Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

自己認識における我執臭

仏教認識論における「自己認識」とは,認識が対象と同時に,認識それ自身をも認識するというものです.

自証,自覚作用のことです.

認識は,対象に対して働くと同時に,認識それ自身に対しても同時に働くことになります.

この自覚作用は直接的なので知覚の一種です.

     ↷
対象←認識

このような認識の在り方(二面性)を証明するものとして,これを少し外から眺める認識である想起が利用されます.

「青を見ているなあ」という現在の知覚を後から思い出すとき,すなわち「昨日,青を見ていたなあ」という想起においては,青という対象と同時に,見ているという認識それ自体についても思い出しています.

対象←認識
   ↖↑
   想起

想起というのは,「経験した対象しか思い出すことはできない」という原則に縛られたものです.

たとえば,会ったことのない田中君の顔を思い出すことはできません.

青は昨日経験したから,今日,思い出すことができます.

同じように考えると,昨日の時点で,認識それ自体も経験されていた,ということになるはずです.

そうでなければ,「見ていたなあ」という思い出しはないはずだからです.

つまり,二つが想起されるということから,対象の経験と同時に,認識の経験が昨日の時点であったことが証明されます.

対象の経験によって対象の想起が生み出され,認識の経験により認識の想起が生み出されるのです.


     ↷
対象←認識
   ⇘ ⇓
   想起

このような自己認識を認めない立場もインドにはあります.

ニヤーヤやミーマーンサーの立場です.

認識は,対象を眺めるだけで,自分自身を捉えることはありません.

その場合,認識1は,認識2により認識されることになります.

対象←認識1←(認識2)

「青を見ているなあ」という自覚があっても,その時,「青を見ているなあ(と私は思っている)」という認識2の部分は認識されていません.

認識2は黒子として隠れています.

認識1をモニタリングするだけです.

これは,認識3を付け加えた場合でも同じです.

すなわち,「青を見ているなあと私は思っている(と私は思っている)」という場合も,最終のモニタリングする認識3は,黒子として隠れています.

対象←認識1←認識2←(認識3)

現代の脳科学は,このような立場に立つはずです.

先行する脳内現象をモニタリングするが,それ自体をモニタリングするには,さらに別のものが必要となるはずです.

このような立場に立つ場合,想起は,次のように説明されます.

対象の認識1により,「青」の部分が想起可能となります.

また,対象の認識1をモニタリングする認識2により,「見ていたなあ」の部分が想起可能となります.

すなわち,認識1と認識2のおかげで「昨日青を見ていたなあ」という想起が生み出されるのです.

     
対象←認識1←(認識2)
         ⇘  ⇓
          想起

ここで,認識2自体は,黒子として隠れたままで,経験されていません.

隠れたままで認識1を捉え,それにより,想起を生み出すのです.

認識2がない場合は,当然,想起も,「青があったなあ」という形を取るでしょう.

対象←(認識1)
      ⇓
     想起

しかし,このような黒子の存在である認識2は,仏教にとっては,実に気持ち悪い,許しがたい存在です.

見た自覚がないのに見ている,ということになるのですから,当然です.

ミーマーンサーの立場では,認識は,「青だ」という形を取るのであって,「青を見ているなあ」というように,自覚作用を含んでいません.

「青を私は見ているなあ」という自覚作用がない「青だ」という認識は,いったい誰に帰属するのでしょうか.

その認識は本当に自分のものなのでしょうか.

誰か他の人に属していてもいいのではないのか,ということになります.

物←(私)

物←(彼)

「私が経験している」という部分は,あくまでも黒子として顕在化していないのですから,この場合,実際には「彼が経験してい」てもいいはずです.

ジネーンドラブッディは,次のように言っています.

それでは,自分に属する経験というのは何に基づいて成立しているのか.というのも,もし経験が成立するならば,それは,自分に属すか,他人に属すか,という区分があるはずである.しかし,そのような区分は成立していない.それが成立していない以上,いずれの場合も見えない点で違いはないのだから,「自分だけにこの経験が属し他人にではない」というこのことは,目に見えない知覚によっては,分からない.



「私が見ている」という部分が隠れているならば,実際には「彼が見ている」のでもいいではないか,という詰問です.

対象だけがスポットライトを浴びているが,その光源であるスポットライトは隠れて見えていない場合があります.

東京国立博物館の法隆寺館にあるピンライトなどは,仏像だけが綺麗にうきあがって,ピンライト自体を意識させません.

灯台もと暗しの状態です.

光源はAかもしれないし,Bかもしれません.

その場合,確かに,光源がどこにあるのかが分かりません.

本当に自分が見ているのかどうかは自明ではないのです.

これにたいして,仏教の自己認識理論では,光は必ず自明でなければならないと考えます.

光自体が見えていなければ,その光が照らし出す他体をも光は照らし出せないというのです.

光源が明らかでなければ,対象も明らかではない,というのです.

ジネーンドラブッディは次のような遍充式を述べています.

或る対象Xを捉える知覚が見えないならば,その対象Xは見えない.



対象X(見える)←知覚(見える)

対象X(見えない)←知覚(見えない)

対象Xだけが見えて,知覚は見えていないというような状況を認めないわけです.

対象X(見える)←知覚(見えない)

自己認識理論において,「我」への執着は相当なものです.

Gaetano 002
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  1. 2012/01/08(日) 07:49:01|
  2. 未分類

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