara.na制限・制約,つまり,限られることというのに対応することになるでしょうし,さらに,そこから,遍充関係の言い換えで普通に用いられたりもします.

しかし,遍充関係の同義語として用いられるなどということは,辞書のどこにも載っていません.

物理的に「内に抑える」から「限る」という制限・制約という概念となり,そこからさらに推して,推論の前提となる特定の概念「遍充」の同義として固定して考える必要があります.

仏教であれば,ある程度,なじみのある概念が漢語や和訳を通して普及しているからいいものの,そうでないサンスクリット文献の場合は,対応概念をいちいち説明するのが面倒になります.

博論の時だったでしょうか,vikalpaを任意選択と注もつけずに訳していましたが,仏教の先生からは「分別が普通なので,注が必要では」と言われましたが,実際には,サンスクリット的には,任意選択のほうが普通(つまり常識)で,分別(概念構想)のほうが特殊な仏教的用法です.

要するに,「あるいは」(vaa)という語の意味として任意選択という概念があるわけで,文法学的には基本の基本です.(いっぽう,「と」caの意味がsamuccaya並列です.)

実際,アプテでは,4にoption, alternative (in gram.)とありますが,13. Fancy, imaginationとあります.

ここでも,conceptualizationやmental constructionなどというような便利な訳語は微塵も辞書には載っていません.

仏教的解釈のほうがむしろ特殊な用法となります.

しかし,こんな基本の基本まで,いちいち脚注をつけろ,というような注文が飛んでくるのです,専門家からでも.(たとえば、アビダルマの専門論文で五蘊にいちいち注つけたりしないでしょうし、唯識の専門論文で三性説をいちいち説明したりはしないでしょうし、仏教論理学論文で遍充をいちいちあらためて注で解説したりはしないでしょう。)

字数制限の厳しい査読論文においても,同じようなことは起こりえます.

レベルの低い査読者なら,「何が何なのか,著者の言ってることは全然わからん,けしからん」ということはあるでしょう.

その場合,「(俺には)分からんから(俺様を代表とする専門家のために)注をつけろ」という注文ならまだしも,「(俺様の辞書では)これはここの語義ではない」というような「ご意見」まで与えかねたりしかねません.

無知の知がない査読者.

著者側から見れば,「それ,基本の基本なんですけど」ということです.(つまり,査読の資格なしです.専門論文ですから,それ相応のレベルというものはあるはずですから,一般向けの新書とは事情が違います.いちいちゼロから説明していたら,序で字数制限一杯になって何も論じられないでしょう.)

査読者に選ばれるくらいですから,まわりからはその道の専門家とみなされているのでしょうが,インド哲学の場合,ちょっと専門が外れると,多くがそんなもんです.

分からないなら謙虚になればいいものを,なにしろ,周囲の目がありますから偉そうにしないといけないというプレッシャーがあります.

したがって,それらしい「ご意見」をつけたりすることになります.(あまりにひどい論文ははじく必要があるでしょうが,まあ,一定レベルを満たしたものについては,査読というのは,緩く行われるべきでしょうし,実際,ある雑誌の「査読」なるものは,とても緩い制度でできてます.そして,それが現実的な対応でしょうし,それでいいのだ,とも思います.「レベルを保つ」にしても,それは,一定レベルの査読者が多数存在すればこそですが,それが非現実的な場合は,ゆるめにするしかないでしょう.理想的には全知者に査読してもらえばいいんでしょうけど.逆に,そうすれば,すべての論文が「分かり切ったこと」としてはじかれたりするでしょうか.)

面子の問題です.


閑話休題.

さて,自称専門家相手でもこんなレベルですから,部外者相手となれば,サンスクリット哲学文献に現れる概念の分かりにくさ・説明のしにくさというのは,想像に難くないでしょう.

また,kaala-atyaya-apadi.s.ta(時・過・示された)のように,スートラの時代から存在するテクニカルタームの場合,実際には,スートラの意図したものと,後代の例えばジャヤンタが再解釈しているものとが全然違う場合があります.

この場合,原義から訳すとなるとギャップを埋めるのが面倒です.

