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Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

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  1. 2020/05/30(土) 22:04:54|
  2. 未分類

差異に立脚した思想史の構築に向けて



本質などというものが怪しげなものであるということは,まったくもって,仏教が明らかにするところであり,アポーハ論が明らかにするところです.

アポーハ論によれば,他との対比の上にしか,意味というのは成り立ちえません.

牛の本質を追い求めて右往左往するバラモン教の実在論者に対して,非牛でないものが「牛」という語の意味である,としたのがディグナーガでした.

他の排除(他者の排除)の意味論です.

繋がりと差異(bheda)のうち,差異(bheda, 違い)を合成語の意味とする文法学説についてくらいはきっと知っていたでしょうから,サンスクリット学者であるソシュールにとって,このような直感が特に難しいものでなかったであろうことは想像に難くありません.

つまり,差異を意味とする考え方は,インド文法学を少し学べば常識的に身についていたはずですし,唐突な考え方ではありません.

で,何が言いたいかというと,仏教を知りたければ,対比として,仏教外も知らなければ,その「意味」は分からないということです.

ヴェーダの宗教との対比の上に沙門の宗教の立ち位置というのも明らかになるでしょうし,その意味というのも明らかになるのと同じです.

ダルマキールティを理解しようと思えば,クマーリラとの対比の上に考えないと意味がないのは,PVSVを読めば自明です.

なにしろ,最後のヴァースが,とんでもない誹謗中傷で終わる程です.

ダルマキールティが現代インドにいたなら,宗教的な誹謗中傷を禁じる295Aを根拠につかまっていたことでしょう.

ダルマキールティの議論がいかなる背景にあるかは,シャーンタラクシタが詳細に明らかにしたところです.

仏教を知りたくて仏教ばかり追いかけても本質を見失ってしまうという逆説があるわけです.

なぜなら本質はないからです.

あるべき意味は,他との対比の上に浮かび上がってくるものだからです.

思想家の位置というのも,Aの右にBを,Bの右にCを配して初めて見えてくるものです.

しかし,Cの右にDが出てくれば,Cの立ち位置というのも,つまり,その「意味」というのも,相対的に変わってこざるをえません.

たとえCの主張自体が同じであっても,周囲との対比で,その意味は変わってきます.

思想史を構築しようと思うならば,差異を意味として認めるべきでしょう.

定説(シッダーンタ)ばかり追い求めていないで,前主張(プールヴァパクシャ)をしっかりと理解するのに努めるべきだということです.

前主張と後主張の対話の接触面にインド哲学があるという事実は,あまりにも目の前にあり過ぎて,灯台下暗しなのかもしれません.

また,仏教とは何かと一所懸命その「本質」を求める態度が,全く非仏教的な態度であることは,ナーガールジュナも微笑したでしょうか,皮肉でしかありません.

臨済なら殴られて終わりでしょう.
  1. 2020/05/29(金) 08:38:15|
  2. 未分類

言語と理解



特定の言語が有標的に持つ特性というのは,物事の本質の理解を深くしてくれたり,あるいは,変えたりします.

たとえば,単数・両数・複数の区別があれば,対象世界についても,それについて(ほとんど無意識のレベルで)区別するようになるでしょうし,男性・女性・中性の区別があると,それにそって,はては,空性や般若波羅蜜といった抽象名詞までもが,女神となったりして,観想対象となったりします.

インド哲学的な理解というのは,往々にして,科学の世界というよりも,形而上学的な話だったりしますから,我々の理解の枠組みが問題となったりすることが多いものです.

つまり,言語が関わる分別の世界です.

パラタントラの依他起の世界ではなく,パリカルピタな遍計所執の世界なわけです.

牛性やら壺性やら,抽象的な存在というのは,別に,科学的にそこにあるわけではないのは明らかです.

同僚の哲学者の倉田さんが,そういった「存在者」についてあれこれと扱っていますが,そういうものは,社会で通用しているけど,科学者にとっては非存在と変わりありません.

閑話休題.



で,問題は,いま,サンスクリットの言語特性.

格,というやつです.

これは,もちろん,言葉の側,つまり,音声形の話です.

最初に文法で習います.

しかし,それに対応する意味の側,つまり,それぞれの音声形が表しているカーラカの方が,哲学文献を読む時には,はるかに重要です.

この語尾の音声形がどのカーラカ(行為参与者)を表しているのかを考えることなしに,哲学文献の理解はおぼつかないでしょう.

音声形と一対一に対応しているわけではないのが,もどかしいところですが,ともあれ,カーラカというのは大事ということです.


行為主体
行為対象
行為手段
与え先サンプラダーナ
起点アパーダーナ
場所

なお,第一格や第二格云々というのは,あくまでも音声形の話ですから,それと,意味であるカーラカとは区別しないといけません.

「主格」や「対格」などという呼称は,音声形とカーラカとをごっちゃにしてますから,直感的ではありますが,しかし,哲学的には誤解を生み出す元となるので注意しないといけません.

インド伝統式に,ドライに,第一格,第二格云々と呼ぶ方が,あとあと変な誤解を生みません.

「太郎が京都から村に行く」なら,「太郎が」行為主体,「京都から」が起点,「村に」が行為対象,「行く」が行為を表すわけです.

