Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

アポーハ論

アポーハ論とは何でしょうか.

アポーハというのは,排除,という意味です.(apa脇にūha運ぶ,というのが原義です.)

ディグナーガは,「牛」という単語は,他者を排除することで自らの対象を表示すると言います.

単語の機能は,他者の排除にあるというのです.

「牛」という単語は,牛でないものを排除することで,一般的に牛というものを概念化された形で理解させるのです.

特定の個物を知覚するのとは違って,「牛」という単語を聞いた時,我々は,一般的な形で(概念化して)牛を理解します.

普遍実在論者ならば,ここで理解されているのは牛性という,全ての個物としての牛に共通する普遍だと言うでしょう.

もちろん,ディグナーガは,そのような実在する普遍を認めません.

牛性は存在しないのです.

その牛性に代わる共通性として彼が立てるのが「他者の排除」という否定的存在です.

全ての牛を牛たらしめているその本質は,実は牛性というような肯定的な実在ではないというのです.

全ての牛に共通するものは,〈牛でないものではないこと〉でしかない,というのです.

つまり,非牛でないこと,です.

非牛でないこと,とは,言いかえれば,馬等ではないこと,です.

馬等ではないことという共通性を,全ての牛は持っている,というのです.

ディグナーガは,このようなあり方を,対象だけでなく,言葉にも当てはめて考えます.

つまり,「牛」という単語それ自体も,本質的に,アポーハだというのです.

「牛」という単語――一つ一つの発声の事例――は,「牛」という単語ではないものの排除を共通性として持っているのです.

つまり,(言葉のレヴェルでの)非「牛」の排除が共通性となります.

gauḥという単語は,gauḥ以外の排除を本質とする,というわけです.

これは,ソシュールの構造主義の考え方と同じです.

音素や単語は,それ自体で存立しているわけではなく,あくまでも,他の音素や単語との関係・対立の上に成り立っています.

ソシュールがディグナーガの理論を直接に知っていたとは思えませんが,サンスクリットを知っていれば,このような発想に赴くのはある意味必然でしょう.

サンスクリットの伝統では,各単語に「のみ」evaをつけることで,その単語の存在価値を測ることが,註釈方法としてしばしば用いられます.

言の葉一枚一枚の有用性(dala-sārthakya)と言われるものです.

つまり,何が切り捨てられているのか,というのを見極めることで,その単語の存在意義を確認するわけです.

「だけ」(eva)の機能は,限定(avadhāraṇa)であり,言いかえれば,他者の排除です.

「ないない」という二重否定です.

「牛」というのは「牛だけ」という意味であり,つまり「牛以外ではない」ということです.

ここから,単語の意味一般について,他者の排除が意味だ,と結論することができます.

肯定的な牛性を立てると,様々な問題が生じてきます.

ディグナーガは,『集量論』第五章において,普遍実在論者の抱える問題点を指摘しています.

これに対して,否定的な存在である〈他者の排除〉は,様々な点で,実在する普遍が抱えることになる問題を回避することができます.

そして,立派に共通性の役割を果たすのだ,とディグナーガは主張します.

しかし,様々な批判・修正を経て,ダルマキールティ以降のアポーハ論は,ディグナーガ本来のアポーハ論とは全く異なったものへと変化していきます.

単なる否定だけで論を守り切るのは難しい,ということでしょう.

ダルマキールティや,その註釈者であるシャーキャブッディに至ると,認識内部に浮かぶイメージ(形象)の役割が重視されるようになっていきます.

「牛」という単語を聞いた時に我々の頭に浮かんでくるイメージです.

本質的に錯誤した認識内イメージ,それを,概念構想作用の直接の対象として認めていくのです.

ダルマキールティ以降の認識内イメージ説への傾斜は,ディグナーガのアポーハ論が本来的に持っていた否定的性格を,本質的に変化させてしまう危険性をはらんでいます.

ダルモッタラは,そのような危険性を察知し,アポーハが本来持っていた否定的性格,虚偽的性格を再び強調するようになります.

外界実在でもなく,認識内形象でもない,虚構形象としてのアポーハというのがそれです.

ウィーンの研究者であり,インド哲学研究の大家であるフラウワルナーは,ダルモッタラ説は,ダルマキールティ説と本質的に大差ないと結論づけています.

つまり,ダルモッタラは,ダルマキールティ説の枠内に収まるというのです.

そこに本質的な差異はない,と言うのです.

これは,大きな間違いと言わざるを得ません.

フラウワルナーのこのような歪んだ歴史観は,彼の歴史発展全般に関する歪んだ見方に影響を受けたものと見なせます.(それは,ナチのアーリヤ主義と密接に関わっています.)

ダルマキールティが頂点であり,あとは堕落する一方だ,というのが彼の基本的な見方です.

したがって,ダルモッタラが,ダルマキールティより優れているわけなどないし,そこに発展などありえない――このような考え方が,フラウワルナーの前提となっているのです.

緻密な文献学のフラウワルナーも,そこを離れて大局を論じるときは,(後代から見れば誤った)パラダイムに捕らわれていた,ということでしょう.

戦中などは「時局を論じる」などという哲学が流行るものですが,いずれ否定されるのがオチということでしょう.

フラウワルナーのダルモッタラ研究が公刊されたのは,1937年でした.

しかし,断っておかねばならないのは,大局を誤ったとはいえ,彼の緻密な文献学的成果の意義が減じることは一向にない,ということです.

それは,彼のダルモッタラ研究を見ても明らかです.

我々は,彼のチベット訳校訂とドイツ語訳という緻密な作業の上に立って,それを批判的に検討しながら,今後の研究を進めていかねばなりません.

足元がしっかりしていれば,危うからず,ということです.

結局,長く使われる研究というのは,地道な作業の成果です.

Cf. Kei Kataoka: Dharmottara's Theory of Apoha. 2010年12月25日,京都大学で行われたインド思想史学会で発表.雑誌『インド思想史研究』に掲載予定.

片岡啓2012:「言語哲学:アポーハ論」,桂紹隆・斎藤明・下田正弘・末木文美士(編)『シリーズ大乗仏教9 認識論と論理学』,春秋社.189-226.
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  1. 2012/09/09(日) 09:21:54|
  2. 未分類

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