Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

宗教の正しさの基準

KataosaKaigan 017


いったい,或る宗教が正しいとか,間違っているとか言うとき,我々は何をもって,そのように言っているのでしょうか.

「オーム真理教は間違っている」と言うとき,そこには,宗教の正しさあるいは正しくなさに関する基準があるはずです.

我々は,ほとんど無意識のうちに,「正しい」「誤っている」という判断を下します.

しかし,それは,どのような要素からなっているのでしょうか.

あるいは,正しさの定義,または,正しくなさの定義とは,あるのでしょうか.

あるいは,それはそもそも定義可能なのでしょうか.

そして,正しさと正しくなさを共に定義する必要はあるのでしょうか.

正しくなさを定義してしまえば,正しさは「その他」として残るので,正しさを定義する必要など,そもそもないのではないでしょうか.

だとすれば,正しくない宗教というものに意識を集中すればよいことになります.

いったい,宗教が正しくない基準とは何でしょうか.

オーム真理教のニュースを見たとき,多くの人は,直感的に「胡散臭い」と思います.

それは,創始者の顔を見れば明らかだからです.

つまり,宗教の正しさや,正しくなさ,というのは,その宗教を唱えている人の正しさあるいは正しくなさに依存しているということです.

つまり,我々が,聖典や宗教の正しさと言っているとき,実は,それを作った人の正しさあるいは正しくなさを問題にしていることが考えられるのです.

ニヤーヤ学派の考え方は,このようなものです.

つまり,宗教や聖典が正しい正しくないというのは,それを作った人の正しさ正しくなさに依存している.

つまるところ,それは,その人がもっている良い条件と悪い条件のことです.

その人が伝える情報が正しいか誤っているか,ということは,その人が,正しくその情報を捉えているか,そして,それを正しく伝えているか,という二つの側面から問題となります.

ニュースを考えると分かりよいでしょう.

現場を直接に見て,それを正しく伝えること.

つまり,知覚と正直,という二条件です.

それに,人々に正しいことを伝えようという使命感が動機となっている必要があります.

インドでは,人々に伝えようという慈悲と表現されるものです.

つまり,人々に伝えようという慈悲,対象の正しい把握,嘘をつくことなく正しく伝えるという正直さというのが三大条件となります.

さらにいえば,伝えるための手段をもっている,ということも必要になります.

つまり,頭には情報があっても,口がいい間違えることもあります.

ちゃんと言葉にする能力,言い間違えない能力というのも,条件の一つとなります.

逆を考えれば,正しくない宗教や聖典も分かるでしょう.

慈悲ではなく,貪欲に駆られた人の宗教は間違っています.

こうすれば天国に行ける,こうすれば苦しみから解放される等,その対象を正しく捉えた上で発言しているのかどうかが問題となります.

つまり,本人自身が本当に悟っているのかどうか,ということです.

さらに,上の条件とも一部重複しますが,貪欲に駆られている場合は,嘘をついて人を騙すなどが起こります.

バラモン教からの仏教批判は,このような論点に集中します.

仏陀は所詮,物欲に駆られて,人々をそそのかして騙しているだけだ,というのです.

以上は,ニヤーヤ学派の見方です.

しかし,これとは全く異なる「正しさ」の見方も可能です.

ミーマーンサー学派において,ヴェーダという聖典は作者を持たないものです.

とすれば,上のようなニヤーヤ学派の戦略は,ミーマーンサー学派にとっては,取るべき戦略でないのは,最初から明らかです.

作者がいないということは,正しさを云々できないことになるからです.

あるいは,作者がいないということは,聖典の正しさの条件が欠けているということになるのですから,正しくないということを帰結します.

では,ミーマーンサー学派は,どのように正しさを考えたのでしょうか.

基本的な考え方は,「間違っていなければ正しい」というものです.

つまり,基本正しい,例外的に誤り,というものです.

これは,認識一般を考えると分かりやすいでしょう.

我々は,自分の認識を99%信じて行動しています.

つまり,平常時,ノーマルな状態において,認識は正しいのです.

それをわざわざ疑ったりはしません.

しかし,誤りの条件が考えられるとき,例外的に,「ああ,間違いだったな」と分かります.