まあ,ここまでは,普通に分かります.

さらに,ある単語が出てきた場合,動詞語根由来のその単語のクリト接辞が,どのカーラカを意味しているのか,ということにも注意しないといけません.

プラマーナなどというのは,しょっちゅう出てきますから,耳にタコができているでしょうが,文脈により,認識行為も意味すれば,認識手段も意味します.

つまり,行為の場合もあれば,手段の場合もあるわけです.

Lyu.Tが,どっちで使われているか,それは,使用者の意図次第です.

文脈から読み取るしかありません.

文法的にはどちらも許されているわけです.

「カーラカ」という語が表すのも,作る主体,ということでしょうから,行為主体だと分かります.

単語が出てきたときに,それが,行為の枠組みの中で,いかなる行為参与者としてイメージされているのかを読み解くことが本質的に重要です.

バルトリハリ的な視点から見れば,この世界は,行為を中心とした,このようなカーラカ的分節化によって,成り立っています.

それぞれが,カーラカ的なシャクティとして成立している世界です.

さらに,それぞれのカーラカが,さらにそれぞれの下位の行為から成り立ってたりします.

「米を鍋において火で炊く」という主行為において,火は行為手段でしょうが,従属行為レベルにおいては,ひょっとすると,火は別のカーラカとなることもあるでしょう.「火を点ける」では,行為対象となっているはずです.

というように,いちいち,その単語がいかなるカーラカ役割を担当しているのかを意識しながら読むと,インド哲学文献の読み方は,よりクリアーになるはずです.

そういうものを無視して読むと,よく分からないことになります.

漢文だと,そういう情報が失われてしまいますから,いまひとつ,話が通じないわけです.

よくあるのが,虚妄分別がなぜ依他起なのか,という戸惑いです.(学会の唯識部会に行くと,そこらへんでつまずいた質問をしている人がいたりします.)

虚妄分別されたもの(つまり行為対象)は,遍計所執ですが,虚妄分別という行為それ自体は,因果的存在として,依他起なわけです.

これは,漢字だといまひとつピンときませんが,サンスクリットだと,parikalpitaとabhuutaparikalpaというように明瞭に区別できますから,混同することはないわけです.

日本語で考えると分からなくなるものというのは,当然ですが,あります.

文法を習う時に,カーラカについて教わらなくても,文学やらマニュアル文献を読む分には,大して困らないでしょうけど,哲学文献を読むときは困ることになります.

わたしも,学部時代,カーラカについて文法で習った覚えはありません.

「主格」「対格」などと習ってますから,音声形と意味の区別すら,おぼろげなわけです.

文法学者の谷沢さん(当時は研究室の助手)は,「第一格と呼べ」云々と仰ってましたが,なぜ,「主格」という直感的に分かりやすい呼称ではなく,第一格というドライな呼び方が良いのか,学部生のその時は全然ピンときませんでしたが,いまなら,分かります.

詩文学も,註釈文献まで行くと,文法解説をしていますから,ここらへんの意識――インド的理解――が明瞭になってくるはずですが,まあ,学部時代にマッリナータ註まで読む実力があるわけもないでしょうから,仕方ありません.

ともあれ,正確に哲学文献を読むのに必要な文法知識というのは,もう少し,インド流じゃないと困るということでした.

翻訳だけで理解しようとしても,なかなか難しい世界があるということです.

そういう事例は,たとえば,中論の第一章などに明らかでしょう.

また,そういったインド的感覚がある翻訳とない翻訳とでは,雲泥の差が出てきます.

かつてのH大のパーニニ文法学者,O川先生の下で習った人は,そこらへんは厳しくしつけられてますから,翻訳を見ても,ちゃんと区別がなされているわけです.

たぶん,おぼろげに訳すと厳しく訂正されていた経験から,自分で翻訳する時も,心の中のO川先生の声が聞こえてくるので,ちゃんと訳さざるを得ないのでしょう.

ダヤーナンド・サラスヴァティーは,パタンジャリのマハーバーシャを習っていた時,厳しい師匠に教わっていたそうで,そのときに,棒で殴られた傷跡が顔に残ったとのこと.

そういえば,ヨーガのクリシュナムアーチャーリヤは,優れたミーマーンサー学者で,それでは飯が食えなかったので,仕方なく,宮廷の子弟相手にヨーガを教えていたのですが,その教え方は,昔の先生らしく厳しかったそうで,アイヤンガルも,嫌で嫌でたまらなかったようで,回想シーンでは,ほんと,嫌そうな顔をしていましたし,遠慮なく,悪しざまに言ってました.

当時の教師は,そんなものだったのでしょう.

アイヤンガルは,かわいそうに,アクロバティックなポーズを無理にさせられて,股裂きで,腱が切れたそうですから,そりゃあ,嫌になるというものです.

ミーマーンサーではついに就職できず,家族を食わせるのに四苦八苦したクリシュナムアーチャーリヤですが,まさか,余芸のヨーガが,現代で,こんなビッグなビジネスになるとは,夢想だにしなかったことでしょう.

ちなみに,ミーマーンサーをやってるアメリカの知り合いも,ミーマーンサーでは全然評価されず,就職するまでにえらい苦労したそうです.

