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Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

自律的偽

かかっているか,はたまた,かかってないのか,それが(自分自身では)客観的に分からない状況というのは,認識の正しさ(真)の議論とも同じ構造を有します.

認識は,その発生の時点では,客観的に正しいのか正しくないのか分からないからです.

クマーリラは自律的真,他律的偽なので,マイアミのパリピ青年のような態度を取ることでしょう.

かかったらかかったときのことで,それまではかかってないんだからOKというのが自律的真,他律的偽の立場です.

かかっていることを心配する杞憂は,特に疑いがない状況(無自覚状態)では無駄,という態度です.

健康を正常のデフォルト,病気を異常とする考え方です.

原則と例外です.

逆に,原則かかっていると思ってくださいというのが,クマーリラと逆の立場.

世間の人々の認識はすべて根本的に間違っているという意味で,ラフには,仏教徒の立場といって良いでしょう.(ただし,カマラシーラは,このようなラベル付けを拒否します.かれは自らをaniyamapak.saと規定します.ということは逆にいえば,そのようなレッテルが張られがちだった,ということになりますから,仏教徒に帰属させることも許されます.)

実践的には,最初から自分はかかっていると思って行動してください,というような指針となるでしょう.

いっぽう,黒白はっきりさせて,かかっているか,かかっていないか検査しろ,というのが他律的真・他律的偽のニヤーヤの立場になります.

全員検査しろ,という立場です.

整理すると以下のようになります.

原則的に健康(証明不要)・例外的に病気(証明必要):ミーマーンサー的
例外的に健康(証明必要)・原則的に病気(証明不要):一部の仏教徒的
健康の証明・病気の証明:ニヤーヤ的

タイに入国する際は病気でないこと(例外的に健康であること)をはっきりさせないと入れてくれませんから,二番目と三番目の他律的真の立場と言えるでしょう.

繰り返されたものや,同種のもの,それらについては正しい,という視点を取り入れるのが,シャーキャブッディやそれに影響を受けたヴァーチャスパティです.

認識の場合は,繰り返されるのは正しい認識の方についてですが,病気の場合は,同種の症状の事例ですから,病気の方になります.

原則的に健康・例外的(病気と判明したのと同種のものについては)病気:シャーキャブッディ・ヴァーチャスパティ的応用

フィフティーフィフティーの疑惑・懐疑の状態というのが一番取扱いに困ります.

これは,ジャヤンタも苦労しているところです.

しかし,見方を変えれば,正しい認識に基づいて行動が起こる(起こるはずだ),そうでなければならないというのは一種の理想の押しつけです.

実際には,仏教徒やジャヤンタも認めるように,疑惑からでも行動は起こりますし,現に我々の行動の大半はそういうものです.

世俗の発動前に100%の確度を求めることに余り意味はありません.

疑惑から発動するしかないというのが実情です.

しかし,その場合も,現実には,クマーリラのように,正しいものとして扱う,それが原則,というのが実際の人間の態度でしょう.

普通はいちいち自分の認識を疑ったりしませんから.

というわけで,マイアミのパリピは,或る意味,誰もが持っている普通の態度だとも言えます.

インドの真理論を別の角度から見ると,100%の確度を押し付ける理想の押しつけともみなせます.

そもそもの議論の出発点が,ヴェーダに基づく認識が100%正しくなければならない,という要請から来ているので当然ですが.

それに対して,「(そのような方法では)間違ってないとは決して言い切れない」と執拗に攻撃するのがダルマキールティ.

100%の確度を求め,必ずしも黒白はっきりしない検査方法の不備をつくのは,ダルマキールティ的だと言えるでしょう.

正しいものとして取り扱っておきましょう,そうしないとシステム崩壊します,という現実主義がクマーリラですが,その「お約束」が客観的には成り立たないことを突くわけです.
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  1. 2020/03/29(日) 12:06:51|
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aatma-sa.myama

自粛をサンスクリットにするとすると,aatma-sa.myamaくらいでしょうか.

ガーンディーっぽい,すっかり別のニュアンスを帯びてしまいますが.

再翻訳すると,自己抑制くらいでしょうか.



  1. 2020/03/29(日) 11:10:33|
  2. 未分類




初心者が陥りやすい罠は、その箇所への後代の人の注釈や先行研究に引きずられてしまうこと。

まずは、テキストそのものと格闘すべきです。

後代の人のことは忘れて。

テキストそのものといっても、その当該の行だけでなく、前後、さらには、パラレル箇所など、同一著者
の当該問題への態度、あるいは、類似関連語彙の用例をくまなく検索すべきです。

それを忘れて、注釈に飛びついたり、あるいは、現代のパンディットのノートに飛びついたりして、それの議論に頭を悩ますのは順序が間違っています。

優先順位は常に、同一著者、次に、その著者に影響を与えたような先行著作、あるいは、同時代文献、次に後代となります。

いきなり、3番目に飛びついて、そこに限られた思考時間を費やして延々と議論するのは、見当違いです。

それらは最後についでに検討すべき事項です。

まずは、本丸を攻めるべきです。

注釈はその場で目に入るので真っ先に検討しがちですが、まずは、自身の目で前後を探して用例、平行句を検討すべきです。

自分が格闘することで、注釈者の意図も容易に理解できるようになります。

テキストAを検討すべき時に、延々とそれへの注釈Bの検討にページを費やし、読者も巻き込むのは、寄り道が過ぎます。

まして、注釈にもtextualな問題がある場合もありますから、程々にしておくべきです。

さもないと、いつまで経っても根本テキストが解明されないという無限後退に陥りかねません。

学部時代、サンスクリットを読んでいるのに、問題が出てくると前後用例など調べもせずに、チベット訳ばかり先生がひっくり返して、結局、何も解決しないまま、消化不良で終わってしまう授業経験を何度もしました。

高校生向けオープンキャンパスでも同じ構図が多々あります。

高校生が入ってきてくれたのに、「お茶」とか「お菓子」とか、あるいは、資料など周辺のことばかり気にして、肝心のお客さんとの会話がそっちのけ、というのは、オープンキャンパスホスト未経験の2年生が陥りやすい罠です。

大事なのは一人一人と個別に向き合うこと、という単純明快なことであって、お茶菓子ではありません。

人との会話。

それは、著者との会話においても同じことです。


  1. 2020/03/25(水) 19:04:12|
  2. 未分類

大橋界隈



先日放送されたNHK福岡制作のドラマ「隣のマサラ」の舞台となった場所でもある大橋界隈のネパール関連箇所を散策.

舗装がひどくはげた路面が目につくストリートには,左右に多くの賃貸アパートが立ち並んでいます.

古賀フルーツの店頭には大量の米袋.

Mさんによれば,ダイキョーバリュー大橋店には,バスマティが安く売っているそうです.

大橋といえば,「ブッダ」が移転,かつての「ダルバール」(看板は「ダールバル」)が「ブッダ」になっています.
  1. 2020/03/22(日) 13:38:00|
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KWTBSSRRHD





合間に松田先生校訂和訳のBC15を無事読了。

気がついたところを松田先生にメール。
  1. 2020/03/21(土) 23:57:00|
  2. 未分類

BC 15.22

松田訳「比丘たちよ、尊敬に値する阿羅漢に対して、敬意を払わずに、以前の習慣によって語りかけてはいけません。私には尊敬と非難は同じことであるが、おまえたちを私が不徳から引き戻してあげよう。」

詩ですが,こういうところが,理屈臭がして,いかにもインドっぽいです.

