Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

文献学は科学か?

文献の解釈が一種の信念であり,賭けのようなものであるということを橋本さんは次のように述べています.

…あらゆる事情を考慮した上で、可能性がどんなに小さいと言われても、自分はその可能性を信じる、という人がいた場合に、他人は彼の判断を誤りだと言う権利を持たない。人間そうやって生きているのだが、古典の解釈というのもまたそんなものである。表面的な指標だけを頼りに、客観的に計算できる蓋然性だけを信じて生きるのは、全くつまらない人間だと思う。古典解釈に客観的で厳密な科学的方法がある、などというのは、同じようにつまらない妄想であるし、……(橋本秀美『『論語』心の鏡』164頁)



文献学が科学とは違う,ということを,ハウスマンは次のように述べていました.

Secondly, textual criticism is not a branch of mathematics, not indeed an exact science at all. ... It therefore is not susceptible of hard-and-fast rules. It would be much easier if it were; and that is why people try to pretend that it is, or at least behave as if they thought so. ... A textual critic engaged upon his business is not at all like Newton investigating the motions of the planets: he is much more like a dog hunting for fleas. If a dog hunted for fleas on mathematical principles, basing his researches on statistics of area and population, he would never catch a flea except by accident. (A.E. Housman: Collected Poems and Selected Prose, 325-326)



写本や用例をチェックする前でも,この解釈は正しそうだ,正しくなさそうだ,この解決方法はいける,これはいけなさそうだ,という一種の勘(それは長年の経験から来る総合的な判断・信念ですが)が働くようになるのを感じます.

そして,実際に写本をチェックしたり,パソコンで用例を網羅的に見ることで,自身の判断について,やはり正しそうだ,あるいは違う,というフィードバックを図ることができます.

文献学者が獲物を探す猟犬に喩えられているように,嗅覚を鍛える,とでも言った方がいいのかもしれません.

したがって,解釈や判断というのは,これまでの経験の全てを用いた,まさに賭けということになります.

だとすると、嗅覚を鍛えるための訓練が、どのような形を取るかも理解できます。

それが、ブロイラー飼育のような効率性重視の工場の中から生まれ得ないのは、当然かもしれません。
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  1. 2013/03/12(火) 07:40:23|
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