結局,詩文学方面で評価されて,そっちでうまいこと評価されてすべりこんでましたけど,それが,いまや,中堅どころでは全米一のサンスクリット学者として評価はうなぎのぼりですから,ほんと,ミーマーンサーは,損な学問です.

ちなみに,アメリカでは,影響力のあるポロックのおかげで,ミーマーンサーも,それなりに市民権を得てきて,すくなくとも,その価値を認めざるを得ないというふうに,すくなくとも学者の間では雰囲気ができてます.
  1. 2020/05/26(火) 19:56:14|
  2. 未分類

なぜヨーガの文献研究は進まなかったのか?



いくつかの目に付いたメジャーなヨーガ文献をつなぎあわせて,はい終わり,というのが,これまでのヨーガ史もどき言説の惨状でしょう.

ヨーガスートラとバーシャ,それに,後代のゲーランダサンヒターやハタヨーガプラディーピカーやらをあわせて,適当に,ちゃんぽんして,あとは,バガバッドギーターあたりの宗教教説で,目くらませしておけば,サンスクリットを知らない人の目をごまかすには十分かもしれません.

歴史なんぞ,まったく無視です.

紀元後500年から1500年の1000年間で,何が起こっているのかは,これだと,一向に伝わってきません.

すごい溝を残したまま,最初の方と最後のほうとを,そのまま接合して,できあがりというわけです.

しかも,それらがどういう性格の文献かということは,まったく措いておいたままです.

ヨーガを教えるとなると,権威をもって「お師匠さま」ぶらないといけませんから,さあ大変.

なんでも知っているような振りをしないといけませんから,まあ,適当に知ったかぶりをして教えるしかなかった,というのが実情だったのではないでしょうか.

すぐれたサンスクリット家でもあったダヤーナンド・サラスヴァティーは,同時にすぐれたヨーガ行者でしたが,ヨーガ本の内容が科学的に嘘ばっかりなので,あほらしさに一切合財捨てたらしいですが,それはそれで,えらい極端な話です.

チャクラもナーディーも,解剖しても見つからないから嘘ばっかり,というわけですが,まあ,観想の話ですから,それはそれで,意味あると思いますが.

途中途中の発展史を知っていれば,歴史の最後だけを見てがっかり,ということにもならなかったと思います.




結局,歴史を知ろうと思えば,まじめにひとつひとつの文献にこつこつとあたるしかありません.

当然ですが.

そして,当然ですが,文献を研究しようと思えば,写本から研究しないといけなくなります.

校訂出版されてないものは,写本からやるしかないからです.

間を埋める作業というのは,結局,地味な文献学にならざるをえません.

巷間,ヨーガをやるひとはおおいでしょうけど,ヨーガの歴史を知ろうと写本まで遡るひとがいないのは,まあ,当然といえば当然です.

そして,その当然の帰結として,現在の無知蒙昧があるわけです.

誰もやらないと,当然,誰も知らないままに,「しあわせに」無知が続くわけです.

そして,多くの人の無知だけですめばいいですが,針小棒大,ヨーガスートラだけがあたかもヨーガのバイブルとして過大に評価されたりすることにもなるのでしょう.

古さという点では,もちろん,古いので重要ですが,あくまでも,長い長いヨーガ史の一コマ,しかも,或る立場からの或る意図をもった主張でしかないことに注意すべきです.

本邦の現状をふりかえると,佐保田以降,文献研究という意味では,あまり進歩がないように見えますが如何.

ともあれ,佐保田により,メジャーなテキストは和訳されていますから,それだけでも非常にありがたいことですが,我々としては,さらに,歴史の溝を埋める努力を真摯に続ける必要があるでしょう.

といっても,最初の最初,奈良時代から我々はある意味,瑜伽(ヨーガ)を勉強してきたわけですけど.

薬師寺では,ヨーガ(瑜伽)教室はあるのでしょうか?

留学僧の道昭は,「文献むずいし,禅のほう中心にやったほうがええんちゃう」と玄奘に方向転換を薦められたそうですが,さもありなん.

サンスクリットばりばりの玄奘から見れば,原典翻訳の漢文から,その真意を探るというのが,日本からやってきた留学生にそうそう簡単に果たせる目標には見えなかったことでしょう.(かつてT大にいたとき,漢文圏からの多くの留学生が,結局,タイムリミットの問題で,サンスクリット語のマスターはあきらめて,漢文を主資料に研究を進めていくよう方向転換せざるをえなくなるのを見てきても,そう思います.)

時間内に日本に帰って仏法を伝えてもらうには,実践を極めてもらった方がいいかもしれません.

ここらへんは戦略もあるでしょうし,また,各個人の向き不向きの資質の問題もあるでしょうし,時間の問題もあるでしょう.

留学僧も無限に勉強する猶予があるわけではないですし.


ともあれ,ヨーガ文献史の知識が新書レベルで一般化するのには,まだまだ,長い時間がかかることでしょう.

それまでは,虚実ないまぜの巷のヨーガ言説に惑わされるしかないでしょう.

まあ,真実を知ると,逆に,不都合な真実だったりして,困ったことが発覚したりも,あるかもしれませんが.

ハタヨーガの最初の最初が仏教文献だったなどというのは,インドでは,大きい声では言えないでしょう.

