Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

スポーツ選手と研究者

「メダルを噛むな」や「メダルを取れなかったくせにへらへらするな」と言う人がいたとして,その人の発想は,どこに一貫性があるのでしょうか.

いったい,どのような思考過程を経て,上のような発言が生じてくるのでしょうか.

基本的な構造としては,「国が金を出しているからメダルを取って当然」「取れないやつは税金投入の無駄」「取れないなら,せめて申し訳なくしろ」という保守的な考え方があるでしょう.

国家→スポーツ選手→メダル→国威発揚


という構造です.

ネズミも取れない役立たずの猫がのうのうと昼寝しているのを見て腹立てるのと同じ構図です.

ここでは,メダル獲得に主眼があります.

スポーツ選手それぞれが,どのような人生を送ってきたのか,どのような困難を抱えているのか,その顔つきや性格は無視されます.

大事なのは,メダル獲得マシンとしての,道具的人間です.

スポーツ選手個人個人がどのようであるか,また,選手のこれまでの人生での修養がどのようにして大舞台で発揮されるのか,そういった個々人の事情や人格は無視されます.

大事なのは,メダルの数です.

したがって,選手の極めて個人的な人格の発露であるメダルを噛むという自由な行為は慎まねばならないことになります.

白い歯を見せて笑う,というのは個性を持った人間の自由な感情の発露だからです.

そのような個人の自由な行動は許されないのです.

そこに「人間」が存在してはならないのです.

工事現場の交通整理のおじさんが,個性を発揮して,新体操のリボンで楽しそうに交通整理をしだしたら,「いらんことするな」と,工事会社のお偉方は怒るでしょう.

そこでは仏頂面で淡々と仕事をする交通整理マシーンが求められているのです.

国家に奉仕すればいいのです.




逆に,「噛もうがどうしようが選手個人の勝手でしょう」というリベラルな人は,個人を大事にします.

そこでは,国家の影は限りなく薄くなります.

大事なのは個人です.

また,メダルという「成果」も第一義的に重要,というわけではありません.

それは,あくまでも,日々の訓練を充実させるための一つの目標点でしかありません.

もちろんそこにおいても,メダルや,それを通じた国威の発揚という「成果」を否定するわけではありません.

しかし,それはあくまでも,後から付いてくるものにすぎないのです.

メダルの獲得が全てを正当化することはないのです.

また,メダルの無い事が全て(例えば選手のこれまでの努力)を否定することもありません.

大事なのは,メダルの数ではなく,選手の人格の発露ということになります.

過去→現在


優れたスポーツ選手というのは,また,個性的であります.

国家に強制されて取り組んでいるわけではありません.

高い目標に耐え、自己の能力を不断に高めていくためには,自発性や志を高める必要があります.

それは,自分自身の中からしか出てきません.

補助金があるとしても,それは,あくまでも,自発性や自分のやる気を高めるのに間接的に資するのであって,直接に補助金が頑張らせるわけではありません.

どちらの思考モデルが経験的に優れているかと問われれば,スポーツ選手は後者だと答えるでしょう.

金がなければ一流のスポーツ選手は育ちません.

が,だからといって,金を与えたからといって国家の強制で個人の力が伸びるわけではないのです.

重要なのは個人が個人として力を発揮することで,国家はそれをサポートするに留まります.

金で雇った傭兵部隊と,愛国に燃える国民軍のどちらが強いか,というのも似たようなものです.

個人個人の志の高い低いが結果を左右します.




同じ構造は,昨今の大学にも見られます.

保守派の見方は次のようなものです.

国家→研究者→発明・発見→富国・国威発揚


「税金を投入しているのだから,発明して特許とって,国富を増やせ」というわけです.

研究者一人一人がどのようであるかはどうでもいいことです.

そこに求められているのは道具的人間です.

いっぽう,リベラルな見方は,研究者個人の自由な発想と取り組みを重視します.

成果を否定するわけではありませんが,それは,あくまでも,後から付いてくるものです.

真理探究が第一義であって,金になる応用ということは第二義的な位置しか持たないのです.

要するに,自分が面白いと思うから徹底して取り組むのであって,研究成果が金になるかどうかということは,研究者個人にとっては,第二義的な価値しか持ちません.

どちらの思考モデルが,最終的に優れた研究成果を生み出すことに資するのでしょうか.

これまでの研究によれば,研究者個人個人の取り組みを広くサポートするしかないようです.

ノーベル賞級の重要な発見・発明をすることになる研究者も,その研究の初期においては,驚くほど僅かな金額の科学研究費を貰って,細々と研究をしています.

最初から,あちこち派手に助成金をもらっていたスター選手というわけではないのです.

スポーツと違って,学問の場合,どの研究者が化けるか,ということは,もっと分かりません.

研究の初期から目を付けて,そこに補助金を集中させる,ということは,学問の世界ではほぼ不可能です.

つまり,どこにダイヤの原石が隠れているかということは,身体能力が目に見えるスポーツよりも,もっと分かりにくいのです.

何億という金が集中するのは,ノーベル賞級の研究者でも,相当後になってからです.

どこに何が隠れているか分からないのですから,広く薄く芽を育てる必要があります.

十年も二十年も経ってからようやく成果が出るかどうか,しかも,それも決して確かではないような研究に補助金を広く出せるのは国くらいでしょう.

野菜であれば,最初から間引きして,一部に栄養を集中させるほうが得策です.

しかし,研究において,そのような初期からの資源集中は,最終的には不利な結果をもたらすことになります.

スポーツでも研究でも,成果を拙速に求める余り,逆に成果から遠ざかるという現象が生じうるのです.




沙漠化した荒れ地に緑を復活させるのに,どうしたら一番よいのか,というのを思い出しました.

予めいろいろ考えて厳選した一部の種を植える,というやり方が最も効率的に思えます.

しかし,そうではありません.

とりあえず,あれこれの種をまぜたものを,ばーっと,適当に蒔きます.

そして,その場所その土地にあったものが生えてきたのを大事にするという考え方のほうがうまくいくのです.

生えてこなかった種は無駄ということになります.

しかし,その土地に何が適しているかということは,最初から分かるわけではないのです.

やってみて,あとから対処・対応する.

そういうフィードバックの学習システムが重要です.

「カイゼン」というのはボトムアップの学習システムだったはずですが,なぜか昨今の大学では,トップダウンの変革や資源集中が重視されます.

シビアな国際競争の中での意思決定の迅速化ということのようです。

が、神ならぬ身の人間が、未来を予測して完璧な計画など立てられるのでしょうか。

一昔前のインド社会主義の計画経済みたいなことになりはしないのでしょうか。

地味にカイゼンを続けることは,あまり派手ではありませんし耳目を引くものでもありません.

また,税金投入を正当化するためにも,「一所懸命やってます」「変革してます」というポーズが必要となります。

株主にアピールするため,企業があれこれ派手な変革を打つのと同じです.

しかし,長い目で見て本当に成果を生み出すのはどういう行動なのか,よくよく考える必要があります.

スポーツ選手がメダルをもたらす機械ではなく個性をもった人間であり、まさに個性をもった人間として高い目標に到達しうるのと同様、研究者が国家という会社の道具ではなく、個性をもった一人の人間であり、まさに、そのような個人として独創的な成果をもたらすということを考える必要があるでしょう。
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  1. 2014/03/01(土) 00:40:29|
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