悟っているので、敬われようがけなされようが,どっちも私にとっては同じといいながら、昔の俺とは違うから,俺様をちゃんと敬え,ということです.

直前のv. 21のゴートラとは家系,ゴータマ家のもの(ガウタマ),という呼びかけのことを言っています.

要するに姓で呼ぶことです.

「よー,ガウタマ君」と呼んではいけないそうです.

悟った人から見ると,当然,尊敬と非難とは等しい(ぺたーんと真平ら)のですが,そのことの但し書きを理屈っぽい詩人としては挿入したくなるわけです.

ちなみに,このヴァース,音の連続もかなり意識されています.

mā bhikṣavo vocata pūrvavṛttyā
mānārham arhantam agauraveṇa/
mānāpamānau khalu me samānau
yuṣmāṃs tv apuṇyād vinivartayāmi//15.22

この詩節の韻律はindravajrāです.

― ― ∪  ― ― ∪  ∪ ― ∪  ―  ―

TA TA JA GA GA

タン タン  ティ タン タン  ティ ティ タン  ティ タン タン

仮に三つ(5,3,3)に分けると序破急のリズムといった感じでしょうか.

他には頭が短い∪ ―∪のもありupendravajrāと混ぜ混ぜなので、全体としてみればupajātiとなります。
  1. 2020/03/21(土) 06:43:13|
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The 15th Chapter of Aśvaghoṣa's Buddhacarita in Sanskrit, newly discovered and edited by Prof. Matsuda

世界的に有名な現代日本の仏教学者といえば,辛島(昨年逝去),桂,松田という名前がぱっと思い浮かびます.(他の可能性を排除しているわけではありません.)

で,松田先生.

毎回,驚くような発見ばかりですが,今回は,さらにびっくり.

馬鳴(紀元後2世紀)作Buddhacaritaの第十五章,これまでサンスクリットが失われていたものです.

それを,トゥッチのサンスクリット写本の写真――三啓集Tridandamalaを撮影したもの――から回収したというから驚きも驚き,大発見です.(志賀島の金印を土中から見つけるよりも遥かに大きい衝撃です.)

仏教徒全員が読むべき(そして現に読んできた)仏教文学の最高峰の失われたサンスクリット原典が回収されたわけですから,

しかも,初転法輪といえば,ドラマチックな場面です.

図像を見るにしても,これを読めば,往時の人が前提としていた情景がよりvividになるでしょう.

なにしろ,原語で読めるわけですから.(漢訳やチベット訳で読むのとは明瞭さのレベルが違います.)

ありがたいことに,和訳も付されています.

馬鳴のいいところは,(当時の優雅な)詩も楽しめ,(当時と後続の仏教徒が当然の前提としていた)史実(仏陀の事跡)も楽しめ,往時の教義教養も楽しめるところです.

後代への影響力絶大の(つまり多くの人に読まれてきた)Buddhacaritaですから,仏教を伝統に沿って学びたい者には必読の書です.





松田和信
ブッダチャリタ第15章「初転法輪」――梵文テキストと和訳――
佛教大学仏教学会紀要 25 (2020)
pp. 27-44

Sanskrit Text and Japanese Translation of the Buddhacarita Canto 15
Kazunobu Matsuda
The Bulletin of the Association of Buddhist Studies (Bukkyo University)
Vol. 25 (2020)
pp. 27-44




姉妹論文は以下.

松田和信
三啓集(Tridaṇḍamālā)における勝義空経とブッダチャリタ
印仏研68-1(2019年12月)
pp. 1-11
  1. 2020/03/21(土) 06:07:34|
  2. 未分類

3月の出版

あれこれの拙稿,3月にまとめてどっと出た感じです.

ディグナーガ,シャバラ,シャーリカナータ,ジャヤンタなど.

東文研紀要は,つい先日,最終校が来ていましたから,例年より遅れている感じがします.

担当の松本さんが退職されてからというもの,年度内で一人が途中交代,引き継ぎの関係もあり,おそらく遅れがちなのでしょう.

例年のスケジュールより遅く,ぎりぎりの感じがします.

ジャヤンタは,これで,出したエディションについては和訳が揃ったので,ひとまずやれやれです.


2020e A Critical Edition of Sabarabhasya ad 1.1.24-26: Vakyadhikarana. 『東洋文化研究所紀要』(The Memoirs of Institute for Advanced Studies on Asia) 177. forthcoming.

2020d Salikanatha on Language Acquisition: A Study of "Vakyarthamatrka" II. The Bloomsbury Research Handbook of Indian Philosophy of Language, ed. by Alessandro Graheli. Bloomsbury (2020 March). 278-294.

2020c Dignaga on Relation. The Bloomsbury Research Handbook of Indian Philosophy of Language, ed. by Alessandro Graheli. London-New York: Bloomsbury (2020 March). 165-180.

2020b インドの形而上学.『世界哲学史3――中世I 超越と普遍に向けて』伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留(編).ちくま新書1462(2020/3/10第一刷),201-224.

2020a ジャヤンタの真理論――Nyayamanjari和訳――. 『哲学年報』79 (2020/3/5発行), 1-75.
  1. 2020/03/20(金) 06:53:57|
  2. 未分類

磯貝ほか







インド・パーキスターン・ネパール・スリランカはともかくも,和風の居酒屋については,まったく脳内リストが更新されず,行くとなっても,もっぱら他者にお任せ.

M鍋とS藤の送別会.

いずれも現在は大学のある西のほうに在住.

というわけで,今回は天神ではなく西新あたりがよかろう,という合意により,藤崎の有名店「磯貝」にて,ささやかな送別会.

本店は初めて来ます.

お二階にて.

洪さんも来ましたが,生もの全てNG.

刺身はもちろんダメ.

さらに,つきだしが,白魚の踊り食いでした.

いわずもがな,もっと無理.

参加者には甲殻類NGのひとも.

美しく盛られた刺身,いずれも美味でした.

二次会は,I君も合流して,ちかくの餃子屋に.

この手の小ぶり・羽根つきの博多風の焼き餃子,久々に食べました.

ここのところ,中華に行っても,大概,餃子は水餃子.

この騒ぎで人が少ないのかと思いきや,地元密着型の西新の人気店は,いずれも流行っていました.

普段はもっと一杯なのでしょう.


M鍋がいなくなると喫煙者がいなくなる(言い換えると眞鍋と煙のanvaya-vyatirekaが存在する)ので,今後のQ大印哲会は,きれいな空気で食事が楽しめます.


S藤君は,4月から北関東.

K島ワーラーも活動するエリア.

車も持っていってますから,ディープなパーキスターン関係も,あちこち行けるのでしょう,うらやましい限りです.
  1. 2020/03/20(金) 05:47:56|
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ザエカ





マトンスペシャルとランチ通常メニューのサグチキン.

ナンがやたらうまいので褒めると,アリさん曰く,牛乳量が(意図せず)多くなってしまって,結果,美味しくなってしまったそうです.

前日が大入りだったそうで,粉のほうが足りなかったようです.

にしても,マトンスペシャル,2000円だけあって,ごろごろ入ってます.
  1. 2020/03/20(金) 05:46:26|
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ユスフザイ



パーキスターン人車屋さんのたむろうユスフザイ.

にしても,ひっきりなしに携帯が鳴ったり,あるいは,音声全開で携帯の相手と会話しながらの習慣は,日本にはない空間演出で,異国情緒が濃厚に漂います.

マトンプラウ600円.