また,ヨーガスートラが,瑜伽行派から沢山流用してるのも,あんまり大きな声では言えません.

そもそも,別に,誰のもの,というわけではないので,そこらへんの所属を気にする必要はないのですが.

オリジナリティーや著作権という観念に侵された現代人の頭からすると,コピペはとんでもないという感じでしょうが,インド古典では,普通です,というか,そっちのほうがむしろ,オーセンティックな手法です.

ディグナーガも,バルトリハリのをちょいちょいと取ってきて,一部バラモン教っぽいところだけ,仏教用にかえて,そのまま使ってます.

コピペや流用・盗用というと聞こえが悪いので,バルトリハリ・リスペクトとでもいえばいいでしょうか.

我々のつまらん価値観を押し付けることに意味はありません.

  1. 2020/05/24(日) 08:13:28|
  2. 未分類

論文を書く動機



疑問があるから議論が起こるわけで,疑問がなければ,そこには,議論の起こりようがありません.

つまり,論文も書きようがありません.

半分かりくらいの,もがいている状態の時が,論文を書くには一番適していると言えます.

それくらいが,情熱も湧くというものです.

全部わかっていると,もはや,書く意味ないなと思ってしまうわけです.

空中浮揚できる仙人なら,わざわざ,高山に登山しようとは思わないでしょう.

登れるか登れないかくらいの丁度の塩梅が人間が一所懸命もがきながら論文を書く動機になるわけです.

もちろん,この疑惑状態というのは,AさんとBさんが議論しているから疑問が生じている場合もあるでしょうし,たんに,Aさん一人の心の中で生じている場合もあるでしょう.

  1. 2020/05/24(日) 07:16:53|
  2. 未分類

幻術師の醒めたまなざし



呪文でもって,木片が心の中で象に見える場合,実際には,心像に象はいません.



心像

本当にあるのは,木片だけです.

同じように,所取・能取の二取は,心像にはありません.

二取を見ないことで,二取のイメージも消えてなくなる.
それ(二取のイメージ)がなくなることで,二取の無という円成実が証得される.(TSN 33)


との謂は,この意です.

心像にもはや象を見なくなったとき,その人には木片しか見えていません.

この時,象のイメージも消え去っています.

醒めた視線で世界を眺める幻術師のまなざしです.

  1. 2020/05/23(土) 13:41:45|
  2. 未分類

壺性から実体性へ



「壺」という語から壺を捉えた場合,あるいは,「壺」という確定知でもって壺を捉えた場合,その実在の一側面だけを抽出して捉えるのであって,全面的に捉えることはない,というのがヴァイシェーシカ的な「それを持つもの」の考え方です.

実在には,色々な側面がありますが,壺性という一側面だけから,壺性を持つものを捉えるわけです.

これが「壺」という言葉や確定知の機能です.

しかし,このような見方が成り立たないことをダルマキールティは指摘します.

それは,ヴァイシェーシカ的な存在論に問題があるからです.

壺性と壺性を持つものについて,細かく見ていきましょう.

まず,壺性を支える裨益能力がその壺にはあるはずです.

壺性

能力

実在

という三階建てになります.

そして,いま,この実在と能力は,別物ではありません.

なぜなら,実在が壺性を裨益する場合に,もしも,その能力が実在と別物ならば,その能力はもはやその実在のものとは言えなくなってしまうからです.

つまり,実在と能力はイコールで同一体と見なすしかありません.

壺性
 ↑
能力
 ||
実在

すると,どうなるでしょうか.

壺性から実在を捉える時,その実在の諸能力が全て捉えられたことになるはずです.

というのも,実在と諸能力は一体なので.

壺性A  実体性B
 ↑     ↑
能力a   能力b
 ||      ||
    実在

したがって,壺性から壺性を持つものである実在を捉えると,そこから芋づる式に,それと一体である能力bを通じて,実体性という別の属性までもが把握されることになります.

つまり,ヴァイシェーシカ的なオントロジーに立つ限り,AからBが把握される帰結を避けることはできないのです.

これは,実在と諸能力とを一体であるとしなければならないことに由来します.

逆に,実在と諸能力が一体でないならば,つまり,別物であるならば,その間を結ぶために,さらに別の能力を想定しなければならなくなりますから,無限後退となってしまいます.

54. 属性裨益能力が[基体から]別である場合,もしも,それ(基体)から[諸能力への]裨益がないならば,それら(諸能力)はどうして,「それ(基体)のもの」なのか?[逆に]それら(諸能力)への[裨益があるならば],そうすると,切りがなくなってしまう.



このヴァースだけ初見で読んで,内容を汲めるなら,それは,ダルマキールティ自身くらいでしょう.

補わないで書くと,

属性・裨益・諸能力・の,別の場合,それらは,それの,どうして,もし,
ない,裨益,それから,それらの,そうすると,なってしまう,切りがない



ダルマキールティの漢訳でもあったら,江戸時代の学僧は,どんなことになっていたでしょうか.

漢訳されなくて幸いだったかもしれません.

往時の中国人のお坊さんの趣味には,まず,合わなかったでしょう.

(チベットにはフィットしたのですから,そういう可能世界がないわけではないですが.)