なぜなら,相当の距離があるからです.

もちろん,ジャヤンタなりの学者達は,エティモロジカルな説明を欠かしませんが,しかし,それは,距離を埋めるためのものであって,ナチュラルにゴールに導いてくれるものではありません.

無理やりです.

語→原義→・・・・→ゴール

「時を過ぎて示されたもの」という原義から,実際には,最終的に「その論証対象が既に否定されてしまっている擬似論証因」baadhita-vi.sayaというものを意味することになります.

間を自動的に埋める必要があります.

これを,非専門家にいちいち説明するのは面倒です.

また,ニヤーヤ入門では,これを学んでおかないといけません.

サンスクリットを専門とする学会に出かけて行っても,当然ですが,哲学文献については,部外者は,たとえ原義理解ができていても,理解が追い付くのには苦労するでしょう.(それは,日本語が理解できても,哲学文献を理解するのが面倒なのと同じです.)

それは,以上のような距離が存在するからです.

さらに問題は,インド哲学文献は,一般読者に向けて(一般読者層というものを意識して)書かれていない,ということです.

後代の「綱要書」と呼ばれる入門書はやさしく初学者向けに書かれていますが,本気の論書は,専門家相手に書かれているわけで,専門家が専門家に向けて書いているわけです.(そんなわけで,ダルマキールティは,処女作が難しすぎて誰にも理解されないと悲憤していじけているわけです.その後,それを分かりやすくして改作して別の本を著してヒットしてますが.)

我々で言えば,一般書ではなく,専門書の,しかも,論文に近いようなスタイルのものです.

こんぐらい分かるやろうの水準が極めて高い所に設定されています.

それをいちいち一般向けに分かりやすくと言われても,おもりをつけて泳げと言われるのと同じように大変なわけです.6000mの山にアタックするのには,途中のベースキャンプから始めるでしょう.いちいち0mから出発しろと言われたら無理です.

すでにできあがっている世界ならば,便利な訳語も出来合いのものがあるでしょうけど,インド哲学の和訳の場合,自分で新たに考え出さないといけない訳語が多かったりします.(それはそれで楽しいですが,時間のかかる作業であります.)

まだまだ,定訳というものが語レベルで定まっているわけではありません.

流動的です.

そんな低レベルのところでも,あれこれと気を使う必要が出てくるわけです.

というわけで,いちいち自分には分かり切ってることをぐだぐだ説明する必要のない人と話す時にはほっとします.

そういえば,日本に帰ってきて一番不便だったのは,サンスクリットで(および哲学概念を用いて)会話する相手がまわりにいなくなったことでした.

カルドナ先生みたいにしょっちゅうインドにいってインド会話を鍛えるというようなエネルギーはとてもありません.

年配でも鍛えまくったボディビルの元気な方がいらっしゃいますが,カルドナ先生を見ると,そんなイメージが浮かんできます.
  1. 2020/01/15(水) 08:10:42|
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ザエカ



アリさん,いつものように絶口調.

超ポジティブ.

前後で一時間ほどの独演会つき.

スペシャルメニューのマトン.

ビリヤニは,昼の早い時間ですぐに売り切れたそうです.

夕方に電話しても家に帰っていて,わざわざ出てくるのも面倒なのでしょう,「すいません,今日はやってないです」ということが多いのですが,きょうは,ランチ終わりに電話,夜に開けてもらいました.

というわけで,いったん,家に戻ってから再度来られたので,私が到着した時には店はまだ閉まっていました.
  1. 2020/01/15(水) 07:07:00|
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ディグナーガ研究

ミーマーンサーも,よくよく見ると,写本やエディションなどを,クップスワーミシャーストリーなどのマドラス学派が用意してくれたおかげで,じわじわと漸進を続けてきたわけですが(そして彼らの影響力が消えると共に全くの停滞期間にあるときから入ってしまったわけですが),顕著に分かるのは,やはり,仏教研究でしょう.

なにしろ,人がおおいですから.

とはいえ,ピンポイントで見ると,貢献者の数は,決して多くはありません.