たとえば,あとから誰かに間違いを指摘されたり,自分で後から間違いに気がついたりしたとき「ああ,あのときの認識は間違いだった」と分かります.

あるいは,間違いの原因を発見したときも,その認識の誤りに気がつくことが出来ます.

駅のプラットフォームにいる人が動いていると思っていたら,実際には,自分の乗っている電車が動いていることに気がつくことがあります.

見た目は,人が動いているのですが,この場合,誤りを引き起こしている原因に気がつくわけです.

「ああ,電車が動いているんだな」と.

これは,インド哲学では,船と岸辺の木の例として言及されるものです.

あるいは,旋火輪も,よくあげられます.

そのほか,感覚器官の異常ということも考えられます.

飛蚊症や白内障です.

ないものが見えることがあります.

このように,誤りの原因に気がつくことで,認識の間違いに気がつくわけです.

1.認識の誤りの原因に気がついて,認識を訂正する
2.対象とのズレに気がついて,後から訂正する

このような例外的なケース以外は,特に問題なければ,正しい,ということになります.

宗教も同じです.

誤りの原因がなければ正しいわけです.

誤りが持ち込まれる最大の要因は「人間」です.

つまり,人間は,貪欲などに満ち満ちて,嘘をつきます.

そのような人間があらわした聖典など,どうして信用できるでしょうか.

大昔から伝えられてきた非人為の,人が作ったものではない,永遠の聖典であるヴェーダこそが正しい,というのがミーマーンサーの主張です.

非人為の著作というかわった主張ではありますが,そこには,実は,真理をめぐる大事な点が指摘されています.

クマーリラの主張は,認識の正しさは,最初から備わっているが,後から悪条件によって打ち消されるというものです.

つまり,デフォルト状態では,認識は正しいのです.

ちょうど,健康な状態がノーマルな状態,病気にやられた状態がアブノーマルな状態というのと同じです.

正常と異常,という分け方になります.

彼は,このような認識の正しさのあり方を「認識は自ら正しい」と呼び,「他から正しい」とするニヤーヤ学派の考え方を批判しました.

他律的真理への批判です.

なぜ,認識の正しさが他に基づいている,他によって証明されると考えてはいけないのでしょうか.

クマーリラは,その原理的な欠陥を指摘します.

認識1は,認識1以外の別のものによって,その正しさが証明されなければならないとしましょう.

その場合,その認識1を検証する認識2が必要となります.

たとえば,水を遠くから見たとき,水の認識1が生じます.

しかし,本当に水はそこにあるのでしょうか.

疑えば疑うことが出来ます.

蜃気楼や陽炎かもしれません.

もうちょっと近づいて見てみます.

やはり,水です.この認識2が,認識1の正しさを証明してくれます.

しかし,認識2もひょっとすると間違いかもしれません.

もうちょっと近づいて実際に触ったり,あるいは,飲んでみたりすることで,「やはり水だ」と確認することが出来ます.

認識3の登場です.

しかし,疑えばきりはないものです.

ひょっとしたら,この喉の潤いの認識3も,実は間違いかもしれません.

まったくの錯覚という可能性はぬぐいきれません.

この認識3を証明する認識4が必要になります.

というようにして,無限後退に陥ってしまいます.

つまり,認識の正しさを,その認識以外によって証明しようとする場合,無限後退となるのです.

基礎付け主義は,このような過失に陥らざるを得ないのです.

どこまでいっても,基礎の基礎を問えば,切りがないわけです.

「水を飲んで潤った認識は疑いようがなく正しい」というように,認識3だけを特別扱いすることができるかもしれません.

ニヤーヤ学派も,後代になると,一部のタイプの認識を,特別扱いするようになります.

つまり,全ての認識が他律的に正しいという他律論からの一部退却です.

一部の認識は自ら正しいということを認めるようになるのです.

その意味で,クマーリラの他律論批判,基礎付け主義批判は,実に的を得たものでした.

紀元後7世紀のインドにおいて,既に,認識の基礎付け主義が無限後退に陥るということが,鋭く指摘されていたわけです.
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  1. 2012/07/27(金) 07:41:46|
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