Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

「脱文献学的考察」の考察

シリーズ大乗仏教9「認識論と論理学」が出版されました.

その末尾を飾るのは,谷貞志先生の「「刹那滅」論証――時間実体(タイム・サブスタンス)への挑戦」です.

他の論考とは毛色の違うことはタイトルからも明らかです.

「思想史」ではなく,いわゆる「哲学」を目指したものです.

出だしから奮っています.


一 脱文献学的考察
ここでは「文献にある以上のことを語ってはならない」とする現在インド学・仏教学において最も有力な文献学的傾向のフレームを敢えて超えて,ダイレクトに「刹那滅とは何か」を哲学的に問題にする.(p. 260)



サンスクリット文献を丁寧に読んで,そこに書いてあることを忠実に再現し,報告する.

そんな滅私奉公的な「文献学」を私は目指さない.

そうではなく,文献から哲学を掘りだして,生き返らせて,その内容を批判的に吟味し,格闘していく,そんな「哲学」を目指す,という態度表明です.

たしかに,「文献学」の作業は,地道にサンスクリット文献を読んで,そこにある内容に頭を追い付かせながら,なんとか言っていることを理解する,というだけで一日一日が暮れていく,そんなものかもしれません.

そして,文献に書いてもないことを勝手に言い出したり,自分で再構築したり応用したりしたら,先生から怒られる,同僚からは疎んじられる――そういうイメージなのかもしれません.

これに関しては,「文献学者」としては一言文句を言っておく必要があるでしょう.

「文献にある以上のことを語ってはならない」という信条を,文献学の信条とするのは間違いだと.

文献に書いてあることをそのまま再現する,日本語に置き換える,それ以上のことは文献には存在しないし語ってはならない,という態度は,私が「文献学チャールヴァーカ」と呼ぶものです.

すなわち,知覚しか認めない,文献に「見られるもの」しか認めない,という意味で,チャールヴァーカ(目に見えるものしか信じないインドの唯物論者)的な態度です.

これは,私の考える文献学とは異なります.

なぜならば,我々の認識方法は,知覚だけに限られないからです.

聖典解釈学ミーマーンサーでは,六つの認識型を考えます.

知覚のほかに,推論,比喩,言葉,アブダクション(「そうとしか考えられない」ことによる想定,仮説の設定),前五つの認識手段の非存在(=対象としての非存在「無い」を認識する方法),があります.

したがって,文献に直に書いてあることだけでなく,我々は,文献に書いてないことも「推論」できるはずです.

「こう書いてあるから,当然,こういうことが前提にあるはずだ」という推論です.

煙から火を推論するのと同じです.

たとえ目に見えなくとも,火があるのは確実です.

たとえ直に文献に書いてなくとも,十分な証拠があれば,目に見えないものも推論できます.

これは十分に「文献証拠に基づくもの」です.

犯行現場を目撃してなくとも,指紋やDNA型から犯人を特定できるのと同じです.


また,「~のようだ」「~みたいなものだ」というように類比的に理解することも可能です.

比喩のミクロな使い方をすれば,次のことも言えます.

哲学文献は,抽象的な語意に満ちていますが,それを記述する動詞語根は,実際には,物理的な行為を表すものがほとんどです.

プラマーナも,もともとは「量る」という動詞語根から来ています.

その語感を捉えるために,「ああ,秤で重さを量るみたいなものだな」と比喩的に理解することは,哲学文献を読むにあたっても,とても重要なことです.

そして,それは「文献に直には書いてないこと」かもしれませんが,比喩を通して文献から理解できることです.

つまり,文献証拠から十分に(我々の比喩的理解の方法を使って)理解できることです.

全くの自分勝手な想像というわけではありません.

マクロな比喩の使い方をすれば,現代思想と比べながら「~の言ってることと似ている」という了解方法もあります.

これが発展すれば(つまり軸足をサンスクリット文献と現代哲学文献の両方に等しく置くならば),いわゆる「比較思想」となるでしょう.

文献に書いてある内容を捉えるには,このような比喩的な理解も重要な働きをします.

比喩的理解は,文献に全く基づかない,というわけではありません.

あくまでもサンスクリット文献に軸足を置きながら,現代人としてそれを読み解くには,比喩的理解も必要ですし,そのような「読み込み」が入ることも十分に意識しておく必要があります.

正しく文献に基づいた比喩的理解・比較思想は,十分に文献を理解する作業です.

そして,神ならぬ自分の足場を考えた時,古代の文献を理解するにあたって,このような比喩的理解が重要な役割を果たしていること,本質的であることは,必然です.


同じように,同時代や,先行文献から,さらには,同じ著者が他の個所で言っていることから,語義を明確にすること,さらに,そこでは直接に言ってないような内容を補うことができます.

これは「言葉」に基づく補完作業です.

典型的にはいわゆる用例検索というもので,従来の文献学においても,これが最も重要な作業とされてきました.

これは面倒くさい地道な作業なので,「哲学指向」の研究者は嫌がるかもしれません.

谷先生の言う「文献にあること」のイメージも,これがメインかもしれません.

しかし用例から分かることには,非常に大きいものがあります.

この作業を怠ることはできません.

私の見るところ,この作業は,哲学文献を扱う「文献学」においても十分になされてきたとは言えません.

注釈文献やチベット訳を見て終わり,ということが多々あるからです.

そうではなく,もっと重視すべきは,著者自身の他の用例,さらには,同時代文献・先行文献での用例です.

我々は,著者自身の当時の教養を再現する必要性を認識しなければなりません.


そのほか,推論と似た作業ですが,「こう言っているから,こう考えるしかない」というアブダクションも可能です.

直接にはXは,どこにも書いてないが,常識的に考えて「Yと書いてるのだから,Xがあるとしか考えられない」という補完の作業です.

仮説の構築です.

たとえば,思想史上のミッシングリンクの想定です.

このような文献はいまだ見つかっていないが,思想史の発展から考えて,このようなことが言われていたはずだ,という想定が可能となります.

意外かもしれませんが,写本に基づく文献の校訂作業においても,このような「創造的・想像的作業」は重要です.

emendationや,さらに一歩進んだconjectureと言われるものです.

校訂作業は,単に写本の異読情報を記録するだけではないのです.

校訂には,校訂者の主体的な取り組みが必要不可欠です.(したがって,校訂本は,誰が作っても同じものになるわけではありません.その意味では,校訂本は,一種の芸術でもあります.)


以上,五つの認識手段のいずれを用いても認識されない場合,そのような内容は「文献には無い」「文献は意図していない」ということになります.

このような意味で「文献に無いもの」を勝手にこちら側で作り上げて理解するのは,文献学の範囲を超えます.

それは文献に根を持たないものですし,著者が意図していないものですし,学者が文献に帰することが許されないものです.


結局のところ,谷先生と私の理解の相違は,「文献学」の語義定義の違いということだけかもしれません.

やろうとしていることのメインの部分は同じです.

文献に書いてあること,著者の意図を正しく理解し評価する,ということです.

そして,それは,直に書いてあることだけでは分からない,ということです.

我々が持っている手持ちの様々な道具を使って理解する必要があるということです.

哲学文献を読むのに,我々の哲学的思考を停止させるわけにはいかないのは当然です.

「疾走するダルマキールティ」に追いつくには,我々も疾走する必要があります.

TT09842
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  1. 2012/01/13(金) 08:15:12|
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