この日はイムランが店番でした.

パーキスターン人三人がカバブを注文したので,便乗注文.

カバブ一本が100円.

ハンバーグなど日頃たべないので,久々に食べると美味しいです.

そういえば,先日のハンブルク,わたしが行かなかったイタリアンか何かのディナーで,北米から来た人が「せっかくハンブルク来たから」ということで,無理にハンバーガーを頼んでいたそうです.

横で見ていた人によると,全然うまくなさそうなものが出ていたとのこと.

人の気持ちはわかりません。


全知者の全知はad.r"syaであると喝破したのはダルマキールティですが,人の気持ちはブラックボックス,他人には所詮pramaa.naレベルでは分かりようがありません.(適当な類推はできますが.)

まあ,すると,仏陀の慈悲も正攻法では証明不可能ということになるはずです.

どう考えてもanyathaanupapattiしかないでしょう.

また,すっかり定説となった感のある「円盤の勢いのように」という比喩からいくと,悪く言えば「惰性で教えてた」ということも言えるのではないでしょうか.

問:なぜ仏陀は法を説いたのですか.

答:一種の惰性です.ヤル気は(今現在は)ありません.(むかしはあったんだけど.)

所知障も断じて,悟ってしまうと,そこから更なる成長を(理論上)想定できないので,困ったものです.

普通に考えると,仏陀も悟って以降に円熟したはずですが,そういうのは仏教の定説ではすべて否定されます.

所知障を断じる内容の中には教えの巧みさも入ってますから,若くして既に完璧な教師になってるはずです.
  1. 2020/03/20(金) 05:45:45|
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論理はどこで鍛えられるか?

限界や周辺が中心に潜む真の問題点を明らかにしたり,あるいは,議論を発展させてくれる,見方を深めてくれる,ということはよくあることです.

インド哲学でも,無理くりの話題が論理の深化・進化を促してきました.

ミーマーンサーのヴェーダ聖典の非人為性や,認識の自律的真,

ニヤーヤ学派の主宰神論証,

仏教徒の全知者擁護.

仏教徒の刹那滅論というのも,無理な話題を一所懸命擁護しようとするなかで,様々なツールが開発され,議論が深められてきた話題の一つです.

一般の人も,「諸行無常」の旗印くらいなら,「はー,そうですか」くらいで受け入れ可能ですが,「すべてが刹那滅」となると,普通には受け入れ不可能でしょう.

しかし,そこを無理強いするのが仏教論理学認識論.

無理強いで馬力が出るのが人間です.

徳俵での踏ん張り.

こじつけ論理も突き抜ければ,普遍性をもちえて,意外に他でも有効に使えたりします.

ジャヤンタの想定する仏教徒によれば,知覚によって刹那[滅]性が把握されるというのですから,たいしたものです.

要するに,刹那滅は明々白々,自明だというのです.
  1. 2020/03/19(木) 19:07:52|
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論理の花房の醍醐味

講義をしていると分かりますが,脱線も必要です.

というか,大概,脱線話のほうが記憶に残ったりしています.

ちょこちょこ脱線する,ということで変化が与えられますから,飽きずに聞き続けられるわけです.

ジャヤンタは,脱線というか,「ちなみに」のprasa"ngaや,「ちなみにちなみに」のprasakta-anuprasaktaで深入りすることがよくあります.

彼の頭の中では密接に関連しているので,その連想を抑えることなく,深入りして,哲学的な含意――たとえば他説における深い意図や可能性――を探っていくわけです.

そうすることで,読者も自然と,論争の含意・背景について,鍛えられていくことになります.

当該の議論のためには,軽く「非知覚」で済ませばいいものを,仏教徒との対論ですから,当然,ジャヤンタの心の中のダルマキールティが黙っているわけもなく,「いやいや,非知覚anupalambhaは厳密ではなく,知覚可能なものの非知覚d.r"sya-anupalambhaだ」ということになりますし,さらに,知覚可能なものの非知覚d.r"sya-anupalambhaは,誰にとっての知覚可能なものの非知覚d.r"sya-anupalambhaなのか,という,よくある議論に持ち込まれていきます.

そこまで徹底することで,議論が深まっていくわけです.

読者は,刹那滅というトピックを読みながら,知らず知らずに別の仏教説の深みに連れて行かれるわけです.

ジャヤンタの『論理の花房』を読んでいると,こういう楽しさがあります.

神社も,よく,周囲や裏に回ると別の神社の摂社・末社があって,一石二鳥ならぬ,一度で多効果が狙えて便利ですが,ジャヤンタも,或るトピックを学ぶと別のトピックも同時に学べるので便利です.
  1. 2020/03/18(水) 19:10:32|
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全南からの訪問研究者

去年の3月に就職が決まって帰国したHyoung.

彼からメールがあったのが8月頃だったでしょうか.

「指導院生が留学できないか?」とのこと.

しかも,10月から.

パンクロック魂よろしく,ギリギリ人生が大好きなHyoungですが,それにしても急な話です.

こちらも大急ぎであれこれ手続きして,なんとか10月に間に合わせました.

そうしてやってきたのが指導院生である全南の博士のChoさん.

昨年の10月から半年計画の福岡遊学を終えて,3月頭に無事帰国.

ちょうどのタイミングでした.

いまからだったら無理だったでしょう.

ディグナーガがやりたい,とのことで,一緒にディグナーガのPS1の知覚章を,ゆっくりと味読.

ディグナーガは,やはり,いいですね.

しかし,リコンストラクトですから,あちこち不自然なサンスクリットもあります.

そこは,流すわけにもいかず,ジネーンドラを見ながら,あれこれと思案する必要がありました.

自説,世親のVadavidhi,ヴァイシェーシカ,ニヤーヤ,サーンキヤの頭で,ちょうど半年が終わりました.

全南と九大とは,交流協定があったはずなんですが,去年のその時に調べると,ちょうど交流協定が失効したようで,寮などでも融通が利かないので,外のアパートに住むことになったのは可哀そうでしたけど,まあ,ひとまずはすべて,問題なく進んで,問題なく終わったので何よりでした.

留学は家探しが大変ですから.

ハンブルクも,今は,家探しが大変とH.

聞くと,家賃もえらく高いそうです.

どこも住みづらい世の中です.

その点,福岡は,家探しは(日本語ができる人と一緒にまわれば)簡単な部類なので,外国人でも,たとえ短期でも,住めるところが見つからないということは,まずないでしょう.

ありがたいことです.

ちなみにChoさん,姪浜にしていました.

眞鍋も姪浜.(←今年3月末で退去予定.)

やはり,市営地下鉄の範囲内ということで,姪浜という選択肢は有力候補となります.

学研都市だと供給物件が不足しているようで,一人用の手ごろなのは見つからなかったりしますから.
  1. 2020/03/17(火) 19:34:35|
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ISF













  1. 2020/03/17(火) 18:49:36|
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ラヴィグプタとジャヤンタの刹那滅論争

知覚(例えば視覚)について言えば,刹那滅理論には無理があるでしょう.

時間間隔が前後での視覚物の位置変化に関わっていることに注目すれば,変化が起こらない限り,時間間隔はむしろないとするほうがいいのかもしれません.

テレビ画面のように刹那のコマごとに区切られている認識モデルを想定するのは,単に,そういうモデルが理想的と勝手に仏教徒が考えているだけで,人間の知覚の現実には即していません.

