Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

Published: 認識手段と結果との対象の相違

片岡啓
2010d
「認識手段と結果との対象の相違――クマーリラとダルマキールティ――」,
『印度学仏教学研究』59-1, 418(115)-412(121).

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認識手段と結果との対象の相違
――クマーリラとダルマキールティ――

片岡 啓

問題の所在  「唯識のみならず経量部の立場においても自己認識が結果(量果)と考えられる」とする従来の解釈にたいして,筆者は前稿において,ディグナーガのPS(V)本文の素直な解釈としては,そのように考える必要が必ずしもないことを論じた.前稿の主張は二つである.ディグナーガ自身の説としては,経量部に二説を立てる必要がないこと,および,PS I 9abを,唯識と経量部2に共通する立場とみなす必要がないことである.I 9aにおける「あるいはここで自己認識が結果である」(svasaṃvittiḥ phalaṃ vātra)の「あるいは」の対比は,経量部と唯識の対立と単純に考えたほうがよいというのが前稿の主張であった.


 ダルマキールティに依拠する従来の解釈によれば,自己認識を結果とするI 9abは,唯識と経量部2に共通する立場であり,PS I 9cdは,経量部2の認識手段設定にたいする但し書きと解釈される.すなわち,唯識の立場では把握主体の形象が認識手段,自己認識が結果とされる(PS I 10)のにたいして,I 9cdで明らかにされるように,経量部2は同じく自己認識を結果としながらも,認識手段に関しては唯識と異なり〈対象の現れを持つこと〉が認識手段として立てられる,というのである.

 PS I 9の解釈が複雑すぎるのは明らかである.ディグナーガは本来,経量部説として自己認識を結果とする立場を想定しておらず,ダルマキールティに至ってそのような解釈が導入されたというのが筆者の予想である.このような予想を裏付けるものとして,クマーリラによる批判という契機を本稿では考えてみたい.

PS, ŚV, PVの対応  PSとPVの対応については,戸崎[1979:35][1985:2]に明らかにされている.これにŚV pratyakṣa章におけるクマーリラのディグナーガ批判を重ね合わせてみる. クマーリラの批判には,PS詩節との密接な対応が見て取れる.

PS I 8cd: savyāpārapratītatvāt pramāṇaṃ phalam eva sat → ŚV 74–78: viṣayaikatvam icchaṃs tu yaḥ pramāṇaṃ phalaṃ vadet/ sādhyasādhanayor bhedo laukikas tena bādhitaḥ// … 「いっぽう[認識手段と結果との]対象が同一であることを望んで,認識手段を結果[に他ならない]と言うなら,彼は,世間が認める実現対象・実現手段の区別を否定してしまったことになる.」(以下説明が続く)

PS I 9ab: svasaṃvittiḥ phalaṃ vātra tadrūpo hy arthaniścayaḥ → ŚV 79ab: svasaṃvittiphalatvaṃ tu tanniṣedhān na yujyate 「いっぽう自己認識が結果であることは,それ(自己認識)を[後からśūnya章で ]否定するのでありえない.」

PS I 9cd: viṣayābhāsataivāsya pramāṇaṃ tena mīyate → ŚV 79cd: pramāṇe viṣayākāre bhinnārthatvān na mucyate 「対象の形象が認識手段であるならば,異なる対象を持つ[という過失]から逃れ[られ]ない.」

PS I 10: yadābhāsaṃ prameyaṃ tat pramāṇaphalate punaḥ/ grāhakākārasaṃvittyos trayaṃ nātaḥ pṛthak kṛtam// → ŚV 80–83: svākāraś ca svasaṃvittiṃ muktvā nānyaḥ pratīyate/ prāmāṇyaṃ yasya kalpyeta svasaṃvittiphalaṃ prati// … 「また自己認識という結果にたいする認識手段と[君が]想定する[認識]それ自身の形象は,自己認識とは別に理解されることがない.」(以下理由説明が続く)


 PS I 8cdにおいてディグナーガが(経量部の立場から)「認識手段と結果の非別体説」を唱えたのに対して,ŚV 74–78においてクマーリラはそのような非常識な説を斥ける.PS I 9abの「結果=自己認識」とする(唯識の)立場にたいしては,続くŚV 79abにおいて,自己認識そのものが認められないことをもってクマーリラは答える.さらにPS I 9cdにおいてディグナーガが(経量部の立場から)「対象の現れを持つことが認識手段である」としたのにたいして,クマーリラはŚV 79cdにおいて,その場合,認識手段と結果との対象が異なることになると批判する.さらに,PS I 10において(唯識の立場から)把握主体の形象を認識手段とする見解にたいして,クマーリラは,そのようなものが自己認識と別に認められないこと,言い換えれば,認識手段と結果とが同一となってしまうことを指摘する.

