Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

以賈還賈:restore the commentator's presupposed reading of the mula-text

或るテクストXの本来の語xと,そのXの注釈Yが前提とするXの読みyが異なっていることがあります.

その場合,Yの議論は,当然,xの別の読みであるyを前提としているのですから,xとは別にyを考慮に入れる必要があります.

つまり,同じXというテクストを扱っていても,その註釈Yの議論を理解するには,yという異読を念頭に入れて,その是非を判断する必要があります.

Yの議論を扱う際には,yを勝手に本のxと訂正してしまっては,議論が通じないことになります.

つまり,まずは,注釈Yが本来前提としていた形yを確定する必要があります.

ムーラテクストを校訂していると,たまに,注釈の出版本に信頼を置けないことがあります.

というのも,注釈の校訂者が,ムーラテクストの校訂版を参照して勝手に直している場合があるからです.

同じことは漢文でもあるようです.

次のように述べられています.

橋本(訳) 2003:100:

清代の学者段玉裁は,このことを痛感し,次のような鋭い論を述べました.

書物を校勘する本当の難しさは,底本の通りに字を改めて誤りや漏れが無いようにすることに在るのではなく,是非の判断の難しさに在る.この是非には,底本の是非と,立説の是非の二つがある.まず底本の是非を見定めたうえで初めて,その立説の是非を判断することができる.……底本とは何か? 著者の稿本である.立説とは何か? 著者の述べる義理である.……故に経書を校勘するには,必ず賈の物を賈に返し,孔の物を孔に返し,陸の物を陸に返し,杜の物を杜に返し,鄭の物を鄭に返し,それぞれの基づいた底本をはっきりさせなければならない.……


……段玉裁は,経書の校勘の難しい点は,注疏をつけた人たちが注疏の対象とした経典の本文そのものがどんな文字や語句であったのか,そしてそれについてどのような義理を述べているのか,を分析弁別することに在る,と考えており,そのため,まず最初に「以賈還賈」,つまり賈公彦なら賈公彦の注疏を本来の姿に復元して初めて,その是非を判断することができると説いています.



First ascertain the reading of the mula-text that the commentator presupposes (which might be different from the original reading of the mula-text, and which one may not easily notice due to hypercorrection by a later editor of the commentary).

Only then one can judge the value of the commentator's discussion of the contents of the mula-text.

Return the commentator's reading to himself.
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  1. 2013/02/02(土) 18:52:30|
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