Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

古典の読書の意義

橋本さんは『校勘学講義』の日本語版前書きにおいて,現代の新聞や小説を読むことと,古典を読むことの違いを分かりやすく説明してくれています.


現代の新聞や小説が,殆ど無意識のうちに理解されるのは,それが我々の日常生活の中に充満している言葉の世界の一部分を指示するものに過ぎないからである.従って,そのような読書によって私たちは知識を増やし,その知識の刺激の下に思考を進めることは出来ても,読書の行為そのものを通して自らの精神世界の基本構造が変革されていくことは期待出来ない.古籍の理解が困難であるのは,そこに書かれた言葉が我々から遠く離れたものだからである.この遠く離れた言葉を理解しようという願望が,私たちの精神構造そのものを変革していく.(橋本(訳)『校勘学講義』1頁)



現代の新聞をいくら読んでも,自分自身が変わることは期待できないということです.

同時代人である以上,相手が前提としている枠組みは自分のものと同じなので,単に,情報が新たに加えられるだけで,自分の精神世界の枠組みの変更を迫るような深刻な事態にはいたりません.

そんなわけで,気楽に流し読みできたりするわけです.

しかし,古典となると,そうはいきません.

相手は大昔の人です.

一行を読んで理解し,納得するのにも,結構な時間がかかったりします.

時に,その表現や発想は,現代のわれわれからすると,理解しがたいところがあったりします.

古典の偉大なところは,遠く離れた昔の難しい,われわれ現代人には理解しがたいものを無理やりに読むことで,自分自身を変えていくことに在ります.

橋本さんは,続けて,それをパソコンのシステム更新に喩えています.


パソコンに譬えを取れば,新聞・雑誌を読むことはデータを取り込んで保存することに過ぎないが,古籍を読むことはシステムを更新していくことである.(同上 1頁)



目先の分かりやすい情報を追うことがアップデートではなくて,古典から学び,咀嚼を通して自身の理解の枠組みや精神構造そのものを変革していくことが,真のアップデートと言えることになります.

たったの一行を読むのに1時間も2時間もかかって,しかも,なんとか形は訳したけど,結局,その意味するところが分からないという,学部3年生のころの図書館でのランマンの予習を思い出しました.(先生は,ランマン指導30年の原先生.しかも,ちょうど退官される最後の年でした.)

それに比べると,1年生の時に受けた田中先生のヒンディー語は,「空港での会話」「駅での会話」「ホテルでの会話」などが例文で,すいすいと分かるので楽しかったのを覚えています.

現代物ですから分かりやすいはずです.

なぜサンスクリットがあんなに難しいのか,現代語なら1年で読めるようになるところを,なぜ3年も唸らねば一人で読めるようにならないのか.

その理由は,単に,語彙や文法や構文のややこしさだけではない,ということです.

7つも格があって,しかも,男性女性中性があって,というような,文法の煩雑さだけではない,ということです.

古典の読解に必要な隠れたる前提知識が余りにも多いということ,そして,それが,まさに自分の精神世界の枠組み・システムそのものの変更を迫るようなものであったからでした.

学ぶのは楽じゃない,のでした.(もっとも,孔子は「よろこばしからずや」と言ってますが.)
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  1. 2013/02/02(土) 20:32:50|
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