Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

Saṃkṣepaśārīrakam 1:7

本邦ではサルヴァジュニャアートマンの研究もなかなかないので,貴重な研究です.

このような貴重な成果がネットで簡単に見られるのは非常に助かります.

佐竹正行 2004
『サルヴァジュニャートマンの不二一元論思想―シャンカラとの比較を通して―』
博士論文(東洋大学)
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しかしながら,サンスクリット語のローマ字転写の方式は,現在の学界では全く一般的でないものです.

それは単語(特に合成語の中身)の切り方をめぐるものです.

著者のテクスト引用と和訳は以下の通りです.

p. 29
vaktāram āsādya yam eva nityā sarasvatī svārtha samanvitā āsīt|
nirasta dustarka kalaṅka paṅkā namāmi taṃ śaṅkaram arcita aṅghrim|| (SŚ I,7)

誤った見解や汚れ、泥を破壊する永遠の知識の本来の意味を発見した解釈者である、聖なるシャンカラを、私は心から尊敬し、彼の足下に敬礼する。



外連声までも切り離してしまうと詩節の韻律(upendravajrā)が乱れてしまいます.

また,合成語の中まで含めて,すべての単語をぶつぶつと切ってしまう著者の切り方では,どの単語が合成語なのか全く見分けが付かなくなってしまいます.

通常であれば,次のようにローマ字転写すべきものです.

vaktāram āsādya yam eva nityā
sarasvatī svārthasamanvitāsīt/
nirastadustarkakalaṅkapaṅkā
namāmi taṃ śaṅkaram arcitāṅghrim// (SŚ I,7)



和訳の問題点は数多くあります.

まず,namāmi taṃ śaṅkaramが主文です.

すなわち「(私は)敬礼する,彼を,シャンカラを」ですから,「かのシャンカラに敬礼する」となります.

しかし,著者は,taṃ śaṅkaram arcitaと取ったようです.

そして,それを「聖なるシャンカラを、私は心から尊敬し」と訳出します.

もちろん,構文的にこれは不可能です.(著者は,表記だけでなく,解釈においても,arcita aṅghrimと切って解釈していることになります.)

arcitāṅghrimは,シャンカラに係るバフヴリーヒの形容句であり,「崇められた足を持つ[シャンカラ]に」となります.

taṃ śaṅkaram arcitaを「聖なるシャンカラを、私は心から尊敬し」と解釈した以上,著者は,残りのnamāmi ... aṅghrimを「彼の足下に敬礼する」と訳出することになります.

既に述べたように,arcitāṅghrimは合成語ですから,このような切り離し方は不可能です.

なお,ラーマティールタによる注釈がbrahmavidyārthibhiḥ(梵知を求める者達)としているように,ここで,足を崇める主体としては,学生・弟子達が想定されています.

すなわち,学生たちによって足下に平伏されているシャンカラに私は敬礼するという意味になります.

以上から分かるように,著者は,ぶつぶつと単語を切り離した結果,表記のみならず構文解釈においても,無理な切り方と結び付け方をしていることになります.

nirasta-dustarka-kalaṅka-paṅkāを著者は「誤った見解や汚れ、泥を破壊する」としていますが,これも,注釈が素直にそう解釈するように,dustarkaというkalaṅkaからなるpaṅkaがnirastaされた,というように取るのが普通です.

全体としてのこのバフヴリーヒはサラスヴァティーに係っていますが「泥を破壊する永遠の知識」では意味が通じません.

「泥が取り除かれたサラスヴァティー河」という意味になるはずです.

すなわち「悪しき思弁という染みからなる泥が[シャンカラによって]取り除かれた」という意味になります.

nityā sarasvatīを著者は「永遠の知識」としていますが,サラスヴァティーは,サラスヴァティー河であり,流麗に流れる言葉の女神,弁才天です.(ここで,河と泥とは縁語になります.)

常住な言葉ですから,ヴェーダを指すことになります.

注釈もvedaと特定しています.

āsādyaを著者は「発見した」と訳しているようです.(この場合,samanvitaに相当する和訳がないことになります.)

まずこの単語の意味は単純に「得てから」です.

「得てから」は何らかの行為対象を必要としますが,それは,ここでは直前のvaktāramです.

したがって,構文全体は「[シャンカラという]語り手(解説者)を得てから」ということになります.

すると,このgerundの「~してから」の意味も生きてきます.

すなわち,シャンカラという解説者を得ることで,サラスヴァティー河が濁りを離れたということです.

濁りが無くなって,その本来の意味が明らかになった,というような趣意となります.

全体として次のような意味になるはずです.

常住なサラスヴァティー河という言葉[すなわちヴェーダ]が,他ならぬ彼という解説者を得て,悪しき思弁という染みからなる泥を取り除かれ,その本来の意味を具えたものとなった.その足が崇められた彼シャンカラに私は敬礼する.



ローマ字転写は,単に表記の問題でなく,解釈にも密接にも関わりますから,やはり疎かにできません.

サンスクリット語での詩節というと,格関係がはっきりしているので,離れている単語でも自由に結びつけて解釈していいかのように思われがちですが,実際には,いい詩節は,ナチュラルな語順というのを持っています.

ここでも,パーダa句のvaktāram āsādyaや,パーダd句のnamāmi taṃ śaṅkaramは,つながりを保って表現されています.

詩というのは(前から順番に)耳で聞いて分かるようにできていますから,当然といえば当然です.

徐々に意味があらわになる謎解きを楽しむのであれば,語順も気にしながら理解する必要があります.

語順に沿って直訳すると次のようになります.


かの話者を得てから,常住な

サラスヴァティー河は,自らの意味を備えたものとなった

悪しき思弁の染みなる泥を離れた

彼シャンカラに敬礼す,その御足が崇められたところの



辻直四郎風に訳出すると以下のような感じでしょうか.

彼を得てより永久(とこしえ)の

弁才の河 本義を具備せり

詭弁の瑕疵の泥離れつつ

敬礼す,かのシャンカラに

御足も平伏されしかの者に

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  1. 2013/06/26(水) 08:00:45|
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