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Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

実在する相似性・類似性と実在しない普遍

牛が垂肉等の特徴を持ち,馬等がそのような特徴を持たないことから,その異なりを「牛」という語の意味とする.

このような理解をアポーハ説と説明したのが服部・赤松であり,そのような説明を批判したのが谷澤でした.

服部[1977:48]
On perceiving the particular which is endowed with dewlap, horns, a hump on the back, and so forth, one understands that it is not a non-cow, because one knows that a non-cow (e.g., a horse, an elephant, or the like) is not endowed with these attributes.

赤松[1980:975]
例えば,顎下の垂肉,角などを持って目の前を歩いている個々の物は,確かに,そのような特徴を持たないものからの異なりを共通して持つものとして我々に認識される.

谷澤[1998:15, n.2]
この説明を読んで,果して納得する者がどれだけいるのであろうか.
どうしてこのような「主張」が成立するのだろうか.
これはまさに初めに顎下の垂肉などの肯定的な特徴ありきではないのか.






要するに,アポーハ論において,外界に実在する共通した形相や,実在する相似性・類似性を認めてよいのかどうか,ということです.

谷澤の問題意識は,シデリッツ他編のアポーハ論文集でも表明されています.

Chakrabarti and Siderits 2011:26-27:
Does the resort to exclusions in place of real universals succeed in explaining how particulars appear to naturally fall into kinds or classes without in the end bringing in real resemblances? If so, how? If not, is there some account of why real resemblances need not be backed up by real universals?



実在する普遍の代わりに排除(アポーハ)に依拠するのがアポーハ論です.

その試みは,ばらばらの個物が一つのクラスを形成するかのように現れて見えるという我々の現実の理解を説明することに成功しているのでしょうか?

しかも,最終的に,実在する相似性というものを認めることなしに.

逆に,もし実在する相似性というものを認めているならば,それが,その背後に実在する普遍を持たないと,どのようにして言えるのでしょうか?

牛Aと牛Bとは実際に似ているし,実在する相似性・類似性を持っているのだが,牛性なるものは存在しないと,どのようにして言うことができるのでしょうか?
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  1. 2011/12/01(木) 08:00:29|
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