変化の無い限り,空間的に把握されたその対象の時間情報は与えられず,動きのあったときに初めて,前の瞬間のAの位置aと後の瞬間のAの位置a'とのズレを,「こちらaからこちらa'に動いた」等として,前後関係を把握し,時間を再構成するとする方が無難です.

というわけで,ジャヤンタのいうように,動かない壺をじっと見ている場合,知覚で前後のある程度の持続性も捉えられているとする常識的な見解のほうが,刹那滅理論よりはよっぽどましです.

認識が瞬間瞬間に変化しうるからといって,それに合わせて対象までもが瞬間瞬間ごとに(たとえ全く同じに見えても)変化しているとするのは無理があります.

何の変化もない状態では,時間はそもそも感覚されていないというのが正解ではないでしょうか.

とすると,知覚により刹那滅性が捉えられているという仏教説も,ある程度の前後の持続性も捉えられているというニヤーヤ説も,いずれも間違いで,正解は,すくなくとも動かない壺を見ている時に,時間は捉えられていないというのが正解で,どちらかといえば,ニヤーヤ説のほうがまし,というくらいでしょうか.

動きのある対象を見た時に,前後感覚が生じますが,それを極限にまで拡大して対象の刹那滅(瞬間瞬間の変化)を言うのは,やりすぎでしょう.

仏教僧ラヴィグプタと,ニヤーヤのジャヤンタの刹那滅論争,まだまだ,注目です.(そして,彼らには申し訳ないけど,両者とも,間違ってます.)

ちなみにゲルク派では、刹那は伸び縮みするらしいですから、そちらのほうが、実態に即します。
  1. 2020/03/17(火) 08:25:36|
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インド哲学解明のためのディシプリン

インド哲学Indian philosophyといっても,担う人により,実質は色々です.

それはディシプリンの違いによります.

いわゆるインド学Indologyの一部としてのインド哲学や,あるいは,仏教学Buddhology, 仏教研究Buddhist studiesと密接に関係するところのインド哲学は,しばしば文献学的philologicalと称されることからも分かるように,文献学,つまり,ラテン語・ギリシャ語文献を扱う西洋古典学のディシプリンをモデルにしたものと考えて良いでしょう.

欧米の優れたインド学者の中には,西洋古典学の教養が濃厚な人が多数みられます.

A.サンダーソンは代表例でしょう.

西洋古典学の訓練を受けています.

ドミニクも,ラテン・グリークは結構やっていたそうです.

教養システムに古い機構を残すハンガリーのチャバもです.

ほかもいくらでもいます.枚挙にいとまがないといっていいくらいです.

イタリア人のアレッサンドロも,直接・間接に濃い濃い薫陶を受けてきたはずです.

イタリア語でいくらでもモデルはあるでしょう.

我々の漢文・古文と同じで,中学あたりからやっていて,中にはすごく得意な人もいる,というので類推できるでしょう.

というわけで,まずは,文献の整備から,ということになります.

古い楽譜を掘り起こすのと同じです.

古い手書きの原本から(場合によっては何代かに渡って転写され継承された楽譜)から正確にその作曲者の音楽を再現するには,当然,様々な解釈・読み込み・再構成の訓練が必要となります.

楽譜コピーがあれば音楽がそのまま再現できるわけではないのはいわずもがなです.

いっぽう,これと対極にあるのが,文献が実際に何を説いているのか,結局,何を言っているのか,その肝を掴もうという哲学者です.

哲学的な意味を取り出すわけですから,ほかのマイナーな情報(たとえば異読情報や時代区分)は捨象されます.

議論がどう成り立っているか,筋が通っているか,論理的かどうか,ということが第一義的には問題になりますし,当然,議論それ自体は所属する時代を越えて比較可能となります.

使える素材に限界はあっただろうが,昔のレシピ―も,うまいならうまいと評価する,という立場です.(まずいレシピは哲学者なら「まずい」と一言言って,あとは無視するでしょう.いっぽう,文献学者や哲学史家・思想史家であれば,まずくてもそのまま再現して,時代ごとに並べて見たり,発展具合を見たりすることでしょう.グルメの店探訪が高じると,まずいも楽しいというのと同じです.)

あるいは,インド料理もフランス料理も,うまいものはうまい,ということで,地域は関係ありません.

場合によっては,創造的誤読ということもありかもしれません.

楽譜の新たな解釈も,いま聞いてよければ(たとえそれが作曲者の意図と違っていても)それでよい,ということになります.(文献学者・哲学史家に言わせれば,このような創造的誤読は許されません.シュミットハウゼンも,仏教文献の創造的誤読に対してはえらく敏感です.)

チキンティッカマサラが本当にムガール宮廷料理だったかどうかは本質的には問題ではありません.

今うまければそれでいい,というわけです.


当然ですが,テキストがある程度整備されていないと哲学的営為はぐらついてしまいます.

現代哲学も,いにしえの古典文献学の成果の上に成り立っているわけです.

今使われているプラトンやアリストテレスの文献の校訂本も,えらい昔なのでびっくりさせられます.

とうの昔に整備されているわけですから,いまさら,それについてあれこれ悩む必要なく,ただ参照すればいい(とされている)わけです.

インド哲学の場合,この足元が怪しいので,残念ながら,インド哲学者といえども,文献学的訓練は欠かすことができません.

テイバーは,もともと哲学者で,出自的に文献学とは無縁の人です――博論から見るとむしろ比較思想に分類されます――し,大学でも普通に西洋哲学を主に教えているそうですが,いまは,さすがに長年やっているだけあって,サンスクリット文献の専門的な扱いも相当に熟達しています.

伝統の続くナヴィヤニヤーヤならいざしらず,伝統の途切れたミーマーンサーの場合,自分で文献を読み込むしかなく,これがないとプロとしてやっていけないから仕方ありません.

パンディットから聞いたり,二次文献読むだけではアクセス不可能な世界がミーマーンサーです.

自分で文献を,手続きを踏まえて読むしかありません.

ハルプファスは,西洋哲学史・西洋哲学両方のディシプリンの上に,サンスクリット哲学文献を解釈できた稀有な成功例でしょう.


ところで,インド学という大きい括りで言うと,言語学も重要なディシプリンです.

カルドナが典型です.

比較言語学です.

カルドナの場合は,インド哲学文献も普通に読んでますが,これは,シャーストラとして,文法学論書の延長として読んでいるわけです.

ヴェーダと文法学の素養があり,マハーバーシャやバルトリハリが読めれば,論書のフォーマットは同じですから,たとえミーマーンサーであっても,大概の論書は読めます.

まして,ナヴィヤ的文法学も押さえているとなると,ナヴィヤニヤーヤも特に問題なく読めたりするわけです.

カルドナのような例は,欧米のインド哲学者には,例を思いつきません.

言語学のディシプリンからインド哲学文献を読む人.

両分野があまりにも違いすぎるからでしょう.

弟子のピーターシャルフあたりがそういう方向に進むのかと思いきや,いまは,全然違う方向に行っていますし.

文法学をやると,むしろ,プログラミングのような,見るからに明晰なものに進むのが自然で,ややこしい哲学文献のぐねぐねした議論の相互応酬を追うのは,性に合わないという感じがするのかもしれません.

ともあれ,サンスクリットの哲学文献の場合,ディシプリンとしては,インド土着文法学というディシプリンもありですが,これは,欧米ではそのままでは方法論としては受け入れられないので,言語学という欧米のディシプリンを通してやらないとだめなのでしょう.

カルドナはその稀有な成功例ということなのでしょう.


