Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

アポーハの語義解釈と三種の分類

梶山1960は,「アポーハ論の分類と批判」と題して,冒頭の内容を紹介しています.



ラトナキ-ルチはアポーハ論の形態を図式的に分類している.アポーハシッディの冒頭に於いて反対者は批判のためにアポーハを三種に分類して考察する.
(一)アポーハとは一つの積極的な意味が他のものから排除されるか,他のものがこれから,或いはこれに於いて排除されるか,いずれかの仕方で異種のものと区別された外的な対象である.
(二)そのように異種を否定した積極的な観念像(buddhyākāra概念)である.
(三)否定そのものがアポーハであって,他のものの否定のみの謂である.



ASの原文は以下のようになっています.(梶山の解釈に沿って分節しておきます.)


apohaśabdārtho nirucyate. nanu ko 'yam apoho nāma.
(1) kim idam anyasmād apohyate. asmād vā'nyad apohyate. asmin vānyad apohyata iti vyutpattyā vijātivyāvṛttaṃ bāhyam eva vivakṣitam.
(2)buddhyākāro vā.
(3)yadi vā apohanam apoha ity anyavyāvṛttimātraṃ
iti trayaḥ pakṣāḥ.



ここにはアポーハの三種の分類があがっています.

(一)外的な対象
(二)観念像
(三)否定

また,最初に三つの語義解釈があげられています.

(a) これが他のものから排除される
(b) 他のものがこれからasmāt排除される
(c) 他のものがこれに於いてasmin排除される

梶山の解釈で,まず気がつくことは,下線部「そのように異種を否定した」に対応する原文がないことです.

「そのように」は何を指すのでしょうか?

日本語で普通に考えると,直前の「いずれかの仕方で」を指すはずです.

ということは,最初の三つの語義分析の選択肢が(二)にも係っていると解釈したことになります.

三つの語義分析は(一)と(二)だけに係り,(三)には係らない,ということになります.

(一) a, b, c
(二)(a, b, c)
(三) --------

実際,(三)は,apohanam = apohaですから,a,b,cのような凝った解釈は必要ありません.

また,yadi vāという接続詞の切れ目も,それを示唆しています.

つまり(一)(二)は,a, b, cのいずれの語義解釈も持つ,ということになります.


apohaśabdārtho nirucyate. nanu ko 'yam apoho nāma.
kim

(a) idam anyasmād apohyate.
(b) asmād vā'nyad apohyate.
(c) asmin vānyad apohyata

iti vyutpattyā

(一) vijātivyāvṛttaṃ bāhyam eva vivakṣitam.
(二)buddhyākāro vā.
(三)yadi vā apohanam apoha ity anyavyāvṛttimātraṃ

iti trayaḥ pakṣāḥ.



石田2005を参照すると,シャーキャブッディやカルナカゴーミンの解釈は,次のようになります.

(1)外的な対象(自相):ここに於いてasmin他が排除される
(2)観念像:これによってanena他が排除される
(3)否定:否定すること

ラトナキールティの語義解釈は,これとは少し異なります.

(1)外的な対象:
    a. 他(異種のもの)から排除されるもの
    b. これから他(異種のもの)が排除される
    c. ここに於いて他(異種のもの)が排除される
(2)観念像
    a. 他(異種のもの)から排除されるもの
    b. これから他(異種のもの)が排除される
    c. ここに於いて他(異種のもの)が排除される

(1)の外的な対象に関しては,cがシャーキャブッディの解釈でしたが,a, bを加えていることになります.

(2)の観念像に関しては,anenaがシャーキャブッディの解釈ですが,その解釈はラトナキールティには見られません.

さらに,ジュニャーナシュリーミトラでは次のようにあります.(モークシャーカラグプタも同様です.)


yat punar
(a) anyasmād apohyate,
(c) apohyate 'nyad asmin
veti
(1) vijātivyāvṛttaṃ bāhyam eva
(2) buddhyākāro
[vā] 'nyāpoha iti gīyate.



まず,テクスト訂正ですが,[vā]の補いは最低限不可欠でしょう.

McCrea & Patil 2010:51は,respectivelyとしています.

すると,次のようになります.

(1-a)外界対象:他から排除されるもの
(2-c)観念像:ここにおいて他が排除される

興味深いことに,「ここにおいて」という場所解釈は,シャーキャブッディにおいては自相に配当されていましたが,ジュニャーナシュリーでは観念像に配当されています.

また,観念像は,ここでは排除という行為の対象とされています.(シャーキャブッディにおいては手段でした.)

ラトナキールティの前提とする配置表で見ると次の部分です.


(1)外的な対象:
    a. 他(異種のもの)から排除されるもの
    b. これから他(異種のもの)が排除される
    c. ここに於いて他(異種のもの)が排除される
(2)観念像
    a. 他(異種のもの)から排除されるもの
    b. これから他(異種のもの)が排除される
    c. ここに於いて他(異種のもの)が排除される

シャーキャブッディのanena解釈が消えていますが,ラトナキールティが,場所解釈を,自相・観念像のいずれにも適用していることから,いずれにも統一的に同じ解釈を適用しようとしたことが推測できます.

多くの解釈を網羅する総合的で,しかも,統一感のある表を作りたかったのでしょう.

ラトナキールティは,いわば,整理屋さんといったところです.

少し図式的に過ぎるところが気になるところです.

非魚の排除に限定された存在
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  1. 2011/11/02(水) 07:41:30|
  2. 未分類

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