ディグナーガの場合は,やはり,本邦の研究者(先人)の活躍は見逃せません.

宇井,北川,梶山,服部,戸崎,桂.(そして,いまは,小野,室屋,渡辺.)

錚々たる面子です.(日本語が読めてよかったです.)

インドであれば,なんといっても,ジャンブーヴィジャヤジー.

ヨーロッパでは,フラウワルナー,シュタインケルナー,および,その弟子.

みながあれこれと着実な仕事を続けた結果,徐々に徐々に成果が積み重ねて来られたというのが実感できます.

ほんとに,すこしずつです.

こうした積み重ねの上に,ピンのアポーハ研究もあるわけです.

で,そのおかげで,わたしも,ある程度安心してディグナーガのアポーハを論じたり,あるいは,ディグナーガの知覚論やジネーンドラブッディの知覚章を容易に読むことができたりします.

テキストが頼りない段階での大上段に構えた哲学的な読み込みの研究もいくつかあるにはありましたが,今から見れば,あんまり役立たない気がします.

やはり,或る段階に即した或る適切な研究態度というのがあり,資料的制約から自然と取るべき方法論も規定されるように思います.

資料が頼りないチベット訳しかない段階で,大上段にあれこれと断定しても,テキストが整備されると,足元から掬われたりしかねません.

そこらへんは,テキストの状況を見ながら慎重にしたほうがいいでしょう.

ディグナーガのアポーハに関して言えば,ピン以前の先行研究で,哲学的な切り込みスタイルのものから,有意義に学ぶものはほとんどないように思いますが.

あえて,誤解の歴史を紐解こうなどという気力も時間もないので,細かいところがどうかは,精査しない限りは言えないでしょうが.

とはいえ,ディグナーガに関しては,まずは,彼の思想をきちんと読み解くための資料整備とテキストに即した基礎的解釈の初期段階にあるといえるでしょう.
  1. 2020/01/14(火) 19:59:48|
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オープンアクセス,オーストリアの場合

オープンアクセスといえば,最近は,ウィーンのIKGAから出ている本でオープンアクセスが多く,非常に便利なのですが,どういうことかと前回行ったときに尋ねたところ,詳しいプロセスは私には理解不能でしたが,要するに,女性研究者のものは,全部,金をとってくる段階でオープンアクセスにするところまで含めて金をとる,つまり,女性研究者の場合は,金を与える側が,オープンアクセスの費用まで面倒みなければならない,と決まっているとのこと.

というわけで,アンのライフワークというべきプラサンナパダー冒頭の原典・英訳も,ありがたいことに,わたしのように,少々専門から外れて金を出してまで個人で買うことはないだろう層にも無料でアクセスできるわけです.

そして,貴重な成果が学生にも無料で配布して使えるわけですから,教科書にも使ったりできるわけです.

オープンアクセスの有無は,パブリシティの点からいえば,雲泥の差をうみます.

10年後,20年後の影響力の有無は言うまでもありません.

いまどき,本買う人など,個人では滅多にいません.

とくに,もっとも研究しているであろう博士課程在学中の人が,高い本を個人で買うことなど,専門の専門のどストライクでないかぎり,滅多にないでしょう.

リファレンスという点でも,そして,検索可能性という点でも,オープンアクセスにするのは重要.

国全体としての金の負担や,出版社への金の支払いなどが果たして正義なのかどうかは別として.(あくまでも研究者個人の目線で考えた時.)

現実問題として,目の前の問題――アクセスを広げる――を解決するうえで,オープンアクセスは手っ取り早い解決策であることは間違いないでしょう.

それに,女性研究者のサポートを併せると言うのは,現実的な対応策だといえるでしょう.

とはいえ,本邦における我々の分野(印哲=インド学・仏教学・インド哲学)の場合,そもそも,本が出ること自体が滅多になく,論文中心ですから,それほど深刻ではありませんが,海外の場合,やはり「業績」というと,本が中心ですから,それがオープンアクセスになることには大きな意味があります.

そういえば,後輩のYさんも,大層立派な本を出してご活躍中ですが,個人で(確か御父上の出版社から)出版していたように思います.