日本人の我々の場合,普通の環境で生まれ育てば,カルドナ(言語学背景)やハルプファス(哲学・哲学史背景)のようになるのは,おそらく,稀有も稀有,万に一つでしょう.

地道に宇井伯寿方式でやるのが堅実です.

西洋哲学とインド哲学との比較を日本人がやるといっても,我々ごときでは,その西洋の理解のほうが欧米の人よりも怪しいという場合が多々予想されます.

その分野は,ナヴィヤの伝統があるカルカッタ出身のインド人(マティラル他)が情熱をもってやっていますが,それに負けず劣らずできるというのなら別ですけど,いまのところ,日本人の成功例(つまり正解)を私は見出せません.

また,日本語ローカルの環境の中で,西洋哲学とインド哲学とを比較展示することに,どれだけの意味があるのか,いまひとつその意義が不明です.

日本語でやっている限り,西洋中心の哲学の本丸の中にインド哲学を組み込ませようという流れは起きません.

マティラルがやろうとしていたことは,そういう流れを生み出さんとする運動と捉えることができます.

そのような情熱とともにインド哲学を比較している日本人などいるはずもありませんし.

欧米の(西洋)哲学者に,英語で影響を及ぼす日本のインド哲学者など聞いたことがありません.(いっぽうマティラルは,本当に,我々の知っているような(ハーバードやオックスフォードの)「哲学者」達が身近にいたわけですから,影響を与えることは可能だったわけです.そういえば,クワインが有名な論文の中でシャーリカナータを引用していたと記憶しますが,あれは,誰の影響なのでしょうか?)

要するに,マティラルと同じレベルで運動を起こせる日本人は,まあ,いないでしょう,ということです.

希望薄.


そういう視点で言うと,桂先生の遍歴というのも興味深い所です.

梶山・服部スタイルということは,長尾雅人・山口益・シルヴァンレヴィ経由で,フランス風の文献学とまずは分類されます.

それにプラス,トロントでの欧米の学者+インド人学者との付き合い.

哲学およびインド哲学です.

最高に恵まれた環境です.(インドに行かずしてインド人学者のベストな層と付き合えるというのは楽です.)

ダルマキールティやディグナーガ哲学の英語論文での紹介という意味で,世界的権威であることに間違いはないでしょう.(錚々たる欧米の仏教学者が広島に習いに来ていました.桂先生のかつての宮島の別荘――いまはお好み焼き屋になってます――の来訪者記録ノートを見たら,錚々たる面子の連続に卒倒します.)

しかし,日本人インド学仏教学者で10年も欧米で研鑽できる人は,まあ,滅多にいません――近いところでは苫米地さんや室屋さんがいますが――から,普通に目指してできるものでもない気がします.

そういえば,この前まで福岡にいたHyoungも,デシュパンデのいたミシガン他で10年ほどいたそうですが,さすがに書き英語がうまかったです.

そんぐらいいないと,本当の意味では,読まれる書き英語は身につかないでしょう.
  1. 2020/03/16(月) 07:07:17|
  2. 未分類

The Zoom

毎年,春は,タイでハルの形象論研究会のはずですが,今年は残念ながら,イベント自体がキャンセル.

対象である研究会が存在しないために,研究会の形象も(すくなくとも直接知覚によっては)現れてきません.

残念です.

しかし,Aは,自分の論文をチェックしてほしかったのでしょう,Zoomでの開催を提案.

というわけで,Zoomで,NMの読書会が始まりました.

というわけで,Jnanasriの形象論はなしですが,A&H主催のNMの刹那滅が行われています.

あまり状態のよくないマイソール第二巻の一節ですから,テキスト訂正もそこかしこにあります.

まさか,ジャヤンタも,刹那滅が,ヨーロッパ・インド・日本・アメリカなどと,世界をまたいでズームされるとは思わなかったことでしょう.

これを機会に,日本でも,遠隔授業が(適宜場面に応じて)進めばよいですが,どうなるでしょうか.

もちろん,直接の接触に越したことはありませんが,既に見知った研究者同士であれば,遠隔でも,なんとかそこそこいくでしょう.

もちろん,微妙なニュアンスにまで至る,いろんな情報ロスはあるでしょうし,多くの人の関わり具合・熱意の減退は避けられないでしょうけど.

わたしも,遠隔だと,外から割って入るのに,少し躊躇してしまうでしょう.

なんでもそうですが,ものによりけり,状況や対象に応じて,適宜,適当な手段が用いられるべきでしょうし,そうするしかないでしょう.
  1. 2020/03/15(日) 19:39:58|
  2. 未分類

マイティガル

野猪カレー
  1. 2020/03/15(日) 10:12:10|
  2. 未分類

IPL











https://www.bloomsbury.com/uk/the-bloomsbury-research-handbook-of-indian-philosophy-of-language-9781350049161/

The Bloomsbury Research Handbook of Indian Philosophy of Language
Editor: Alessandro Graheli

Published: 19-03-2020
Format: Hardback
Edition: 1st
Extent: 488
ISBN: 9781350049161
Imprint: Bloomsbury Academic
Series: Bloomsbury Research Handbooks in Asian Philosophy
Dimensions: 234 x 156 mm
RRP: £130.00
Online price: £117.00


Introduction

Part I. Of Speech Units: Phonemes, Words, and Sentences
Introduction
1. Linguistic Segmentation in Early Vyakarana, Maria Piera Candotti
2. From Permanent Phonemes to Words, Monika Nowakowska
3. Ontology and Epistemology of Speech in Nyaya, Alessandro Graheli
4. The theory of the Sphota, Akane Saito
5. A Buddhist Refutation of Sphota, Sara McClintock
6. The Place of Language in the Philosophy of the Recognition, Marco Ferrante

Part II. Of Word Meanings
Introduction
7. Early Nyaya on the Meaning of Common Nouns, Matthew R. Dasti
8. Dignaga on Relation, Kei Kataoka
9. Meanings of Words and Sentences in Mimamsa, Elisa Freschi
10. Sabdartha as Sense or Reference: Dharmakirti on Synonymy, Patrick McAllister
11. Semantic Relations and Causation of Verbal Knowledge, Alessandro Graheli
12. Human Intellect and God's Will in Navya Nyaya Semantics, Yoichi Iwasaki

Part III. Of Sentence Meanings
Introduction
13. Salikanatha's Introduction to his Fundamentals of Sentence Meaning, Andrew Ollett
14. Salikanatha on Language Acquisition, Kei Kataoka
15. The Deontic Nature of Language in Mimamsa and Vedanta Schools, Elisa Freschi
16. Speaking of the individual: Prakasatman's akhandarthavada and the beginnings of a theory of language in classical Advaita-Vedanta, Hugo David
17. The Role of Intention in Gangesa's Non-Communicational Model of Verbal Understanding, Yoichi Iwasaki

Part IV. Of Implicatures
Introduction
18. Kumarila on the Role of Implicature in Sentence-Signification, Lawrence McCrea
19. The Intentionality of Words: Jayanta's Syncretism of Nyaya and Mimamsa, Alessandro Graheli
20. Rasa as Sentence Meaning, Andrew Ollett
21. Meaning beyond Words: The Implicature Wars, Daniele Cuneo

Chronology
Glossary
Annotated Bibliography of Indian Philosophy of Language
Index


アレッサンドロのSaphala研究会の成果の第一弾.

2017年12月に行い,各自がプレゼン.皆で議論.

そのときの各自のプレゼン,および,プラスアルファが,この本に順序良くまとめられています.

