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Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

オンラインで失われたもの



遠隔授業で前後の時間ロスがなくなり効率的になったのはいいのですが,しかし,同時に,非効率がもっていた色々な要素というものが,学生からの不満において「欠如」として指摘されています.

いわく,授業前後の友達との雑談.

授業後の,先生への気軽な質問.

先生の雑談.

私も感じていますが,どうも,リモートで画面みながら一人で真面目に喋っていると,雑談をしにくいものです.

ラジオのディスクジョッキーのようにプロであれば,いろんな雑談を次から次へとできるのかもしれませんが,対面する顔がないと,反応もないので,なかなか,雑談を切り出すタイミングもつかめません.

チャットの反応を見ながらやる,というのも,まだ(双方が)慣れていないので私などはできていませんが,双方が慣れていけば,そういう形に進化していったりするのでしょう.(対面ではなく遠隔の場合,ひとりで沈黙せずに喋るというプレッシャーがある以上,同時にチャットも見てとなると,なかなか厳しいものがあります.相方や耳打ちしてくれるディレクターのいるラジオとは,すこし勝手が違います.)

授業の味というのも,また,気分転換(集中力の持続)というのも,雑談で左右される部分がありますから,これは対面では重要な部分ではあるのですが,それが,どうも,遠隔ではやりにくい,と思っていたら,実際,多くの先生の雑談が減っているようです.

教授も学生も純粋に授業だけに集中した結果,学習効果は,最終的には,どうなるのでしょうか?

効率は確かに上がるのですが,しかし,そもそもからして,人間の集中力が持ちません.

画面も使っている人の場合は,学生も,目が疲れてたいへんのようです.

一日に4コマも5コマも,朝から晩まで動画を見ていたら,疲れるでしょう.(そういえば,むかし,ペン大で,部屋の前の先生がインド映画の専門家で,朝から晩までテレビでインド映画を研究室でずっと見ていましたが,「たいへんだなー」と思ったものです.インド映画を仕事にすると,かなり辛そうです.)

先生が気を使って入れてくれる休憩がありがたい,のだそうです.

たしかに,テレビであれば,気の抜けるCMが途中途中に入ります.

インド映画のような息をも切らさぬ面白い動画も,インターミッションがちゃんと入ります.(インド映画の場合,授業二コマ分の長さがありますけど.あれは,トイレ休憩や,ドリンク・スナック販売のため,という意味もありますけど.)

私の場合は,いまのところ,音声しかつかってないので,目の疲れはないでしょうけど.

研究室での生態系というのは,友達や同級生や上下との付き合いや,どうでもいい情報交換やら,いろんな雑味からなっていますから,純粋に授業だけが取り出されたりすると,アナログレコードからデジタルのCDに音源を移す時に上下や一部の細かい音を切るのと同じように,あるいは,塩化ナトリウムだけが取り出されて製塩されても,味がなくなってしまうのと同じなのかもしれません.

つまらんところが大事なところだったりするわけです.

美味しいものを食べるだけがレストランではないというのも同じ.

空間,他の客との距離,猥雑感というのも,愉悦の一つなのでしょう.(何千円もするような高級フレンチ店も,持ち帰りにしたら,まさか,そのままの値段で出すことがありえないのも,そこにプラスαが大いにあるからでしょう.)

屋外施設の使用は認められるようになって,すこしは若者のエネルギーも発散されるようになるようですが,この先,リモート授業はどうなるのでしょうか.

正解が見つかるころに,対面に戻るのか,あるいは,両方つかうのか,あるいは,しばらくはオンラインのままなのか.

しかし,一蘭の間切りが2020の正解だとは,孤食化のトレンドを捉えた人も,その時は,予想だにしなかったでしょう.

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  1. 2020/06/28(日) 13:31:54|
  2. 未分類

ヨーガからヨガへ



1割のニッチではなく,9割の多くの人に受け入れてもらうには,どうしたらいいのか,ということは,メジャーを目指すタレントであれば,恐らく苦心するところでしょう.

現代ヨガも似たようなところがあります.

つまり,なぜ,現代ヨガは,一般の人に受け入れられたのか.

まず,受け入れにくい要素をなくしていく,ということが必要です.

たとえば,タレントなら,政治的な主張や宗教的な主張を控える風潮がある場合もあれば,逆に国の大勢がそうであれば長いものには巻かれたほうが都合がいい場合もあるでしょう.

いずれにせよ,臭みが鼻について受け入れる人が減る,という事態を回避することが必要です.

かつてのヨーガが現代ヨガに生まれ変わるためには,科学の装いや医療の装いとからめながら,その宗教的臭みを取り除くことが,まずもって必須となります.

ミャンマー上座部の瞑想法から仏教臭を引き算すればマインドフルネスとなるのと似たようなものです.