ŚV pratyakṣa 79解釈の問題  ディグナーガは経量部に二説を認めていないとする筆者の解釈では以下のように説明できる.「いっぽう外界のものに他ならない対象が認識対象である場合」(PSV 4.8: yadā tu bāhya evārthaḥ prameyaḥ)と述べる時,ディグナーガは外界対象認識が結果であることを前提としている.PS(V) ad I 9dにおいてディグナーガが「XやYという形で――白・黒などとして――対象の形象が認識内に入り込むと,その同じXやYという形で,その対象が認識されるからである」 と述べているのは,外的形象と内的形象とが相似しているので,たとえ内に入った形象しか直接には対象としていなくても,認識結果の対象は外界対象だと主張できるとの考えからである .認識手段と結果の対象はともに外界対象となりうる.ここでyathā yathā ... tattadrūpaḥとして「外的形象=内的形象」とディグナーガが内外の相似を主張しているのは,内外のズレを意識的に埋めようとした発言だと解釈できる.しかしクマーリラから見た場合,〈対象の形象を持つこと〉(あるいは対象の形象)が認識手段なので,認識手段が直接に接するのは外界対象であるとしても,認識結果が直接に扱うのは内的な形象でしかない.したがってディグナーガ自身の主張とは異なり,認識手段と結果とは異なる対象に向かうことになる.認識結果が直接に扱えるのは認識内に「入った」内的な形象である.ディグナーガの無理な主張をクマーリラは否定したことになる.


 これに対して,PS I 9abを唯識・経量部2に共通する「結果=自己認識」の立場とし,PS I 9cdを経量部2の「認識手段=対象の形象を持つこと」の但し書きだとする従来の解釈の場合はどうであろうか.上で筆者は,PS I 9abとI 9cdそれぞれに,ŚV 79abと79cdとが対応すると考えた.すなわち79abは唯識批判(特に唯識の自己認識を批判するもの)であり,79cdは経量部批判であると考えた.しかし,従来の解釈は異なる.ŚV諸注釈(ウンベーカ注,スチャリタ注,パールタサーラティ注,いずれもダルマキールティ以後)の理解にしたがって,ŚV 79abと79cdとは一体であり,合わせて経量部2を批判していると解釈されてきたのである.

 このことは戸崎[1992:304]のŚV科文からも明らかである .すなわち,ŚV 79全体を戸崎[1992]は,「結果=自己認識」とする経量部説を批判するものと理解している.これはŚV注釈に沿ったものである.Hattori [1968:106], Taber [2005:81], 戸崎[1992:308],Moriyama [2008:207]の解釈も同様である .クマーリラが批判するのは,認識手段と結果の対象の相違である.Hattori [1968:106]は以下のようにポイントを説明する.

If it is held that pramāṇa is viṣayākāra while phala is sva-saṁvitti, then it would follow that pramāṇa and phala take different things for their respective objects (bhinnârtha): the former would take an external thing for its object, whereas the latter would take the cognition. (Hattori [1968:106],太字強調は筆者)

 Hattori [1968:106],Taber [2005:81]のいずれも,対象形象を認識手段,自己認識を結果とする場合には,両者の対象にズレが生じてしまうことをクマーリラが批判していると解釈している.認識手段の対象は外的であり,結果の対象は内的となるのである.このように,ŚV 79ab-cdは併せて経量部2への批判となるとするのである.


 しかし,この解釈には明らかに問題がある.認識手段と結果とが同じ対象を扱わなければならないことはディグナーガ自身重々承知していた.そのディグナーガが何のためらいもなく認識手段と結果の対象が外と内で異なることを公言したことになる.はなから敵に弱みを見せるような真似を,自説を擁護し他説を批判するに巧みなディグナーガがしただろうか.筆者のように経量部1の立場で結果を外界対象認識と解釈する場合には,「外界対象=内的対象」と弁明するディグナーガの言い訳は理解できる.しかし経量部2の立場で結果を内的対象認識と解釈する場合,ディグナーガ自身が認識手段と結果との対象に内外のズレがあることを最初から強調していたことになり,その明らかな過失をクマーリラがいとも容易に指摘したということになる.自己認識を結果(PS I 9a),〈対象の現われを持つこと〉を認識手段(PS I 9c)と宣言することは,対象の相違を自ら宣言することに他ならない.クマーリラがいとも簡単に指摘できるほど,ディグナーガは対象の相違に関して無自覚だったのだろうか .