個人的努力で本を出さないといけないというのが,まあ,本邦における我々の現状です.

個人個人の善意で支えられているのが実情なわけです.

わたしも,最初の最初は,山喜房から出してもらいましたが,これも,単に社長(故人)の善意です.(ミーマーンサーの原典校訂など商売として売れるわけがない!)

成果発表用の科研が別途あるので,就職して肩書きを得てからは,そちらを使ってゆっくりと出版できましたけど,しかし,そのような段階に達せず,悠長に書類書いて審査に受かるかどうかを首を長くして待ってる暇もない博士直後の人間には,そうした制度自体,ハードルが高かったりします.(そして著書の有無は就職の有無と相関するでしょうから,ポスドクにとっては,生き死にの問題です.あとは、当然ですが、科研を出す資格がないと出せないので、既にそこで引っかかる若手は多いでしょう。)

T大I哲の博論成果の多くが,山喜房のビブシリーズからさっさと出ていて便利なのも,そうした実情を反映しているのでしょう.(つまり,たとえ資格があったとしても、受かるか受からないか分からない科研の成果公開促進費用よりも,そちらのほうが便利ということ.)

そして,実際,そうした研究成果発表の場が用意されていない他大学の印哲の場合,博論がすぐに出版されるのは極めて稀です.(H大のN本さんや,K村さんくらいでしょう.これも,O川先生の強制力があってのことであっただろうと推測しますが.)

懇意にしている元同僚のT先生から,教父哲学の本をいただきましたけど,これも,相当な額を本人が負担しているようです.

恐怖金失額です.

ライフワークですから,まあ,個人で出してもいいんでしょうけど.

本邦における我々近辺の地道な研究成果の発信というのは,結局,個人の善意に支えられているということなんでしょう.

はなからシステムには期待してませんが.

しかし,若い人の成果がすぐに出るような方向に徐々にもっていく工夫は必要でしょう.

また,公的な金(科研)を使った成果がフリーでアクセスできるようにすべきなのは,言うまでもないでしょう.(実際には,フリーアクセス云々の前に,アクセス対象となる成果自体をまともに出してないような人もいるかもしれませんが,それは問題外.あるいは,働き者の蟻や蜂もいれば,働かない蟻も蜂も必ずいるとの喩えで,それはそれで仕方ないとあきらめるしかないでしょう.)


とりあえずの対応策として,オープンアクセス費用の公的な負担は,(正義かどうかは別にして)現実的だと思います.

わたしもウィーンから英語本を出しましたけど,もちろんオープンアクセスでもないので,個人で買って持っている知人を見たことがありません.(それぞれの所属の大学図書館では買ってる人も中にはいるでしょうけど.)

しかし,ある一定の金を出版局に払えば,オープンアクセスにしてくれるはずです.

いくらかは知りませんが。

以上は本の話。

以下、雑誌論文。

JIPや、大手がやってるその手の国際的な雑誌は、投稿する際にオープンアクセスにするオプションがあり、そのためには金がかかります。(しない場合はもちろん無料)

たかだか論文一本なのに、結構な大金です。

あれ見ると腹立ちますが、しかし、金があるのなら、オープンアクセスにしたほうが、本来の目的は果たせます。

そもそも、人に読まれるために書いているのですから。

しかし、人の論文で商売している大手にたいしては、複雑な気持ちしか湧きません。

Q大は、金ないので、雑誌現物購入はおろか、JIPその他のパッケージのネットアクセスすらないですから。

書いたわたしも見れないという矛盾。(しかも、わたしは、JIPのボードメンバーです。つまり査読委員の1人。たまに査読でボランティア労働。)

カカオを作るプランテーション農園の人がチョコたべたことないのと似てます。

フェアでないのは明らかです。

最近書いたJHSという国際誌も、うちではアクセスできないので、親切な編者の人に泣きついて、できたばかりだという自分の論文PDF送ってもらったくらいです。

笑っちゃいます。

そういえば、IIJも査読したことがありますが、これも大学では買ってないので、うちでは読めません。
  1. 2020/01/13(月) 10:41:24|
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井野 2019

井野 2019:
72
sniyng > snying



75, n. 14
tathā hi sakandha mātramevaitat
>
tathā hi skandhamātram evaitat



asyadvayajñānasya
>
asyādvayajñānasya



ここの二つ,流通している電子テキストが間違っているだけで,もとのTucciのテキストは正しく書かれています.