戒律やら禅でもやったほうが,よっぽどため(実益)になりますから.

まあ,そもそも,他学派・他宗派批判というのは,その当事者には意味がありますけど,その文脈から切り離されたところにもってくると,いったい,何を批判しているのか,よく分からないでしょうから,ありがたみも感じられないでしょう.

チベットにいくと,インドの他学派の理解が弱くなるのは,仕方ないことです.

そもそも,他宗を勉強することは,メンタル的に良くないこととされてますから.(来世に何に生まれるか分かったものではありません.)

A教徒がB教のことを学びたがらないのと心性は同じです.

まあ,実際には,ダルマキールティを理解しようと思えば,ディグナーガがそうであるように,他学派・他宗派に通じてないと,無理なわけですが.

他学派・他宗派を理解せずに自宗だけ学べばよしとするひとこそ,まさに,「他の排除」と「差異」の本質に暗い位にいるものとして,cryされるべき対象ということになります.

  1. 2020/05/23(土) 11:00:44|
  2. 未分類

2020印仏

プログラム

オンラインになるそうで、やる側も冷や冷やでしょう。

授業で使い慣れてるひとは、たいして困らないでしょうけど。

にしても、インドのS藤さんは、それまでに帰ってこられるのでしょうか。

1人あたり25分は、前後の時間ロスを5分見ているということでしょう。

普段は20分ですから。

遠くまで出掛ける必要がないので、もっと早くからでも、特に困りません。

オンラインの場合、司会者の役割は普段より重要になるかしれません。

まあ、いざとなれば、当てられなくても、チャットに思ったこと書き込めばいいわけですけど。

部屋間の移動が簡単なので、無観客試合のルームが出てきたりしたら笑います。

なんなら、コーヒールームも設けますか、勝手に。

今年の学会賞の人は、平和に帰れますから、ラッキーかもしれません。

今気付きましたが、ナベちゃん、助教にされてますが、准教授の間違いでしょう。
  1. 2020/05/21(木) 19:31:23|
  2. 未分類

訳でもテキストでも

最低限,シノプシスはつけてほしいと思います.

というか,最低も最大もなくて,その構造がわからないことには,ぱっと参照のしようがありません.

急にテキスト訪問したくなる外部者にとっては,そのパッセージがどういう文脈にあるのか,全体を知る必要がありますし,その全体像は,じっくり読んでこそ,はっきりと分かるものだからです.

インド哲学文献の場合,立場がくるくる入れ替わりますし,よく分からないままに引用すると,前主張と後主張と取り違える場合だって,下手するとありえます.

また,構成がしっかりとわかれば,そこでの微妙なニュアンスもわかります.

皮肉だったり,あるいは,パロディだったり,醸し出すものというのも,構成があればこそ,見えてくるものもあるわけです.

ずらずらと訳しただけの訳を見てると,写本を見てるのと同じで,捉えるのに時間がかかります.

ぱっと見てぱっと分かるテキストや翻訳,それは,構造分節から始まると強く信じます.

というか,それをしない研究とは,そもそも,なんなのか?

なにを見ているのか.

なにも見ていないのではないか,とまで思えてきます.

校訂本を見ても分かりますが,すぐれたパンディットは,ちゃんと,きれいな区切りを入れてくれています.

おそらく,知らず知らずに多くの人は恩恵を被っているのでしょうけど.

むかしむかしのチョーカンバあたりのずらずらとつながった,パラグラフも適当なエディションとは大違いです.

その愚を繰り返す研究は勘弁してほしいと思うわけです.

文学なら,下手にばらばらに解剖されると味気なくなるので,ずらずらとあるのも味があって結構かもしれませんが,哲学文献は,構造で語る部分もあります.

あとは,前主張と後主張の対応というのも,シノプシスがあれば,きれいに見えてきます.

これは,言うは易し,行うは難しで,いざ作ろうと思うと時間もかかりますし,頭も使います.

テクスト校訂も翻訳も,ちゃんと,頭を使いましょう.

それは,語レベルや文レベルだけでなくて,文脈レベルでも使いましょう,という意味です.

シュルティ,リンガ,ヴァーキヤ,プラカラナ,スターナ,サマーキヤーという六認識手段は,文章解析には欠かせません.
  1. 2020/05/21(木) 08:20:00|
  2. 未分類

自律的真の生き方

不要不急の外出を控えた結果,不要不急な論文原稿が異様に肥大化してしまいました.

枚数制限に引っ掛かりそうです.

そういえば,S教授が,原稿期日を延ばすたびに,論文がどんどん大きくなっていくのを思い出しました.

原稿期日で切ったほうが,論文肥大化を止めるには正解です.

さて,真理論.

認識の真をいちいち他から確証する必要はない,認識は生じたら自分の仕事を為しているので,他からの確証を要しない,というのが,クマーリラ流の自律的真の肝です.いっぽう,偽は他律的に確定されます.

逆に,他からの確証をもたないような認識は真知ではない,というのが他律的真の立場です.

健康にたとえると,健康とは正常状態,病気が異常な状態,というのが自律的真,他律的偽の見方.これは,ゼロとマイナス.

逆に,他律的真と他律的偽だと,健康とはプラス要因によるプラスの状態,病気とはマイナス要因によるマイナスの状態.