というわけで,2年強で本を出したわけですから,いかに早いか分かります.

といっても,途中,編者のアレッサンドロには,いろいろな苦労がありましたが.

なんといっても困ったのは,最初TeXでオッケーかと思いきや,出版社がやっぱりワードじゃないとダメ,ということで,急きょ,皆の原稿をワードに変換する必要が出たこと.

彼が一度テフでそろえたのを,また,彼がワードにしなおしたりしていたと思います.

すべて,優秀な編者でもあるアレッサンドロがやってくれたので,我々は校正だけでしたけど.(といっても,日程は,そのせいできつきつに.)

編者はつくづく大変です.

ともあれ,この手のちゃんとした本にしては,驚異的なスピードです.

これでも,彼にとっては遅いのでしょうけど.

本当は,さっさと集めてさっさと仕上げて,次の本に取り掛かりたかったはずですが,現実には,なかなかそうはいきません.

以下が,Saphala Iの概要.

SAPHALA workshop
South Asian Philosophy and Language

Time: Monday-Wednesday, 18–20 Dec 2017
Venue: Institute for the Cultural and Intellectual History of Asia, Hollandstraße 11-13, 2nd floor seminar room (2.25), 1020 Vienna
Organisation: Alessandro Graheli
AIMS
This is the first of four yearly SAPHALA (South Asian Philosophy and Language) workshops, planned for the years 2017–2020 period. The workshops aim at the following primary goals:

Providing a forum for a debate on philosophical questions related to language from the perspective of South Asian philosophers
Tracing the historical development of philosophical ideas around language in South Asia
Finding bridges with philosophical issues of contemporary relevance


LISTED SPEAKERS
Daniele Cuneo (Université Paris 3 Sorbonne Nouvelle, France)
Hugo David (EFEO Pondicherry, India)
Marco Ferrante (IKGA, Vienna)
Elisa Freschi (IKGA and ISTB, Vienna)
Alessandro Graheli (IKGA and ISTB, Vienna)
Kei Kataoka (Kyushu University, Fukuoka, Japan)
Yoichi Iwasaki (Honolulu, USA)
Andrew Ollett (Harvard University, USA)
Patrick McAllister (IKGA, Vienna)
Monika Nowakowska (University of Warsaw, Poland)
Akane Saito (Kyushu University, Fukuoka, Japan)

DISCUSSANTS
Artemij Keidan (University of Rome "Sapienza", Italy)
Rafal Kleczek (ISTB, Vienna)
Cristina Pecchia (IKGA, Vienna)
Shishir Saxena (University of Cambridge, United Kingdom)
Toshikazu Watanabe (IKGA, Vienna)

http://kaula.blog110.fc2.com/blog-entry-2600.html
  1. 2020/03/12(木) 07:26:10|
  2. 未分類

ヒンドゥークシ

ハンブルク,前回に来たのがかなりさかのぼって2010年の7月.

そのときも,このヒンドゥークシに来てました.

先導していた堀内さん.

マルティンとの会話に必死のあまりなのかどうなのか,確認もせず,バルチスタン料理のほうに行くのかと勝手に思いこんで,そちらに向かって無駄に道を渡ってしまいましたが,きょうは,そこではなくヒンドゥークシ。

移転前ですから,行っておかないといけません.

内装といい,中の雰囲気を含め,最高です.(福岡だと,マイティーガルが持っているような老舗の雰囲気です.)

味ももちろん最高.


研究会の参加者は結構な数.

たぶん,20人はいたでしょうか.

そこから夕食に行く人が10人.

ハルが電話で予約.

移転前ということもあるのか,最近は,結構混んでいるそうです.


前回に行った時の写真を見直すと,だいたい同じもの頼んでいました.

ほうれんそうのプラウ.

ただし今回は,ほうれんそうでも,ラム入りにしました.24番.

前回は,ほうれんそうのベジにしたようです.

左右隣席の注文皿も,どちらも美味しそうです.

堀内さんは,ナス.

34番は,新作らしく,最近の人気メニューだそうです.

飲み物は,堀内さんが「マンゴーラッシー」と頼むと,「ない」とのこと.

「塩入のラッシーならあるよ」

とのことで,彼はそれに.

メニューにDoochとあるやつです.

しかし,「塩入」の部分を聞き飛ばしていたようで,すっかり甘いもの期待舌になっていたのに,飲んだとたん塩味で,かなりげんなりしたようです(笑).

ちゃんと,ザルチッヒと言ってましたから,店主に過失はありません.

わたしは,せっかくのドイツなので,ゲトレンケはフランチスカーナーに.


研究会は,マルティンも久々に会えるし,なぜか京都のアンドレイも来るわで,楽しい会でした.

マルティンは,ちょっとドイツに帰るつもりだったのが,中国に帰れなくなって,予想外にこちらに長くいることになっているようです.

どうなるのやら.

ともあれ,私としては,彼に久々にあえてよかったです.

中国にいるとなると,ますますレアキャラですから.


いまのところ,現地滞在組の日本人若手は,早稲田と京大からのお二人.

わたしも院生になって,BDKで1年くらい滞在したいです.

にしても,ハルの学生,わんさかいます.

これ全部面倒見てたら,相当大変でしょうね.(というわけで,全部全部はさすがに個人指導レベルでの面倒は,みてはいないようですが.)

とはいえハルの授業,あれこれあるようなので,真面目に全部でれば,相当勉強になるでしょう.

前回イタリアで会ったデイジーは,すっかり,お腹がおっきくなっていました.

Hejungとは,オールザベストの握手代わりにひじつき.







































今回の滞在,来る前に寒さが戻ったそうで,春めいたところは皆無.

曇天で,天気としては最悪でした.

いずれにしろ,朝から晩まで研究会で,外にでる時間もないので,まったく関係なかったですが.

髭剃りでも買おうと思いましたが,店に行く暇もありませんでした.

ホテル→駅の売店→研究会→駅の売店→ホテル

というような往復経路で,終わりました.

夕食も,眠いので,最後に一日だけ皆と夕食.

あとは,サンドイッチ買って食べてさっさと寝てましたが,正解でした.

だいたい,だらだらと,夜の10時過ぎまで,ディナーだったそうです.

夜8時すぎるとジェットラグで限界です.

夜8時でも,そもそも,日本時間の朝4時ですから.

目が自動的に覚めるのが,だいたい,朝の1:30とか2:00とか.(日本時間の9:30,10:00)

日本帰って,朝からとなると,また死ぬことが目に見えてます.
  1. 2020/03/10(火) 16:26:05|
  2. 未分類

way back to FUK

四泊で早々に帰路に.

ワークショップ自体は,今日も明日の午前も.

本当なら,ぎりぎりまでいたかったのですが,福岡で業務もあり.

何が有るかわかりませんから,ギリギリ帰国は怖いので,一日余裕をもって帰国.

幸い,偶然にも便は加納さんと一緒.

ハンブルクは空港が近いので,最後の最後までワークショップに参加.

9時に大学に行って,10時まで(加納さんのテクストを読む)ワークショップにでてから出発.

11時前には無事に空港に着.

すいてます.

すいすいと中にいき,ヘルシンキへ.

そこで,加納さんと雑談.

すると,「カタオカ」というアナウンス.

別人か,とおもいきや,私でした.

加納さんと成田まで同じと思い込んでいた私の便は,よくよく見ると,加納さんとは別の便で,ひとつ前のやつでした.

