Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

我々の理解はそうなっている

梶山1960:80

此の点についてバーチャスパティ(やジャヤンタバツタ)は抗議して,言語認識に於て実在する対象が顕現せず,言葉がそれと無関係であるならば,ある言葉を聞いて他のものを避けつつ特定の対象に向かつて行為することがどうして可能になるか,と逆襲する.

ラトナキールチは答える.たとえ外物を把握しなくても,概念は特定の原因聚から生じ,特定の形相と機能を持つている,水という語を聞いた者は山や石に向かうことなく,水のみに向つて行為する.それはあたかも煙の知識が見えない火を推理せしめるように,自然に定まつたことであつて,何人もその因果関係が何故に可能となるかの理由を問うことは許されない.



対応するラトナキールティのASは以下です.(60,17-19)



ucyate. yady api viśvam agṛhītaṃ tathāpi vikalpasya niyatasāmagrīprasūtatvena niyatākāratayā niyataśaktitvāt niyataiva jalādau pravṛttiḥ. dhūmasya parokṣāgnijñānajananavat.

niyataviṣayā hi bhāvāḥ pramāṇapariniṣṭhitasvabhāvā na śaktisāṃkaryaparyanuyogabhājaḥ.



直訳すると以下のようになります.


答える.たとえ全てが把握されていないにせよ,分別は,特定の原因総体から生じるので,特定の形象を持つ.それゆえに,特定の能力を持つ.したがって,水等に向かう発動は,特定的でないことはない.ちょうど煙が目に見えない火の認識を生みだすのと同じである.

なぜならば,特定の対象領域を持つ諸存在は,認識手段により確定した本性を持つのであり,能力の混交について問われるべきものではないからである.



分別が本質的に錯誤であるにもかかわらず,分別知に基づく我々の行動がなぜうまく行くのか,それは,次のような因果関係に依ります.

特定の原因⇒特定の(形象と能力を持つ)分別⇒特定の(対象に向かう)発動



つまり,分別は本性上,そういうものだ,ということです.

これについては,これ以上問うても仕方ないということです.

梶山は「自然に定まつたことであって,何人も…その理由を問うことは許されない」と表現します.

一種の本性論svabhāvavādaです.

ダルマキールティ的なアポーハ論・概念論の行きつく先は,結局のところ,「我々の分別は,そのようになっているから,それ以上問うても仕方ない」というところに収斂することになります.

これについては,Tillemans 2011(in Apoha: Buddhist Nominalism and Human Cognition. Columbia University Press)が論考の結部で論じています.


After all, there are attractive nominalisms that, in effect, take samenesses or resemblances as primitive, needing no further explanatory postulates, ... .

As we saw previously, taking sameness as primitive seems to be what Dharmakīrti actually did in his bottom-up theory, although only when we were near the end of the causal chain and dealing with sameness of judgments. The basic standpoint, then, seems to be that at the end of the causal story, the apparent similarity between certain judgments is not an analysandum needing a further analysans; it is primitive and all the other samenesses (e.g., between perceptual images or between individual things) are explicable in terms of that sameness of judgment.



ダルマキールティの結論を言うならば,分別知,すなわち,同一の判断というのは,これ以上説明不要の既定の事実にして基底となる事実だ,というわけです.

これでは敵前逃亡ではないか,説明拒否ではないのか,問題に目をつぶっているだけではないのか.

果たしてこのような立場でいいのかどうか.

その点を更にTillemansは論じます.

彼の結論は,むしろいいことだ,というものです.


The interesting feature of this version of bottom-up Apohavāda, if the theory is carried out consistently, would be Dharmakīrti's enlightened refusal to play a metaphysician's game that was best put aside.



普遍のような形而上の存在を立てずとも説明できるわけですから,ダルマキールティ説は優れている,というわけです.

SKNSM 082
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  1. 2011/11/02(水) 08:00:00|
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