Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

伊原・松濤・戸崎時代

1951年には,伊原照蓮(1920年3月25日~2012年1月29日)が九州大学講師として着任,1954年には助教授となる.

1958年,松濤誠廉(1903--1979年11月10日)が第二代の主任教授として大正大学より赴任.松濤は1930年東京帝国大学文学部印度哲学梵文学科卒業,同年より1935年までハンブルク大学に留学,W. Schubring教授の許でインド学,特にジャイナ教について研究した.帰国後,東京帝国大学附属図書館において同館所蔵高楠順次郎・河口慧海将来の梵文写本を調査,1944年,その目録を完成した.1965年にA catalogue of the Sanskrit manuscripts in the Tokyo University Library, comp. by Seiren Matunami(東京大学図書館所蔵梵文冩本目録)として鈴木学術財団より出版された.松濤はサンスクリット,アルダマーガディー等の語学力を駆使し,ジャイナ教,インド文学,パーリ仏教,大乗仏教特に華厳・天台等,幅広く研究を進める.「六師外道の思想精神」(世界精神史講座第3巻,1940年),「耆那教に現れたる十二因縁類型」(仏教論叢第1輯,1947年),「瑜伽行派の祖としての馬鳴」(大正大学研究紀要第39輯,1954年),「馬鳴著端正なる難陀」(大正大学研究紀要42,1957年),「Saundaranandaに現れたSabdalamkara」(中野教授古稀記念論文集所収,1960年),Buddhistic Variants of two Portions of the Isibhasiyaim(印度学仏教学研究9-2,1961年)がある.毎夏,富士裾野般若道場に於て自ら坐禅を行っていた.福岡周辺の山々に登るのを趣味とし,1960年には研究室でも雷山千如寺に遠足している.また,学生が仏教を学びながら仏教を知らないことにならない様にとの配慮から,1964年12月には,聖福寺に於いて研究室一同で坐禅を行っている.茶器,花瓶等の蒐集にも熱心で,研究室の図書の間に,唐津・高取はもちろん,中国・朝鮮等の古窯陶磁器が風趣を添えていた.1966年退官の際の最終講義の講題は「解脱の人格」である.1967年に松濤誠廉著『仏教における信と行』(松濤誠廉教授九大定年退官記念論文集)が平楽寺書店より出版されている.

伊原照蓮は,1944年東北帝国大学法文学部文科印度学科卒業,1951年九州大学講師,1954年に助教授となる.1955年の干潟の退官後,1956年8月より1958年7月までハーバード大学およびインドに出張.東北大学の恩師である金倉円照の学風を継ぎインドの論理学を専門とすると共に,言語哲学にも研究領域を拡げる.『ニヤーヤシッダーンタ・ムクターヴァリー』『ブラフマスートラ・シャンカラ注』『ラグシッダーンタ・カウムディー』『サーヒティヤダルパナ』『マハーバーシャ』『ガンダヴューハ』等を演習で読む.

この時期,院生のインド留学は盛んで,戸崎宏正がナーランダ(1955--1958),高原信一がデカン・カレッジ(1959年--1961年),篠田正成がナーランダ(1965--1968),花木泰堅がヴァイシャーリー(1966年--1968年),奥田真隆がBHU(1968年--1970年)にそれぞれ留学している.奥田の一カ月の奨学金は月に300ルピー(約15000円)であった.1967年,九大山岳部ヒマラヤ遠征の予備調査の後,インド・パキスタン留学中の篠田・花木両先輩を訪ねた西野英世(大学院博士課程)は,1968年7月20日に前穂高で落石という不慮の事故の為逝去している.

伊原は1967年教授となる.前後する時期の助手として,高原信一(?--1959),戸崎宏正(1961--1964),篠田正成(1964--1965),戸田宏文(1965--1968),高原信一(1968--1969),篠田正成(1969--1970),長尾陸司(1970--1972),針貝邦生(1972--1976),奥田真隆(1976--1980)がいる.

戸崎宏正(1930年1月20日生)は,1953年九州大学文学部哲学科(インド哲学史専攻)卒業,同大学院修士課程(インド哲学仏教史専攻)修了(1955年),同博士課程に進学後,1955年7月より1958年8月まで,ナーランダ仏教研究所に留学,仏教論理学を学ぶ.1961年より1964年まで九州大学文学部助手を務める.1965年に筑紫女学園短期大学助教授となり,1966年に『法称の研究』により文学博士(甲種)を九州大学より授与される.これは文学部新制博士第一号である.1970年より1977年まで九州大学文学部の非常勤講師としてカーリダーサ作『ヴィクラマ・ウルヴァシーヤ』,ハルシャ作『ラトナーヴァリー』等を演習で読む.なお1972年10月,印哲講座は,初の女性進学者(後藤ゆかり)を迎えている.1973年5月には,日本印度学仏教学会の学術大会開催校となっている.1973年11月,戸崎は,干潟の校訂本に基づき,善勇猛般若経の和訳を出版している(中央公論社『大乗仏典』第1巻所収).1974年6月,干潟は,永年住んだ妙楽寺から太宰府の筑紫女学園短大学長官舎に居を移す.戸崎は,1974年10月より1975年2月までハーバード大学に留学.1975年には波多江輝子・博子(1986年1月8日逝去)の両姉妹と中川正法が進学している.1976年7月3日,干潟も参加し,干潟揮毫の万葉の歌碑(志賀島小学校庭の八号石)を研究室総勢14名で訪ねている.
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  1. 2013/08/04(日) 09:08:57|
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