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Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

なぜヨーガの文献研究は進まなかったのか?



いくつかの目に付いたメジャーなヨーガ文献をつなぎあわせて,はい終わり,というのが,これまでのヨーガ史もどき言説の惨状でしょう.

ヨーガスートラとバーシャ,それに,後代のゲーランダサンヒターやハタヨーガプラディーピカーやらをあわせて,適当に,ちゃんぽんして,あとは,バガバッドギーターあたりの宗教教説で,目くらませしておけば,サンスクリットを知らない人の目をごまかすには十分かもしれません.

歴史なんぞ,まったく無視です.

紀元後500年から1500年の1000年間で,何が起こっているのかは,これだと,一向に伝わってきません.

すごい溝を残したまま,最初の方と最後のほうとを,そのまま接合して,できあがりというわけです.

しかも,それらがどういう性格の文献かということは,まったく措いておいたままです.

ヨーガを教えるとなると,権威をもって「お師匠さま」ぶらないといけませんから,さあ大変.

なんでも知っているような振りをしないといけませんから,まあ,適当に知ったかぶりをして教えるしかなかった,というのが実情だったのではないでしょうか.

すぐれたサンスクリット家でもあったダヤーナンド・サラスヴァティーは,同時にすぐれたヨーガ行者でしたが,ヨーガ本の内容が科学的に嘘ばっかりなので,あほらしさに一切合財捨てたらしいですが,それはそれで,えらい極端な話です.

チャクラもナーディーも,解剖しても見つからないから嘘ばっかり,というわけですが,まあ,観想の話ですから,それはそれで,意味あると思いますが.

途中途中の発展史を知っていれば,歴史の最後だけを見てがっかり,ということにもならなかったと思います.




結局,歴史を知ろうと思えば,まじめにひとつひとつの文献にこつこつとあたるしかありません.

当然ですが.

そして,当然ですが,文献を研究しようと思えば,写本から研究しないといけなくなります.

校訂出版されてないものは,写本からやるしかないからです.

間を埋める作業というのは,結局,地味な文献学にならざるをえません.

巷間,ヨーガをやるひとはおおいでしょうけど,ヨーガの歴史を知ろうと写本まで遡るひとがいないのは,まあ,当然といえば当然です.

そして,その当然の帰結として,現在の無知蒙昧があるわけです.

誰もやらないと,当然,誰も知らないままに,「しあわせに」無知が続くわけです.

そして,多くの人の無知だけですめばいいですが,針小棒大,ヨーガスートラだけがあたかもヨーガのバイブルとして過大に評価されたりすることにもなるのでしょう.

古さという点では,もちろん,古いので重要ですが,あくまでも,長い長いヨーガ史の一コマ,しかも,或る立場からの或る意図をもった主張でしかないことに注意すべきです.

本邦の現状をふりかえると,佐保田以降,文献研究という意味では,あまり進歩がないように見えますが如何.

ともあれ,佐保田により,メジャーなテキストは和訳されていますから,それだけでも非常にありがたいことですが,我々としては,さらに,歴史の溝を埋める努力を真摯に続ける必要があるでしょう.

といっても,最初の最初,奈良時代から我々はある意味,瑜伽(ヨーガ)を勉強してきたわけですけど.

薬師寺では,ヨーガ(瑜伽)教室はあるのでしょうか?

留学僧の道昭は,「文献むずいし,禅のほう中心にやったほうがええんちゃう」と玄奘に方向転換を薦められたそうですが,さもありなん.

サンスクリットばりばりの玄奘から見れば,原典翻訳の漢文から,その真意を探るというのが,日本からやってきた留学生にそうそう簡単に果たせる目標には見えなかったことでしょう.(かつてT大にいたとき,漢文圏からの多くの留学生が,結局,タイムリミットの問題で,サンスクリット語のマスターはあきらめて,漢文を主資料に研究を進めていくよう方向転換せざるをえなくなるのを見てきても,そう思います.)

時間内に日本に帰って仏法を伝えてもらうには,実践を極めてもらった方がいいかもしれません.

ここらへんは戦略もあるでしょうし,また,各個人の向き不向きの資質の問題もあるでしょうし,時間の問題もあるでしょう.

留学僧も無限に勉強する猶予があるわけではないですし.


ともあれ,ヨーガ文献史の知識が新書レベルで一般化するのには,まだまだ,長い時間がかかることでしょう.

それまでは,虚実ないまぜの巷のヨーガ言説に惑わされるしかないでしょう.

まあ,真実を知ると,逆に,不都合な真実だったりして,困ったことが発覚したりも,あるかもしれませんが.

ハタヨーガの最初の最初が仏教文献だったなどというのは,インドでは,大きい声では言えないでしょう.

また,ヨーガスートラが,瑜伽行派から沢山流用してるのも,あんまり大きな声では言えません.

そもそも,別に,誰のもの,というわけではないので,そこらへんの所属を気にする必要はないのですが.

オリジナリティーや著作権という観念に侵された現代人の頭からすると,コピペはとんでもないという感じでしょうが,インド古典では,普通です,というか,そっちのほうがむしろ,オーセンティックな手法です.

ディグナーガも,バルトリハリのをちょいちょいと取ってきて,一部バラモン教っぽいところだけ,仏教用にかえて,そのまま使ってます.

コピペや流用・盗用というと聞こえが悪いので,バルトリハリ・リスペクトとでもいえばいいでしょうか.

我々のつまらん価値観を押し付けることに意味はありません.

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  1. 2020/05/24(日) 08:13:28|
  2. 未分類

論文を書く動機



疑問があるから議論が起こるわけで,疑問がなければ,そこには,議論の起こりようがありません.

つまり,論文も書きようがありません.

半分かりくらいの,もがいている状態の時が,論文を書くには一番適していると言えます.

それくらいが,情熱も湧くというものです.

全部わかっていると,もはや,書く意味ないなと思ってしまうわけです.

空中浮揚できる仙人なら,わざわざ,高山に登山しようとは思わないでしょう.

登れるか登れないかくらいの丁度の塩梅が人間が一所懸命もがきながら論文を書く動機になるわけです.

もちろん,この疑惑状態というのは,AさんとBさんが議論しているから疑問が生じている場合もあるでしょうし,たんに,Aさん一人の心の中で生じている場合もあるでしょう.

  1. 2020/05/24(日) 07:16:53|
  2. 未分類

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