Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

Bhāvavivekaの聖典観

江島恵教
Bhāvavivekaの聖典観
印仏研 17-2(1969), 894--889

893頁:
Mīmāṃsā学派はVedaを絶対的権威とするのであり,推論を一応知識根拠として認めはするが,推論は聖典の裏づけなくしてそれだけで独立の権威ではありえないとする。少くともBhāvavivekaが問題とするMīmāṃsā学派はそういう考えをもっていた。(旧字は新字に改めた.)


「推論は聖典の裏づけなくしてそれだけで独立の権威ではありえない」というのは,「宗教的事象であるダルマに関しては」という限定をつけるべきでしょう.知覚領域・経験的事象に関しても,推論は,独立した権威ではありえません.知覚を前提とするものだからです.煙から火を推論する場合,竈での体験や,山の上に立ち昇る煙の目撃体験という二つの知覚は少なくとも必要です.その意味で推論は「独立の権威」ではありえません.また,ダルマに関して,独立した権威であるのはヴェーダのみであり,スムリティなどは元となるヴェーダを推論させるものとして,原則的には,二次的な位置付けしか与えられません.

聖典観について論じる際には,扱う対象が何なのかということを意識しないといけません.「一応知識根拠として認めはするが,推論は聖典の裏づけなくしてそれだけで独立の権威ではありえない」という部分に,通常のミーマーンサー学説との違和感を覚えたのでしょう,「少くとも」と江島先生は補足しています.

しかし,知覚とヴェーダが一次的な情報源であり,推論が一次的情報源に基づくものである(特に知覚に基づくものであるpratyakṣapūrvaka)という基本的性格に関して,バーヴィヴェーカ以前と以後のミーマーンサー学説で大きな違いがあるわけではありません.

ミーマーンサー学説によれば,ダルマに関して人間の思弁は,一次的情報源たりえません.扱う対象に応じて認識手段には住み分けがあります.ダルマを知るにはヴェーダだけが直接の認識手段となります.「Vedaを絶対的権威とする」というのも,あくまでも,ダルマに関してです.日常の経験領域に関しては,知覚が一次情報源となることは,ミーマーンサー学者ももちろん認めています.
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  1. 2013/11/15(金) 18:20:21|
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