Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

api in PST 39,9

ICP-409we


pratyakṣaが「プラティ・アクシャ」「対・眼」(感官に依拠したもの)と名付けられるのは何故なのでしょうか.

その語源分析を論じる文脈で,感覚器官(アクシャ)が知覚原因であるのはよいとしても,対象は知覚原因であるのかないのかが問題となります.

対象も知覚原因であるならば,「プラティ・アクシャ」ではなくして「プラティ・ヴィシャヤ」などと命名してもよかったはずです.

さらに対象以外の光(アーローカ)はどうでしょうか.なぜ,「プラティ・アーローカ」と知覚を呼んではいけないのでしょうか.

PST 39,8-9:
ālokas tu na sarvendriyajñānanimittam, cakṣurvijñānasyāpi keṣāṃcin na bhavatīti nopanyastaḥ.



すぐに分かるように,光は視覚原因ではありますが,聴覚原因ではありません.

したがって,光を知覚一般の原因としてあげるわけにはいきません.

ここでの問題はapiのニュアンスです.

吉田 2011:145:
ところで、光はすべての感官知の原因なのではない。〔光は〕或る〔生き物〕の眼識(cakṣurvijñāna)〔原因では〕ない。だから、〔光は原因として〕提示されないのである。



視覚認識であっても,光を原因としないものがある,というニュアンスで捉える必要があります.

たとえば,フクロウの視覚認識の場合,光は原因ではありません.

片岡:
いっぽう光は,〔例えば視覚以外の聴覚などで見られるように〕全ての感官知の原因というわけではない.視覚知であっても,一部〔の生き物,例えばフクロウ〕の場合には,〔光は原因では〕ない.それゆえ〔光は感官知の原因として〕提示されなかったのである.


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  1. 2012/02/22(水) 00:38:22|
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