つまり,誤った電子テキストをそのまま張り付けた結果,著者も誤ったという事情だと推察.

いっぽう,以下のものは,Tucciのテキストを訂正すべきでしょう.

vijñaptimātraṃ traidhātukam iti bhāvayan vijñānavādibāhyārthanairātmyam avatarati
>
vijñaptimātraṃ traidhātukam iti bhāvayan vijñānavādī bāhyārthanairātmyam avatarati



……唯識論者の[説く心の]外の対象の無我に入るのだ

……唯識論者は[心の]外の対象の無我性に入る



前の文章において「声聞は」が主語になっていますから,同じ構造の文のはずですから,ここでは,「唯識論者は」が主語になるのが自然でしょう.
  1. 2020/01/11(土) 08:28:14|
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received: インド哲学仏教学研究27(2019.3)

昨日大学宛に郵送されたものを落掌.

郵送業務など,面倒なことでしょうけど,作業をされた方に感謝.

ありがとうございます.



いま,雑誌の日付を見て驚きましたが,なんと,去年の3月.

昨年度までに出すはずが,ずれにずれて,年明けの今頃になってようやく出たというのが裏の事情だと勝手に邪推しますが事実は如何.

あるいは,そんな詮索をするのはいかんのか,あるいは,そんな詮索をするのは遺憾に思われるだけなのか.

あるいは,編集作業するひとの業務があっちからこっちへと移管してるうちに,流れに流れて遅くなったのか.

ニヤーヤの擬似論証因に,kaala-atyaya-apadista「時機が過ぎて示されたもの」というのがありますが,オフィシャルな公刊日から10カ月も経って実際に手元に届いたのを見ると,そんな語彙でも連想してしまいます.

頁数を見ると,53, 26, 14, 14となっています.

わたしが書いたころは,とにかくページ制限がうるさく,窮屈な思いをしたものですが,どうやら,そのような制限は取り払ったということなのでしょうか.

単に運用が緩くなったということかもしれません.

ちなみに,片岡 1999d(『インド哲学仏教学研究』6, 3-16)は14頁です.

片岡 1995(『インド哲学仏教学研究』3,47-60)も,14頁ですから,規定はそんなものなのでしょう.

ともあれ,経済的な問題がないならば,少々の頁数超過など気にせずに,自由に書かせるのが一番だと思います.

入れ物に合わせて自分が小さく身を縮めるのは,逃亡犯だけで結構です.

せっかく修論でいろいろと細かい研究をしたのに,その成果,しかも,ディテールが発表されず,死蔵埋没してしまっては,もったいないことこのうえありません.

木を見ても,隣との間がぎゅうぎゅうに詰まった木々は,枝をのばさず,縮こまって育ちます.

いっぽう,広い土地に自由に枝を伸ばした樹の美しいこと.

伸びれば伸びるものです.

論文も,ページ数制限かける意味は,経済的な理由(雑誌が重くなると送料が高くなる)が大きいのでしょうけど,いまや,ネット配信のほうが流通という点では重要――したがって現物の配布量は一定数で切ってしまえばいい――ですから,工夫次第ではないでしょうか.




インド哲学仏教学研究
27
2019.3.31

下田正弘
エクリチュール論から照らす仏教研究
1-53

左藤仁宏
Mahavastuにおけるava-√lokの用例
55-70

井野雅文
『中観光明論』における一乗思想と如来蔵思想
71-84

余新星
伝法衣の相承と仏光派の法系図について
85-98
  1. 2020/01/11(土) 07:49:21|
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ISF







第3の男サルカールシェフの手になるターリー。
  1. 2020/01/10(金) 20:12:04|
  2. 未分類

Nagatare beach, Imajuku, Fukuoka



九大学研都市駅より一個手前、今宿駅前の海岸、長垂。
  1. 2020/01/10(金) 20:09:54|
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ワールド・フィロソフィ



ちょうど,昨年の9月,ハリモトさんに誘われるがままに,ナポリでこの絵を見てきたところでした.