これを生き方に持っていくとどうなるでしょうか.

生きてればそれだけで為すべきことを為しているので,正常な状態は,すでにそれ自体で真というのが自律的真.

ここで,わざわざ他人に承認されるまでもなく,自分で真なわけです.

いわば、エネルゲイアの見方です。

生れてノーマルであれば自分で動いています.

健康に飯食って動いているわけで,特に問題はないわけです.

それが自律的真.

逆に,問題点は他人から指摘されることで改めるのが,他律的偽.

カイゼンカイゼンの失敗の哲学というのが他律的偽の立場.


逆に,他律的真の立場だと,生きていても真だと確証はないので,他人に検証されて初めて,真偽の決着がつきます.

他人の検証に依存.

承認欲求満載です.


さらに,他律的真,自律的偽という仏教に帰せられる立場だと,生きているノーマルな状態が既に偽.

それは検証により改められるべきで,あらためられて初めて真となります.

人生すべて最初から間違いなわけです.

夢のようなものです.

とはいえ,クマーリラのいうように,悟った人などいないのですから,夢も夢で居続ける限りは正しいと信じてますから,現実的には,自律的真と大して変わりません.

全知者を想定してはじめて自律的偽の偽が言えるわけです.

宗教者が,自分の真を言うのに,対照点として,他の人達の偽をあげつらうのと構図は同じです.

他律的真というのは,pramaa.nabhuutaの解釈で,bhuutam pramaa.namとするのにもつながっていきます.

生じた無常なプラマーナが仏陀なわけです.

しかし,実際には,法身などをたてて,これも,常住化していくのが,無限や聖化を求める人間の欲求のなれのはてですが.


ともあれ,現実的に考えて,自律的真の立場はメンタルによい,というのはいえるでしょう.

承認欲求を求めて,自分の真に自信がもてず,つねに真偽の間で揺れ動く疑惑の心,これは,メンタル的に健康な状態ではないでしょう.

事後検証の成果主義やら,原因検証の数値主義も,大量生産の工場や精緻なお菓子作りなら結構ですが,人生に応用すると,変なことになるのは明白でしょう.

バガヴァッドギーターの非成果主義も,このような視点から読み込むことができます.
  1. 2020/05/19(火) 19:46:15|
  2. 未分類

TR and Udayana

仏教論理学の最後期はどうなっているのか,と思って,久々に矢板先生のTR本をめくりかえしていると,ウダヤナがVaadarahasyaに批判されているとのこと.

また,TRにおけるNKusとのパラレル情報で,私自身が情報提供したのも,すっかり忘れていました.

2005年出版本ですから,ずいぶんと昔のことです.

まだ私がU-Penにいたときでしょうか,あるいは,すでにウィーンだったか,博論として提出された出版前の原稿を読ませていただいたのを覚えています.

TRにおける真理論は,ごくごく簡潔なもので,ひととおり,四説を紹介してというもので,そこまで詳しいものでもありません.

その当時,たいしてホットなトピックでもなかったのでしょう.

さらっと流されているという感じです.

矢板先生が紹介されているように,ダルモッタラとプラジュニャーカラのavisa.mvaadinの解釈の違いは面白い所ですが.
  1. 2020/05/18(月) 23:35:24|
  2. 未分類

PVSV 52cd-53ab



nānopādhyupakārāṅgaśaktyabhinnātmano grahe//
sarvātmanopakāryasya ko bhedaḥ syād aniścitaḥ/


先週読んだのに,一週経つと,すっかり頭に入ってこないほど,ややこしい詩節.

いちいち,註釈読み直して,コンパウンド解釈などを確認し直すことになります.

ナチュラルに読者が読むのに適してないというか,ダルマキールティの自分用のまとめ詩節みたいなものも沢山あるのでしょうから仕方ないですが,とはいえ,普通に読みにくいのは否定しえないですし,まあ,実際,過去のインド人もPVSVなぞは,喜んで読まなかったのでしょう.

「読者なし」と嘆く本人の慨嘆も,まあ,むべなるかな.

自分のせいやろと言いたくもなります.

例えばこの詩節.

52cd--53ab.
別々・脇に置かれるもの・裨益・部分・能力・非別・自体・の・把握すると
全面的に,被裨益対象の,いかなる,別が,のか,未確定の?



時間が余り過ぎてパズルをやりたいひとにはうってつけかもしれません.

まずは,長い長い合成語解釈.

別々の外的条件とあるのは,たとえば,壺性や実体性のことで,それらが,相互に別々であり,なおかつ,基体である実在=独自相からも別であることを言っています.

それらへの裨益作用,というのは,基体のほうがそれらを支えもつという裨益作用のことです.

これも,どっちがどっちを助けているのかは文脈次第なのですが,あとを読んでいくと,基体が上のものを支えるという裨益作用であることが分かります.

その裨益をする際に必須要件がアンガと言われています.

これは,部分といっても,ここでは,よくあるように,原因・要因としてのアンガです.

裨益要因となっている能力,というのは,基体が持つ能力のことです.

というわけで,ここまでで,要するに,壺性や実体性といった様々な外的・付帯的条件(つまりヴァイシェーシカでいうところの普遍)を裨益する際に要因となっている,基体がもっている能力のことが言われていることになります.

