Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

ヂャイナ僧を訪ねる

九大文学部同窓会報7(1964年),42-43頁に,伊原先生が寄稿されています.

タイトルは「ヂャイナ僧を訪ねる」.

非常に興味深い文章なので,長くなりますが,全文を引用してみましょう.


ヂャイナ僧を訪ねる

                   伊原照蓮

 五年ほど前の八月のある朝私は西北インドのサウラーシュトラ半島のバヴナガルの駅に降りた。ここは支線の終着駅でさいはての町,降りる人もまばらである。かねての約束どおりヂャイナ僧ヂャムブヴィヂャヤ師からの使いが出迎えてくれていた。ドーティ姿の裸足の男である。私は朝食を摂っていなかったので、その男と共に駅の待合室に入った。朝食はボムベイより持参のゆで卵と果物である。私がゆで卵を包みよりとり出して割ろうとすると、いままで側でお喋りしていたその男が、急にお喋りをやめてふいと,外に出ていってしまった。なにか急に要事でも思い出したのであろうとその時は気にもしなかったが、食事をおえて室を出ると、室の外をその男がぶらぶら歩いている。私の顔を見ると、お前は卵を喰べるのか,と詰問口調である。私はハッとした。ヂャムブヴィヂャヤ師からの使いとしてきたぐらいだから,この男もヂャイナ教徒にちがいない。ヂャイナ教徒は不殺生をもっとも尊ぶ。食事はすべて菜食である。もっとも印度では菜食はヂャイナ教徒にかぎらない。インド教徒はvegetarianとnon-vegetarianとにはっきり区別されている。後者では羊肉や卵を使った料理を出す。私もあの暑いところで、野菜ばかりでは身体が保たないから、non-vegetarian食堂へ行ってよく卵を喰べた。私のそれまで附合ったインド人も、卵ぐらいはみな平気で喰べた。それに慣れていたのでヂャムブヴィヂャヤ師の使いの前でついうっかり卵を喰べてしまったのである。使いの男が、卵を食べたことを詰問したのは、なにも主義主張からではない。もっと生理的なものだ。いかにも、お! 気味がわるい、と感じていることがその態度から知れる。これでは、この男からヂ師への報告はあまりよくないな、と覚悟する。
 目指す村は、ここからバスで二時間、沙漠地帯のはずれにある。岩塩で生計をたてているところらしい。丁度雨期で、ヂャムブヴィヂャヤ師がその村に滞在しているのだ。使いの男はそれでも気持ちよく私の荷物を持ったり、いろいろと世話をしてくれる。少しお喋りだが、気は良い男のようだ。お前の宿は、村で一番の医者の家にきめてあるという。やがてバスはその村に着く。
 私は荷物を置くと村一番のインテリでもあるその医者につれられて早速ヂャムブヴィヂャヤ師に逢いに行った。師は年の頃四十才ぐらい、細面やせ形の、いかにも聡明といった感じの人である。白衣を着、勿論裸足、左手にはガーゼのようなものを持って話すときには口をおおい、左手には小型の草箒ようのものを持っている。前者は息を吸うときに空中の微生物が鼻や口に入るのを防ぐためのもの、後者は歩くときに掃いて地面の微生物を踏みつぶさないようにするためのもの、共に不殺生のためのものだ。あとから小柄の老僧が現われる。この老僧は師の父でありまた学問上の先生でもあるとのこと。このときこのかなり広い白亜の僧院に留まっていたのはこの両人だけ、他には誰もいない。食事は毎朝乞食(コツジキ)に出かけて村人の布施をうけてすますし、洗濯などは村の信者達が世話してくれるのであろう。生活は簡素そのものだ。もっとも僧院の二階には書庫があり、ヂャイナ教の大蔵経がぎっしり左右両壁に沿った棚に積み上げられている。また教祖マハーヴィーラを祀った礼拝堂は別棟である。夕方のそこでの勤行に出てみたが、結跏趺坐・五体投地など仏教の場合とまったく同じだ。堂内は薄暗く、尊像は毒々しい彩色で少しグロテスクな感じを与える。
 ヂャムブヴィヂャヤ師を私が訪ねたのはヂャイナ教そのものに関心があったからではない。後期ヂャイナ教と後期仏教との間には交渉があった。ヂャイナ教で仏教の論書に註釈を書いた人もいる。仏教教団はインド国内では滅亡してしまったが、ヂャイナ教団は今日まで連綿とつづいている。だからヂャイナの僧院には仏教の写本が保存されている可能性があるし、事実最近その二、三のものが発見された。その間の事情、今後の見通しなどを知りたいというのが私の目的だ。私のこの希望は、ここでは充分満たされなかった。ヂ師自身必ずしもその間の事情をよく知っているわけではなかったから。ヂ師は私に他のヂャイナ僧への紹介状を書いてくれた。
 翌日ヂ師は村の人々を僧院に集めて説教をした。その中で私への歓迎の言葉ものべてくれた。仏教とヂャイナ教は兄弟のようなものだともいった。私のために、代々の祖師を讃歎する歌もうたってくれた。少しかすれた豊かなバスが単調なメロディを繰り返えす。それが広くもない会堂に響きわたる。白一色の聴衆は半ばその歌に耳を傾け、半ば日本人の顔を物珍しげに眺めている。いまでもその光景が目に浮ぶ。
 その日の午後私はヂ師に難題をもちかけられた。折角ヂャイナの僧院を訪ねたのだからこの機会にヂ師の父を戒師として不殺生の誓いをたてろという。私はヂャイナ教の論理学に興味を感ずるとはいった。機会があればそれを勉強したいと思うともいった。しかしヂャイナそのものに別に感服したといったわけでもなし、私が歴とした仏教徒であることはヂ師に予め告げてある。にもかかわらずヂ師はインド人特有のあのねばっこい調子で迫ってくる。おさしみ・うなぎ等々日本での食べものが私の頭にひらめく。インドにいるかぎりは菜食主義も不可能ではなかろうが、日本に帰ってからの菜食主義の実行は私にはできない相談だ。今ここで誓いをたてるのは簡単だが、日本に帰った後は実行不可能だ。誓いを破るよりは誓いをたてない方がましだから、好意は謝するが、と断る。ヂ師はやや不服そうにみえた。私はそこに活きたヂャイナ教を見た思いがした。
 夕刻庭でヂ父子の写真を撮り僧院を辞した。そしてその翌日その村を発った。

ヂ師よりの便りによれば昨年同師の父のあの老僧はなくなった.父の写真が一枚もないゆえ、私の撮った写真を送ってくれという。私は航空便でそれを送った。謹んで老僧の冥福を祈る。
(助教授・印度哲学)



「五年ほど前」といっているのは,1958年のことでしょう.

伊原照蓮(1920年3月25日~2012年1月29日)先生は、1944年東北帝国大学法文学部文科印度学科卒業,1951年九州大学講師,1954年に助教授となっています.

そして、1955年の干潟教授の退官後,「1956年8月より1958年7月までハーバード大学およびインドに出張」(伊原照蓮博士古稀記念論文集)とありますから,実際には,1958年8月までインドにいたのでしょう.

件のジャンブーヴィジャヤ師には、私も、2001年の夏に会うことができました。

http://kaula.blog110.fc2.com/blog-entry-845.html

同行のK先生は、仏教僧でありながら非菜食であることについて、師より説教されていたそうです。
スポンサーサイト
  1. 2013/08/02(金) 21:32:06|
  2. 未分類

プロフィール

Aghora

Author:Aghora

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する