Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

未来は現在の中にある


久々の桂研。

今回のテキストはヨーガスートラです。

あのヨーガの根本経典。

その注釈の注釈の研究です。

ヨーガ経に対してはヴィヤーサのヨーガ注という注釈があります。

さらにそれに対してシャンカラのヨーガスートラ注詳解という復注釈があります。

今回読んだテキストはこの復注釈でした。

ヨーガ行者の院生がマラヤラム写本をチェックして苦労して準備したテキストをもとに、みなで読み進めます。

かなり難解です。

テキストの読みが怪しい箇所もいくつもあります。

ああでもないこうでもないといろいろな想像をしながら読み進めなければいけません。

議論は三世実有について。

未来現在過去が実在するという話です。

ヨーガの議論は仏教の議論から多くをとっています。

ヴィヤーサとシャンカラはアビダルマの議論から多くをとってきているわけです。

現在のものが実在するというのは当然として、では過去と未来のものが実在するという事は、どうしていえるのでしょうか。

認識論的な理由と倫理的な理由との2つが主な理由となります。

我々が持ってる正しい認識には必ず対応する対象が実在として存在します。

壺の認識に対応して目の前に壺があります。

同様に考えると、未来のものや過去のものの認識に対応して、未来のものや過去のものが実在すると言えることになります。

認識論的な素朴実在論の立場から未来も過去もあるといえるのです。

また業の理論を前提とするとき、未来も過去も実在しないとすると倫理的には困ったことになってしまいます。

祭式をするのは天界を目指してです。

未来のものである天界がもし実在しないのならば、祭式する意味は全くないということになってしまいます。

ヨーガ学派はサーンキヤ学派の因中有果論に立ちます。

原因の中に結果はすでにあるという立場です。

粘土の中に既に壺は実在するし、また、ミルクの中に既にヨーグルトは実在すると考えます。

現在の物の中にすでに未来のものは実在すると考えるわけです。

より正確に言うならば、素材となるモノは常に存在し、その見た目が変化するだけです。

毎日違う服を着ていても私が同じであるのと同様です。

未来現在過去と言うのは単なる相の違いに過ぎません。

見た目は変化するけど、モノとして全く新たなものが生じてくるわけではありません。

変容すれども生起せず。

存在しなかったものが新たに生まれてくるということもないですし、存在するものがなくなるということもないわけです。

しかしそうだとするとヨーガ的には困ったことになってしまいます。

心の中に堆積していく潜在的な影響力であるヴァーサナーは、さまざまな行為の結果として我われの中にあります。

それを完全になくさないことには解脱は不可能です。

しかしサーンキヤとヨーガの理論においては、何かが完全になくなるという事は理論上ありえません。

したがって、心の中に堆積していく潜在的な影響力の無化についてはまたあれこれと議論する必要があるわけです。

あっちを立てるとこちらが立たず、こっちを立てるとあっちが立たず、理論家の苦労は絶えません。


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  1. 2014/02/15(土) 09:32:31|
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