それと非別のアートマンを持つもの,というのは,基体のことです.能力と実在は別体ではなく同一体です.

その能力と一体の実在を捉えると,というので,とりあえず,52cdまで.



つぎに,「全面的に」とあります.

これは,53aにあるので,一瞬戸惑いますが,上の「把握すると」にかかります.

つまり,全面的に把握すると,ということになります.

これで,ようやく,graheまでが終わり.

要するに,「壺」という言葉から壺性を通じて,実在の壺性への裨益能力と一体となっているその実在が全面的に把握されると,という意味となります.

壺性から実在を捉える時,実体性や有性など,その実在が持つ全側面も捉えられている,ということになります.

すると,当然,裨益される外的条件について,すべてが把握済みということになりますから,未確定の差異(いずれかの外的条件)は何も残ってないことになります.

壺性を持つものを捉えると,実体性までもが捉えられているので,「壺」も「実体」も同義語となってしまうのです.

言葉と確定知,いずれの場合も同じです.

このように,アポーハ論でもって,ヴァイシェーシカの「それを持つもの」説の過失を指摘しているわけです.

たった一詩節ですが,詰め込みも詰め込みすぎ,たいがいです.

或る独自相が持つ壺や実体や有としてのそれぞれの側面を,それぞれの能力という観点から捉えているのは,バルトリハリ的な見方でしょうか.

同じ一人の人間が様々な側面を持つことは我々は身をもって知っていますが,もちろん,このことは,モノにもあてはまります.

同じものが多様な使われ方をするわけです.

本も,読み物だったり,たんに,何かの置台にしたりと,用途が異なれば,その呼び方も場面によっては異なり得ます.

あとから,異なる外的条件の裨益の拠り所の能力,という表現も自註でダルマキールティは使っています.

土台のほうを助ける主体,上にあるものを助けられる対象と捉えたのでしょう.

ディグナーガ的な文脈だと,むしろ,上にあるほうが下に影響を及ぼすので,そっちのほうが助けるものなのかと思ったのですが,違うようです.

もちろん,ここでは,ヴァイシェーシカ的な実在論を前提として,という但し書きがつきます.

ヴァイシェーシカ自身が,「壺」という語から壺性を持つものを捉えると言っているのですから,そのものが全面的に捉えられていることになります.

でないと,それを持つものを捉えたことにならないからです.

壺性だけを捉えるということが,実体的な見方をする場合には不可能となるわけです.

どうしても,全面的にその実在を捉えることになってしまうというのです.

税務署や検索会社が特定の個人を把捉する時,一側面から芋づる式に,その個人の全側面が把捉されてしまっているのと同じです.

ディグナーガやダルマキールティのように,基体と属性とを,ひとまず,独自相と共通相として切り離しておけば問題ないわけです.

共通相はあくまでも,分別対象です.

それは,ダルマキールティによれば,付託の排除です.

つまり,壺性といっているのは,実は,非壺の排除というアポーハです.

もうちょっと細かく言うと,非壺の付託の排除です.

我々が勝手に実在のうえに押し付けて載せた非壺の付託を,取り除いてやるのが「壺だ(それ以外ではない)」という言葉や確定知なのです.

一詩節を理解するのに,こんだけあれこれと議論しないといけないので,ダルマキールティのPVSVの全訳が出ないのも,まあ,当然でしょう.

この,うら若き,坊主頭も髭の剃り跡も青々しかったかもしれない,青年ダルマキールティの青臭い世界に浸りきってしまえば――もちろん,多くの場所で同じことを,手を変え品を変え言っているだけといえばそういえますから――読み進めるのは簡単にはなりますが,しかし,そうすると,そのような理解者は,もはや,現代日本にはフィットしなくなってしまうかもしれません.

読んでるテキストに人格が影響されるというのは,よくあることです.

例えば,シャイヴァの『ピチュマタ』とか読んでると,相当に作者がいかれてますから,かなり頭がいかれてくるそうです.

しかも,タントラのアールシャな用法(変な語法や文法)に慣れてしまうと,サンスクリットもあやしくなってくるというおまけつき.

ダルマキールティの場合は,思想がもはや,常識とは全然ちがいますから,これになれると(つまり,このテキストが最終的に目指す唯識の世界に入れば),現実世界は「幻」としか見えてこないはずです.

まあ,幻術師は,この世界がそう見えていることそれ自体は冷ややかに見て否定しませんから,そういう心情でしょうか.

黄色いほら貝が見えても,別に,それを信じてない心情.

「ほら貝は黄色い(しかしそれは正しくない)」という,まさに,真理の余剰説とまったく逆の発想.

偽の余剰説とでも言うべきでしょうか.

仏教の立場を自律的偽と捉えたのは,たしかに正しかったわけです.

にしても,PVSVを読んでいる人は,案外,エキセントリックでもなく常識人が多いのは,どういうわけでしょうか?

K先生しかり,Iさんしかり,そういえば,Wさんも,きわめて(日本人的な意味で)常識人です.

現代日本の日常に破綻をきたしているPVSV読者は,わたしのまわりでは,一名ほどでしょうか?

案外,ミーマーンサーやってるひとのほうが,エキセントリックかもしれません.