しかし,World Philosophyと冠して,これ,帯に使いますか.

うーん.

なにやら含意が深そうな.

左(西)からの槍で右(東)がぶっさり刺されてますし.

ギリシャ的な視点でもって,世界を断片断片串刺しにして,おいしくいただくとのシシカバブ的発想と好意的に捉えておきましょう.

コラムは間間のネギでしょうから,焼き鳥でいえば,ネギマでしょうか.

でるのはチクマですけど.

編集のM田さんから連絡があったのが7月26日.

ふだん見ないメルアドに入っていて,気が付かずに,あやうくゴミ箱に行くところでした.

7月27日に返信.

11月末締切りということでしたが,9月以降,あれこれあって忙しいので,即書くことにして,8月3日に書き上げて返送.

その後,編者からの細部注文もなく,11月28日に編者からようやく返信,若干の注文.(11月末締切りですから,まあ,当然でしょうけど.)

年末に向けてのあれこれの締切やらで,なにやら激烈に立て込むわ,12月頭からウィーン行きだわで,忙しかったので,ちゃちゃっと少しだけ形を整えて返信.(こうなることが見えていたので,8月に出したのですが,結果的に,あまり意味はありませんでした.)

なにかさらに注文があるかと思いきや,すんなり認可.

わたしのは第3巻で出るそうです.

http://www.chikumashobo.co.jp/special/world_philosophy/

まわりを見渡すと,同僚の大西さんも別の巻にいらっしゃいました.

印哲界隈の私の見知った顔からは,赤松(1巻),下田(2巻),蓑輪(4巻)の各先生.

ちなみに,私の隣が阿部先生.

ディグナーガやクマーリラの隣に空海とは,なかなかない本です.

しかも新書とは.

英語世界でも,分野外の人が便利に参照できるよう編集意図したガイド的な印哲本の企画が増えてきていますから,まあ,こうした俯瞰の流れは,ますます進むことでしょう.

わたしも,シャーリカナータとディグナーガで,B社とR社の英語ガイド本の一章を担当.

といっても,わたしが英語を書くと,英語一般読者に分かるように書けと言われても,なかなか難しいところがありますが.

とはいえ,編者がよかったので,細かい注文にいちいち答えることで,なんとか形にはなりました.(つまり,できるだけサンスクリットの原語に頼らずに,それなりに対応する英語で表現.)

にしても,日本語の方は,もうちょっと注文がはいるかと思いきや,意外にすんなり通ってしまいました.

というわけで,すいません,一般にはむずかしいかもしれません.

頁数が限られていることもあり,原液濃度で言うと300%くらいですから,かなり薄めないと濃すぎて飲めないでしょう.

自分で註釈を書いた方がいいかもしれません.

ドーティーを着て出かけていったら,まわりみんなスーツだった,という感じになるのでしょうか.

ヴィジャエよろしく,ドーティーの裾をまくって,居直るしかありません.
  1. 2020/01/10(金) 05:41:28|
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Glory, back in 2016

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西新から七隈へ,そして,七隈から親富孝へ.

町の中華料理屋かラーメン屋かを思わせる七隈のアットホームな雰囲気とはがらりとうってかわり,オシャレなバーカウンターまであつらえたお店.

親不孝の一等地.

しかしあえなく閉店.

親不孝ではパン類がよくあるもちもち系のナンになっていて、かなりがっかりしたものでした.

まえは全然違う感じだったのですが。

ともあれ,その後,たまにいっても,いつも客は自分一人.

入店するとオヤジが暇そうにワイドショーを見ながら足を掻いてるという感じでした.

当初は息子さんの姿も見かけましたが,途中からはまったく姿を見ず.

店は変われど七隈時代とまったく同じく,夫婦での連携プレー.

ネパールに席巻される中で,インド人(と日本人の奥様)のインド料理は福岡においては,貴重な存在でしたが,その一店が失われたのは残念です.