大急ぎで逆端にダッシュ.

キックボードで向こうからやってきた日本人の空港職員のお姉さんが「カタオカさんですか」「連絡しておきますので」とのこと.

あのキックボード貸してくれたら,もうちょっとダッシュも楽だったのですが.

ともあれ,無事に間に合いました.

ちょうど,加納さんと,浮世離れした印哲学者の話をしていたところですが,わたしも,かなりの空中浮揚ぶりです.

そもそも,便の詳細も,加納さんが一緒にいるから大丈夫だろう,ということで,まったく見ていませんでしたから.

ヘルシンキ空港の端っこで加納さんと食べたソーセージのホットドッグ,もうちょっとうまいのかとおもいきや,案外普通でした.

さらに,ホットでもなく,ちょいあたたまってくるくらいでした.

ともあれ,堀内さんは,昔とかわらぬ(現役大学院生も真っ青の)真剣な学究ぶりですし,ハルはあいかわらずすごいですし,あれこれの素材は貴重な資料ですし,刺激を受けること大のワークショップでした.

ひとりでやってると,やはり,現役感が減退するので,たまに,こういうのにでないと,徐々に衰微していってしまいます.

齢を経るにつれて長距離移動がしんどくなるのですが,今回は,行きも帰りも3席独占で寝れたので,異常に楽でした.

満席の便でなくて,たすかりました.

なにが幸いするかわかりません.

むしろ,くせものは,成田から福岡の接続が若干スムーズでないこと.

結構,成田で,待たされます.
  1. 2020/03/10(火) 11:12:24|
  2. 未分類

研究とは,プラマーナとは

ミーマーンサーをやってると,どうしても,プラマーナの定義に影響を受けて,新しいことを言わねばならない,という研究態度になります.

ミーマーンサーでは,大昔から,ヴェーダのそれぞれの文単位が,なにか新しい情報を付け加えているはず,という見方で分析しますから,どれが旧情報で,どれが新情報か,という読み込み,分析が肝になります.

つまり,既知のものに関連付けながら,なにか新しいことを伝えているのがヴェーダの文,というプラマーナである,ということです.

それを一般にも敷衍して,プラマーナというのは,新規情報を伝えるものだ,ということをいいます.

知覚もそう.

したがって,流れのような連続知ダーラーヴァーヒカで,繰り返し同じ壺を見てる場合でも,「いやいや,そこに見えている時という限定要素は違うから,壺1,壺2,壺3というように,時の違いがある」というようなことまでいいだします.

つまり,同じ壺にみえて,限定要素たる時は違うから,新しい部分はある,とまでいいます.

まあ,ここまでやると,あきらかに無理矢理すぎますが.

ともあれ,正しい認識プラマーナの対象は,新しいものでなければならない,ということです.

普通「正しい」といえば,対象通りであれば,それで十分なんでしょうけど,単なる繰り返しの再言(繰り言!)や,あるいは,昔経験したことの想起(昔経験したものを振り返るだけ)などという認識的な繰り返しというのは,プラマーナではない,ということです.(これは,ニヤーヤにおいてもそうです.想起は対象通りであっても,プラマーナではありません.しかし,ニヤーヤにおいては,対象通りであることがプラマーナの定義的特質になります.想起はそもそもからして,プラマーナの候補者枠から外れているということになっています.問題外.)

仏教論理学・認識論でも実際には,同じです.

ダルマキールティが,齟齬のない知,というのともう一つ,未知対象の輝き出し,というように,定義してますから.

で,こういうミーマーンサーのプラマーナ論に触れていると,当然,研究においても,論文たるもの,なにか新しいものを付け加えてなければならない,という強迫観念がうまれます.

まあ,どこの分野でも,論文というのは,そういうもの(そうあるべきもの)でしょうけど.

なにか新しいものや,新しい切り口,あるいは,なんらかの新しい部分情報(限定や排除)がなければならない,ということです.

ミーマーンサーの規定の三種の分類でいうと,まるまる新規情報を供与するタイプと,すでに供与された情報をもう少し狭めて限定してやるか,あるいは,否定的に言えば,不要な部分を排除してやるか,ということです.

新しい視点で問題を明確化するなどというのは,第二のタイプでしょう.

ぎゅっと狭めてやって,境界線を明確にしてくれるわけです.

比較思想などは,第二,第三のタイプに資するでしょう.

私の周辺が主にやっているのは,材料提供系のまるまる新規情報を供与するタイプですから,おもに,第一のタイプ.

つまり,一時資料から新規情報を掘り起こしてくる,というものです.

ミーマーンサー流にいえば,アプールヴァ・ヴィディ(未知の新たなものが規定される),ということになります.

で,今回の研究会.

とにかく,新たな材料.

フレッシュな素材ばかり.

本当に知のフロンティアという気がします.

堀内さんのものは,むかしやられてたものをもう一度正確にやり直す,ということですが,使われてなかった写本も使って,チベットもちゃんと見ながら,慎重にやり直すということで,やはり,新しさに満ち満ちてます.

これまでの間違った情報の排除も多々あり.

アームナーヤマンジャリーにいたっては,サンスクリットがこれまで見つかってなかったわけですから,フレッシュすぎます.

巨大な著作ですが,ハルやピーターなどとタッグを組んでる久間科研に代表される本邦の仏教タントラ軍団(久間,宮崎,苫米地,種村,倉西,菊谷ほか)の仏教タントラ研究チームが取り組んでますから,今後出てくる成果が楽しみです.(すでにいくつか出てますし.)

写本ハンターの加納さんのは,いつものように,まったく新しい材料.

誰それ,というような,全然知らない人の著作をどこからか探し出してきます.

しかも,思想史パズルの隙間を埋めるのにちょうどいい材料.

非常に面白いピースです.

テキスト,和訳,英訳とちゃんと材料提供してくれるので,後々使うのに非常に助かる仕様になっています.

研究者の鑑.

わたしも,いまごろ東大印哲の学部に進学してたなら,仏教タントラとシヴァ教(シャイヴァシッダーンタ,再認識派)を専門に選んでいたかもしれません.

先輩はいるし,材料はあるし,(そして潤ってるし)ということです.

明るい未来しか感じません.

ミーマーンサー(あるいはミーマーンサー下地のヴェーダーンタなど)のほうは,世界的には,私と同じくらいや,下の元気なひとたちや,さらにその下もでてきて,活況を呈してきていますから,おそまきながら,たのしくなってきています.

難しい難しいマンダナをやるなどというのは,むかしでは,ちょっと考えられなかったでしょう.

一昔前(80年代)にもどると,ミーマーンサーというと,ほんと,メジャー国際雑誌で見かけるまともな人はテイバーくらいでしたけど.

インド哲学でミーマーンサーの影がうすいのは,ナヴィヤニヤーヤのカルカッタの学伝統において,ミーマーンサーの影が薄かった,ということもあります.

マティラルも,ミーマーンサーに関しては,通り一遍の知識しかありませんし,たとえば索引を見ても,クマーリラなどというのはほとんど出てきません.

彼の地図の中にはいってなかったということです.

習ってなかったのですから仕方ありません.

タットヴァサングラハを見れば分かるように,クマーリラを無視してインド哲学史が成り立つはずもないのですけど.

ともあれ,右から左(あるいは横から縦へ)の商社系の研究よりも,製造業系のほうが自分にとっては楽しい領域です.

個々の思想史ピースのパーツ部品製造もあれば,思想史全体の組み立てもありますが.