単に,日常で一般の方々とお付き合いの多いお寺さん補正が働いた結果かもしれませんが.

ともあれ,PVSV 50にしても,語順からして,破綻してます.

50. あらんかぎり,部分・付託が,それ・取り除くと,確定
同じ数・だけ,言葉・も,それゆえ,それら,異なる・領域(を持つ)



適切に並べ替えよ,というだけで,テストになります.

一般社会と遊離した僧院のオタク哲学といえばそうかもしれませんが,他学派・他宗派との論争という,容赦ない社会的圧力が実際にあったわけで,お寺における外部資金の獲得のために,ダルマキールティも頑張っていたわけです.

一種,戦闘要員です.

僧院運営のマネジメント能力は,きっと,なかったでしょうし,まさか,これで,経や律の講義をしていたとも思えません.

ジャータカなどを引っ張って,ダルマバーナカとして,普通に法話してたら笑いますが.

そもそも,引例では色恋のことばっかり考えてますから,それほど高徳のお坊様として崇められていた雰囲気も,このPVSVからは,醸し出されていません.

  1. 2020/05/16(土) 12:32:37|
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natesvar









  1. 2020/05/15(金) 19:51:17|
  2. 未分類

adhyapana



マハーバーシャのパタンジャリは、100の首で一気に100人教えてたそうですが、紀元前150年にしてすでに、AIのオンライン授業でもしてたのかもしれません。

オンラインの先生は相手の様子がわかりませんが、パタンジャリは気が短かったらしく、「トイレ」と言って去った学生に激怒、残りの99人を燃やし尽くしたそうで、文法学んで生き残ったのは、トイレに立った1人だったそうです。

教室で、真面目な多数が迷惑被るのはよくあること。

にしても、燃やされる方はたまったもんじゃありません。

ちなみに、このストーリーを知らないと理解できない碑文が前回のカンボジア碑文研究会で出てきました。

どこかの豪族が学識も優れている、ということを言うのに、このストーリーをほのめかしている箇所がありました。

なぜ文法学にトイレが関係するのか、知らないとわからない、読み手の「常識」が試される碑文でした。

普通は、前提とされるのは、カーリダーサやマハーバーラタにラーマーヤナなのですが、こういう変化球もあるのがさすがクメール。

サンスクリット偏差値高いです。
  1. 2020/05/14(木) 19:14:54|
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奈多







  1. 2020/05/13(水) 19:42:07|
  2. 未分類

nata









  1. 2020/05/13(水) 19:41:14|
  2. 未分類

WSC









WSC
10-14 January 2022.

会費、早割ですでに払いましたが、一年後に延期だそうです。

ダルマキールティも一年延期。

2021年度は、はたして忙しくなるのでしょうか。
  1. 2020/05/13(水) 00:15:15|
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ウンベーカ



インドリヤとアルタの接触があっても、マナスとインドリヤとの接触がないとプラティアクシャは生じません。

道の脇の草に触れていても、注意が向けられていなければ、知覚は生じない、ということです。



注釈者の意図からすると、不都合な内容が元のテキストに書かれていることがあります。




普通なら、注釈者の腕の見せ所です。

ダルマキールティが「ディグナーガの真意はXではなくYです」などと言うときは、大概、Xのほうがディグナーガの真意であるのと同じです。



で、クマーリラのSVへの注釈者ウンベーカ、明らかに不都合な発言がクマーリラにあるので、さて、どう対処しているか、と興味をもって、みたところ、、、、、、

そこへのコメントは飛ばす

という、どこかの大統領みたいな対応でした。

不都合な事実は無視して飛ばす、人間の基本です。馬鹿の壁。

冒頭に、バヴァブーティのかっこいい句を引用して大見えきった割に、意外にヘタレでした、ウンベーカ。



どいつとはいわぬが、この世で私をみくだすやつら、

そいつらは何某かを知るのであろう

そんな連中は放っておこう

しかし、私と同類の誰かが生まれてくることもあろう

時は限りなく、世界は広いのだから



残念ながら、同志はまだ生まれてないようです。

マイトレーヤやカルキを待つようなお伽話かもしれません。

  1. 2020/05/09(土) 20:57:31|
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時代的制約あるいは時代遅れ,あるいは,至らぬ点



後になってから前の発言を批判するのならだれでもできるかもしれませんし,場合によっては,時代錯誤の批判になるのかもしれませんが,とはいっても,前の発言の何がおかしいのか,あれこれと後の時代の整備された文献を読むことで,くっきりとその限界が見えてくることがあります.

ジャヤンタやパールタサーラティの批判的な視点を踏まえて,あらためてウンベーカを読みなおすと,当然,時代的に前ですから,不十分な至らぬ点が多々あって,笑っちゃいたくなるほどですし,一部では,単なる言い訳にしか見えないところも見えてきます.

強弁.

用語法も,仏教論理学から見直すと,若干,詐欺的なところがあります.

ともあれ,時代に規定されたその著者の哲学的限界を見極めることは重要です.

その時代の人が感じていたであろう思想界の空気や匂い,さらには,限界を敏感に感じ取るには,やはり,あれこれと周囲の文献を読み込んで,自分の頭を整理しておく必要があります.

  1. 2020/05/02(土) 13:26:02|
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