にしても,なぜ親不孝にしたのか.

そのまま七隈でよかったのにと素人目には思ってしまいます.

福岡のカレー史の中でも重要な一店が消えたと位置付けることができるでしょう.

IMG_0373.jpg

これが七隈時代のグローリー.2015年1月.

やはりパンが全然ちがいます.
  1. 2020/01/09(木) 21:38:14|
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くら商店



仙草ゼリーにタピオカのホットのティー
  1. 2020/01/09(木) 18:49:13|
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椎木講堂にて展示



椎木講堂の展示室にて農学部関係の展示.

かつてはカラフトにまで演習林があったのには驚きました.

いまも,まだ,北海道の東の方に演習林があります.

昆虫標本も充実.

昨今は,海外からの持ち出しも厳しくなっているでしょうから,この分野の研究もきっと面倒なことがいっぱいなのでしょう.

海外で逮捕されているひとも報道ではいたようですし.

「グローバル」といいながら,実際には,どこの世界も,あれこれとビザや税関にはうるさいですから,そうそう自由に行ったり来たり,長くいたり,あるいは,持って行ったり帰ったりできるわけではありません.

インドも昨今は,旅行ビザは便利な反面,リサーチに関しては,チェックが細かくなっていますし.

ゆるい感じがなくなって,管理管理になると,つまらなくなるというのは,何に関しても同じでしょう.

中世への逆戻りというようなことを,むかしに頂いた本で田中明彦教授(当時の東文研の所長)が言っていた記憶がありますが,実際に逆行現象を見ると,さもありなんと思わされることがしきり.

というわけで,海外に出られるうちに出ておいたほうが,いつ農奴のように縛られるか分かりませんから,お得です.(すでに大学の業務にはかなり縛られているので,半身,似たようなものですが.)

経済的には既に,海外に行くのが不自由(不可能)な貧困国になりつつありますけど.(ジャイナ教のお坊さんや,海を渡れない保守的なバラモンよろしく,エコロジー倫理的にはそっちのほうが正しいのかもしれませんが.)

そのうち国際サンスクリット学会がありますが,オーストラリアの物価が大丈夫なのか,戦々恐々.

すでに北米は(アジア水準の自分にとっては)高すぎるので,滅多なことでは,行きたくありません.

トロントのトラウマ.

このショックで,多くの人が次のヴァンクーヴァーには来てませんでした.

若干,膾を吹いた観はなきにしもあらずでしたが.

結果,ヴァンクーヴァーのUBCは,素敵なところでした.

留学するならお奨めという印象.

まあ,私がいった季節が一年の中でベストなシーズンの更に一番天気のいい一週間だったから,というのが大きいですけど.
  1. 2020/01/07(火) 18:41:19|
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拝受

  1. 2020/01/06(月) 19:30:00|
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upalakṣaṇārtham

NBh ad 1.1.1, Thakur 5,15-16: chalajātinigrahasthānānāṃ pṛthagupadeśa upalakṣaṇārthaḥ. upalakṣitānāṃ svavākye parivarjanaṃ paravākye paryanuyogaḥ.

服部1969: 341: 「詭弁」「誤った論難」「敗北の立場」を別項目としてあげるのは、(他のことを)含意するためである。「詭弁」「誤った論難」「敗北の立場」を問いただすのは、(本来は)相手の陳述において(それらを認めた場合)であるが、自己の陳述において(それらを)避けることが含意されているのである。



相当にこねくりまわして,一所懸命訳されていますが,どうも,原文との乖離が激しすぎます.

こういう場合は,えてして,なにかの取り間違いがあるものと予想されます.

いったい,なんなのでしょうか?

どうも,ここでのupalakṣaṇaが曲者です.

upalakṣitaが何を指しているのかも問題です.

服部は,itiの内容と取ったようです.

しかし,ここでupalakṣitānāṃは複数となっており,あきらかに,三項目を指しています.

つまり,含意されたのは「他のこと」ではなく,三項目であるのは明らかです.

すると,「含意するため」のほうを工夫しなければならないことになります.