もちろん,何が楽しいかは,人それぞれでしょうから,ひと様が何をしているか,私の関知するところではありません.

しかし,人の噛んだガムを噛む人を見ていると嫌悪感や不快感しかありません.

とはいえ,そういう御仁も,或る意味,浄不浄や,新旧の二元を乗り越えているという意味では,俗に徹したようでいて真には俗を超越したタントラ行者であると言えるのかもしれませんけど.
  1. 2020/03/09(月) 12:43:20|
  2. 未分類

注意・理解・記憶

二日間の写本連続講演会が終了して,今日から別の研究会.

菊谷さんのAM,こちらは仏教タントラ.

加納さんのNTP,こちらは,声聞乗,般若波羅蜜多乗,金剛乗の優劣.

堀内さんのPSVy,こちらは,経典注釈の一般化.

雨を入れるのに,逆さ向いた入れ物,汚い入れ物,穴の開いた入れ物の比喩が絶妙.

説法聞くのにそもそも注意を向けてない人,誤って理解して正しく理解しない人,ちゃんと記憶することができず護持しない人,ということです.

不注意でも愚かでも忘れっぽくてもだめだということです.
  1. 2020/03/09(月) 05:29:50|
  2. 未分類

日曜













日曜なのでそれほど選択肢があるわけもないですが,昼はイタリアン,夜はアフガン.

ヒンドゥークシュはjust移転直前.
  1. 2020/03/09(月) 05:08:48|
  2. 未分類

慈悲という大欲

欲望と行動というのは,因果関係にあります.

欲望に基づいて行動を起こすわけです.

これこそ,縁起説の重要な視点ですから,仏教においても,この図式は本質的なものです.

これを逆手にとって痛いところをついたのがミーマーンサー学派のクマーリラ.

仏陀の行動,すなわち,衆生を救うための説法という一種の行為も,欲望に基づいていることになる,と指摘したわけです.

全知者たる仏陀は,定義上,離欲者のはずですから,当然,欲望など,あるはずもありません.

したがって,欲望がないから行動も起こしえない.

すると,仏陀は説法をしない,ということになってしまって,これは,都合が悪いことになります.

仏典は,仏が説いたから正しいわけで,彼以外の人が説いたならば,それは,そのままでは,権威とはならないからです.

これに対する答え方は,簡単です.

欲望といっても良性の(すなわち錯誤知に基づかない)無転倒の「欲望」に基づくというものです.

これすなわち慈悲のことです.

慈悲という良性の欲望に基づいて行動しているのだから,問題ないというわけです.

行動を起こすというのは,我々の場合,欲望に基づいていちいち行うわけですが,仏の場合は,昔の誓願の余力に突き動かされて,余勢をかってやっているわけで,我々のように,そのたびごとの不埒な欲望に突き動かされて行動しているわけではありません.

誓願の余力.

ろくろが回り続けるようなものです.

そういう意味では,常人の行動とは質が違います.

余生は人のために,という御仁はよくいますが,まさに,誓願後の余生の余勢は人のため.

最初の誓願の一突きによって,最後まで行くわけです.

そういう意味では,世尊の体が動いて,説法をしているように見えるのも,一種,ロボットのように,最初の誓願に突き動かされて自動運転しているだけともいえます.

すぐその場に,通常の意味での原因となる欲望があって,それに突き動かされているわけではないのです.

大悲に基づく昔の誓願という,正しいプログラムのスタートボタンを押せば,あとは,自動運転です.

したがって,行動の質も違いますから,分別・無分別ということも,問題にならないでしょう.

しかも,間違ってない認識に基づいてますから,この慈悲という欲望は,減退することがありません.

「よーく見たら,この商品,あまり大したことなかったな」というのが世間の誤った欲望対象への渇望の在り方――したがって誤った欲望に基づく行動はいずれ止む――ですが,慈悲は枯れることがありません.

むしろ,慈悲が慈悲を呼んで増大していくハイパーインフレを本性とするものですから,放っておいても,自動的に増えていきます.

金の純度が減ることなく増すばかり,という比喩が用いられます.

クマーリラの批判がダルマキールティの反論を惹起し,それをカマラシーラが敷衍し,そのフォーマットにしたがって以後議論していく,という流れが見えてきます.

「衆生無辺誓願度」が,まさか,クマーリラの批判と密接に結びつくことになるとは,お釈迦様も予知できなかったでしょう.
  1. 2020/03/08(日) 15:25:14|
  2. 未分類

土曜

イザベルは,いつものように,IPVVなどのマージンから回収されるヴィヴリティ.

いつもながら,非常にわかりやすいプレゼン.

テキスト本文と,その注釈の問題.

それに,マージンの書き込みが複雑に絡んできます.

余白といわず,行間といわず,隙間を埋め尽くす書き込み.


イェーガーは,自筆かもしれない結構新しい写本について.

テキストの生成過程に絡みます.


アレッサンドロは,NMのシャーラダー写本.

いわずもがな,NMのBORI写本.

それの諸特徴.


ドミニクは来れなかったので,ハルが代読.

こちらは,ラグヴァンシャ(およびヴァッラバ注)のシャーラダー写本について.


きょうは,テキスト本文,注釈,余白への書き込みの問題という,昨日とはレベルの違う問題群でした.

テキスト本文(生成過程)―――注釈
 |
文字・マージンの書き込み

テキスト本文が失われている場合に,余白に書き込まれた個々のテキストフラグメントから本文を再構成するという作業がIPViv.rtiの問題.

NMも,NMGBhについて,室屋さんが明らかにしたように,おなじことが言えます.

テキストの生成や,さらに,伝承過程については,材料がそろわないと,やはり,なかなか,はっきりしたことをいうには,むずかしいところがあります.

Saturday, 7 March 2020

9:30-10:15 Isabelle Ratié (Paris): On editing fragments from marginal annotations
in Śāradā and Nāgarī manuscripts

10:15-11:00 Stanislav Jager (Marburg): The Author's Redaction or a Copyist's
Reworking? Remarks on the Transmission of the Cittānubodhaśāstra

11:00-11:15 Coffee break

11:15-12:00 Alessandro Graheli (Vienna): History and Transmission of the
Nyāyamañjarī : the Śāradā Autograph of Śitikaṇṭhasvāmin

12:00-12:45 Dominic Goodall (Pondicherry): Some observations on Kashmirian
scribal practices derived mostly from study of manuscripts
transmitting the Raghuvaṃśa

午後には,写本研究所のスタッフが,パターンに基づく画像分析の方法についてレクチャー.
  1. 2020/03/08(日) 03:23:35|
  2. 未分類

アルスター湖













きょうは,4時前と早めに終わったので,S,N,Hとアルスターを散策.

湖畔のカフェ.

S教授からは,あれやこれや,最近のことから大昔のことまで,様々な話を聞かせていただきました.
  1. 2020/03/08(日) 03:07:22|
  2. 未分類

写本研究所





今回のワークショップの前半の会場は,しゃれた場所.

残念ながらあいにくの曇雨,しかも,ちょっと寒めでしたが,中庭に面して素敵な部屋でした.
  1. 2020/03/08(日) 03:06:35|
  2. 未分類







9:30からレクチャー.

通り掛けの駅の売店で水でも買おうと思って横断歩道を渡るところでハルに遭遇.

右手にはスタバの特大カップ.

彼の彫像をつくるなら,片手にレノボ,片手にスタバになるでしょう.
  1. 2020/03/08(日) 03:05:41|
  2. 未分類
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