ダルマキールティによるPSの再解釈  この問題は,PS I 9を経量部2の立場からと解釈する後代の理解に起因する.筆者の解釈によれば,PS I 9cdは,対象の現われを持つことを認識手段,外界対象の認識を結果とする本来の経量部説(経量部1)を説いたものである .むしろ外界対象認識を結果とする説を暗黙の前提としている.ディグナーガは,外界対象という原因に従った形で(hetvanurūpam)認識が生じるのだから,「外的対象=内的対象」ということで満足していたと思われる.これにたいしてクマーリラは,そうすると,認識手段と結果の対象が外的対象と内的対象で異なることになってしまうと批判したのである.ここで初めて,経量部の有形象認識論が抱える本質的な問題が明らかとなる.クマーリラの批判を受けてダルマキールティは,(二つのレベルを設けることで)認識手段と結果の対象を同じものにするべく努力したと考えられる.
 クマーリラの指摘の通り,経量部においても内的対象が対象であり,その意味では自己認識が結果であるといえる.ただしこの立場は,ジネーンドラブッディが明言するように ,勝義的な立場においてである.転義的用法では,自己認識の結果 である外界対象の確定が結果である .


「対象の確立はそれ(自己認識)を本質とするので,[本当は]自己認識であっても対象認識だと認められたのである」(PV III 349cd)と述べてダルマキールティは,経量部2の立てる結果としての自己認識を対象認識と呼びうることを説明する(自己認識≒対象認識).ジネーンドラブッディの転義的用法の説明は,ダルマキールティが説明しなかった対象確定と自己認識(≒対象認識)の因果関係を敷衍したものである([自己認識≒対象認識]→対象確定).これにより,勝義において認識(認識手段=結果)の対象は内的であるが,転義的用法によれば認識手段と結果との対象は外的となり,クマーリラの指摘したズレが解決されることになる.ジネーンドラブッディは,PV III 346を踏まえながら,転義的用法において問題が解決されることを詳しく説明する.

PSṬ 72.6–9: 外界対象に対しては認識が〈対象の現われを持つこと〉のみが認識手段となるのであって,〈自らを現われとすること〉ではない.というのも,外界対象にたいして,それ(自らを現れとすること)は,[認識を]実現する手段たりえないからである.なぜたりえないかというと,他のものを対象としているからである(←PV III 346c: aparārthatvāt) .すなわち,把握主体の形象は,[認識]それ自体を対象とする以上,どうして外界対象を認識する手段であろうか.というのも,他を対象とするものが,それとは別のものを認識する手段となるのはおかしいからである.

 ダルマキールティは,転義・勝義という用語自体は使わないものの,内容的にはそれに相当する二つの立場(348cd–350a, 350bcd)を認め,ジネーンドラブッディと同じく「それゆえ対象の相違もない」(PV III 350a: tasmād viṣayabhedo ’pi na)と明言する.ダルマキールティにおける二つの立場の導入が,認識手段と結果との対象のズレの解消にあったことは明白である.

結語  以上から次のような歴史的経緯が想定できる.有形象認識論が抱える本来的な内的構造にもかかわらず,ディグナーガは「いっぽう外界のものに他ならない対象が認識対象である場合」(PSV 4.8: yadā tu bāhya evārthaḥ prameyaḥ)と述べて外界対象認識を結果と認め,結果である認識の内的対象は外界対象に等しいと考えていた(前掲PSV 4.13–14).その問題をクマーリラは指摘した.結果としてダルマキールティは,経量部においても「[外界]対象それ自体が見られない」(PV III 348b: arthātmā na dṛśyate)ことを認め,唯識説を転用しながら自己認識が結果であるとし,経量部の第二説として提示した.同時に「本性を考察する場合には」(PV III 350c: svabhāvacintāyām)として(いわゆる勝義的立場として)自己認識を結果とする立場を安全圏に置いた上で,それとは別に外界対象認識・外界対象確定を結果とする立場を立てることでディグナーガを再解釈し,クマーリラの批判を回避した.
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  1. 2011/01/08(土) 21:18:52|
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