文脈を考慮すると,「含意のため」というのは,[prameyaの中に]含意されていることを[三項目を別個に提示することで明示する]ため」というような趣意に取るべきではないでしょうか.

すると,真っ直ぐに次のように訳せます.

chalajātinigrahasthānānāṃ pṛthagupadeśa upalakṣaṇārtham.
曲解・詭弁的論駁・敗北の根拠を別個に教示するのは,[それらがprameyaの中に]含意されていることを[明示する]ためである.

upalakṣitānāṃ svavākye parivarjanaṃ paravākye paryanuyogaḥ.
含意された[それら三項目]を自己の文にあっては避け,敵の文にあっては問いただす.



同様に,直前にあるvādaの服部訳も直すべきでしょう.

NBh ad 1.1.1, Thakur 5,11: ... pṛthaguddiṣṭa upalakṣaṇārtham.

服部 1969: 341:(...それが)別項目としてあげられたのは、(討論の一形式としての「論議」だけではなく、他の場合をも)含意するためである。

片岡:(...それが)別個に提示されたのは、[prameyaの中に]含意されていること[を明示する]ためである.



したがって,続く一文も普通に直訳すればいいのではないでしょうか?

NBh ad 1.1.1, Thakur 5,11: upalakṣitena vyavahāras tattvajñānārthaṃ bhaviṣyatīti. (following J's reading)

服部 1969: 341: (すなわち、「論議」に準ずるものとして)訴訟も、真理の認識のために行われるのであると理解される。

片岡:[prameyaの中に]含意された[vāda]によるやりとりも実相の認識に資するだろう,と[の意図である].



シャバラなどの表現もそうですが,『ニヤーヤバーシャ』は古いので,やはり,味わい深いものがあります.

後500年前後の著者を読むときは,クマーリラ(600-650頃)やジャヤンタ(900頃)などとはスタイルが違うので,こちらのモード(周波数,波長)を少し変えてやらねばなりません.

古典の尽きせぬ魅力といったところでしょうか.

基本典籍が全部きれいに解読されているというのが,インド哲学の場合には,まったく当てはまらないということも注意する必要があるでしょう.

NBhの場合,そもそも,テキストからしてまだ,プライゼンダンツの批判校訂版を待っている状態です.

つまり,テキストからして,まだまだ改訂の余地あり.

インド哲学の現状は,こんなものだ,ということです.

信頼できる原典の校訂もあって,信頼できる諸訳がいくつもあるような西洋哲学と同じ水準で論じるのは無理です.

「日本語で哲学したい」という前に,まずは,基本典籍ですら,サンスクリット写本を集めて校訂してやる必要があるのですから.

服部訳のように,基本典籍をちゃんと訳してくれているのは,インド哲学の場合,実は,例外中の例外という感があります.

ほとんどの場合,自分でいちからやる必要があります.

私の場合,シャバラ,クマーリラ,ジャヤンタ,スチャリタ,読もうと思ったら,いずれも,写本からやらざるをえなくなりました.

というか,スチャリタの場合は,読もうと思っても,後半部分はまだ出版されていないという現状がありました.

ディグナーガやジネーンドラブッディは,幸い,ウィーンの人が苦労して長年かけて校訂したり,あるいは,(それまでの先人の工夫のうえに)再構成してくれたものがあるので,解読作業から始められるので,こちらは非常に助かります.

さもないと,私には無理でしょう.

信頼できるテキスト,信頼できる翻訳.

まずはそれらがないことには,「哲学したい」にしても,なにも始まらないでしょう.

そういえば,証言の定義は,信頼できる者の言葉でした.

面白いことに,ここでの「信頼できる者」の原語は「到達した者」です.

そういえば,日本語でも,文脈は違いますが,「達人」という表現があります.

まあ,対象に直接に到達した人が,まずは,情報源として信頼できる人だということです.

ジョージ・レイコフ流に言えば,「達する」は「知る」なり,とでもなるでしょうか.

もちろん,註釈者達は,あれこれと色々な意味をこの語に読み込みますが.
  1. 2020/01/06(月) 08:18:15|
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  1. 2020/01/04(土) 13:10:23|
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