とはいえ,もう少しヨーガの場合は複雑で,すでに,大衆化・一般化の動きというのは,ハタヨーガの時点で始まっていた,そこには長い歴史がある,というのが,マランソンの立場でしょう.

かつての出家遊行の苦行者が行っていたような極端な修行法――たとえば手を何十年も挙げたまま――というのは,そこでは主流ではなく,あくまでも,一般の人でもできるようなテクニックが宗派を超えて共有されるに至る過程として全体を見渡すことができます.

そして,20世紀.

ハタヨーガあるいは単に「ヨーガ」と呼ばれるものが広められるにあたっては,様々な宣伝方法が試行錯誤されながら,時代の要請に応じて,あるいは,時代特有の概念に応じて,伝統的な宗教の悟り・解脱・涅槃への階梯ではなく,一般人にも受け入れ可能な「~のようなもの」として再規定されるようになります.

たとえば,近代的な意味での「国民」――それは国力の重要な要素となる――を鍛えるための体操の一種として受け入れるというのも,そうでしょう.

ボディービルと並んでヨーガが教えられていた,その中で,太陽礼拝も出てきたというのは,まさに,象徴的な事例です.

また,20世紀にヨーガを広めるのにもともと医者だった人が活躍したという点も重要な点でしょう.

つまり,科学的にみて,体を良くする健康法としての側面が,ヨーガの重要な側面として売り出されたわけです.

不老不死の観念を見るまでもなく,また,薬師如来のかつての人気ぶりと同様,古今東西,医療・治療・健康法に興味のない人はいません.

実際,ヨーガに入るきっかけが病気や体調不良・メンタル不良というひとは多いようです.

それを直してくれるのであれば,ヨーガの出自がどこであろうと関係ありません.

カレーがインドから出て,インド臭をなくしてしまうのと同じです.

うまければ,本来的な出自は問題ではありません.

カレーうどんもありなわけです.

それが進めば,ファッションとして受容されるような動きへとつながるのは自明の理.

今日のようにジムでヨガ――宗教色ゼロ――が気軽に教えられる以前の形態としては,宗教的なグルっぽい人が主催するような(半宗教)ヨーガ教室も見られたように思いますが,昨今は,そのような湿っぽいところにわざわざ鼻をつまみながらいかずとも,もっと,ファッショナブルなところで,お気軽に学べます.

ハタヨーガから宗派色・宗教色を引いたのが現代ヨガというように言えるでしょう.

あとは,それに,ヨーガスートラなど,大昔のテクストを持ちだして,聖典の権威で裏打ちしておけば,神秘的なオーラもまとって,いっちょあがりです.

さらに,そこでは,インド臭がきつい,それゆえ,欧米の多くの人が受け入れられないようなタントラ的な要素やカウラ的な要素というのは,最初から捨象しておくのが得策です.

ヴィヴェーカーナンダのヨーガの見方――浄化――というのも,そのようなものとみなせるでしょう.

あるいは,逆に,大道芸的な要素を売りにするという方策もあります.

バイクで引かれたりなどという曲芸は宣伝効果抜群.

東洋のヨガパワー.

(インド臭をなくすという方向と,インド的オーラをうまく生かすという両方の方向があるのは,カレー受容においても,同様に見られます.)

伝統的ヨーガから引くべきものとしては,宗教色と同様に,インド臭の嫌な部分――エログロナンセンス――があるというわけです.

あとは,一種のオリエンタリズム的な神秘のベールでパッケージングすれば,いいわけです.

マランソンの作ったビデオに,セレブをインドに連れて行ってヨーガを学ばせるドキュメンタリーがありますが,最後,そのセレブさんは,ガンジス川上流で,ほとんど悟ったかのような恍惚とした表情を浮かべてました.

ヒマラヤ,ガンジス,清流――真っ白,まっさら.

最初は,イギリスからのセレブ女性を,いきなり,コルカタあたりの汚い屍林――伝統的ヨーガのディープな部分を代表するようなグロい場所――に連れて行くので,それとのコントラストが面白いところです.

ヨーガからヨガへ.

ここで引き算されたものが何なのか,というのは興味深い問題です.

この動きを「浄化」というと,なにやらきな臭いので,「無臭化」とでも言えばいいでしょうか.

また,大衆化・一般化と同時に,低俗・陳腐に流れるのを防ぎ,その市場価値を守るために,セレブを使った高級化やファッション化が起こるのは,どこの世界も同じなので,その部分については,私が突っ込む必要はないでしょう.

泥沼に咲いた蓮.

宗教史研究者としては,きれいな蓮の花そのものよりも,泥沼に隠れた根が,どこからどうはえて,どう絡まっているのかに興味がわきます.

  1. 2020/06/28(日) 08:38:55|
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