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Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

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  1. 2020/01/06(月) 19:30:00|
  2. 未分類

upalakṣaṇārtham

NBh ad 1.1.1, Thakur 5,15-16: chalajātinigrahasthānānāṃ pṛthagupadeśa upalakṣaṇārthaḥ. upalakṣitānāṃ svavākye parivarjanaṃ paravākye paryanuyogaḥ.

服部1969: 341: 「詭弁」「誤った論難」「敗北の立場」を別項目としてあげるのは、(他のことを)含意するためである。「詭弁」「誤った論難」「敗北の立場」を問いただすのは、(本来は)相手の陳述において(それらを認めた場合)であるが、自己の陳述において(それらを)避けることが含意されているのである。



相当にこねくりまわして,一所懸命訳されていますが,どうも,原文との乖離が激しすぎます.

こういう場合は,えてして,なにかの取り間違いがあるものと予想されます.

いったい,なんなのでしょうか?

どうも,ここでのupalakṣaṇaが曲者です.

upalakṣitaが何を指しているのかも問題です.

服部は,itiの内容と取ったようです.

しかし,ここでupalakṣitānāṃは複数となっており,あきらかに,三項目を指しています.

つまり,含意されたのは「他のこと」ではなく,三項目であるのは明らかです.

すると,「含意するため」のほうを工夫しなければならないことになります.

文脈を考慮すると,「含意のため」というのは,[prameyaの中に]含意されていることを[三項目を別個に提示することで明示する]ため」というような趣意に取るべきではないでしょうか.

すると,真っ直ぐに次のように訳せます.

chalajātinigrahasthānānāṃ pṛthagupadeśa upalakṣaṇārtham.
曲解・詭弁的論駁・敗北の根拠を別個に教示するのは,[それらがprameyaの中に]含意されていることを[明示する]ためである.

upalakṣitānāṃ svavākye parivarjanaṃ paravākye paryanuyogaḥ.
含意された[それら三項目]を自己の文にあっては避け,敵の文にあっては問いただす.



同様に,直前にあるvādaの服部訳も直すべきでしょう.

NBh ad 1.1.1, Thakur 5,11: ... pṛthaguddiṣṭa upalakṣaṇārtham.

服部 1969: 341:(...それが)別項目としてあげられたのは、(討論の一形式としての「論議」だけではなく、他の場合をも)含意するためである。

片岡:(...それが)別個に提示されたのは、[prameyaの中に]含意されていること[を明示する]ためである.



したがって,続く一文も普通に直訳すればいいのではないでしょうか?

NBh ad 1.1.1, Thakur 5,11: upalakṣitena vyavahāras tattvajñānārthaṃ bhaviṣyatīti. (following J's reading)

服部 1969: 341: (すなわち、「論議」に準ずるものとして)訴訟も、真理の認識のために行われるのであると理解される。

片岡:[prameyaの中に]含意された[vāda]によるやりとりも実相の認識に資するだろう,と[の意図である].



シャバラなどの表現もそうですが,『ニヤーヤバーシャ』は古いので,やはり,味わい深いものがあります.

後500年前後の著者を読むときは,クマーリラ(600-650頃)やジャヤンタ(900頃)などとはスタイルが違うので,こちらのモード(周波数,波長)を少し変えてやらねばなりません.

古典の尽きせぬ魅力といったところでしょうか.

基本典籍が全部きれいに解読されているというのが,インド哲学の場合には,まったく当てはまらないということも注意する必要があるでしょう.

NBhの場合,そもそも,テキストからしてまだ,プライゼンダンツの批判校訂版を待っている状態です.

つまり,テキストからして,まだまだ改訂の余地あり.

インド哲学の現状は,こんなものだ,ということです.

信頼できる原典の校訂もあって,信頼できる諸訳がいくつもあるような西洋哲学と同じ水準で論じるのは無理です.

「日本語で哲学したい」という前に,まずは,基本典籍ですら,サンスクリット写本を集めて校訂してやる必要があるのですから.

服部訳のように,基本典籍をちゃんと訳してくれているのは,インド哲学の場合,実は,例外中の例外という感があります.

ほとんどの場合,自分でいちからやる必要があります.

私の場合,シャバラ,クマーリラ,ジャヤンタ,スチャリタ,読もうと思ったら,いずれも,写本からやらざるをえなくなりました.

というか,スチャリタの場合は,読もうと思っても,後半部分はまだ出版されていないという現状がありました.

ディグナーガやジネーンドラブッディは,幸い,ウィーンの人が苦労して長年かけて校訂したり,あるいは,(それまでの先人の工夫のうえに)再構成してくれたものがあるので,解読作業から始められるので,こちらは非常に助かります.

さもないと,私には無理でしょう.

信頼できるテキスト,信頼できる翻訳.

まずはそれらがないことには,「哲学したい」にしても,なにも始まらないでしょう.

そういえば,証言の定義は,信頼できる者の言葉でした.

面白いことに,ここでの「信頼できる者」の原語は「到達した者」です.

そういえば,日本語でも,文脈は違いますが,「達人」という表現があります.

まあ,対象に直接に到達した人が,まずは,情報源として信頼できる人だということです.

ジョージ・レイコフ流に言えば,「達する」は「知る」なり,とでもなるでしょうか.

もちろん,註釈者達は,あれこれと色々な意味をこの語に読み込みますが.
  1. 2020/01/06(月) 08:18:15|
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