Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

己自身を知れという命令の無駄

「天界を望む者は祭れ」という命令を理解するというのは、単に、文意を理解するに留まりません。

文意を理解し、すなわち、祭式から天界が生じるということを理解し、さらにそうして理解した祭式行為を実際に行って初めて聞き手は、命令を理解したことになります。

命令→意味理解→発動→果報(天界)

同じように考えると「(解脱を望む者は)アートマンを知れ」というように、ウパニシャッドを、アートマン認識という行為を命令する文として理解できることになります。

命令→意味理解→発動→果報(解脱)

しかし、これは奇妙なことになります。

命令→意味理解→アートマン認識

ウパニシャッドの文の理解がそのままアートマンの真実の理解だからです。

意味理解をすることと別にアートマン認識を行う必要はないのです。

命令→文意理解=アートマン認識

すなわち、祭式命令と違い、アートマン認識を目指すウパニシャッドの場合、文意理解の上に更に上位の目的があるわけではなく、文意理解がそのままアートマン認識という目標そのものなのです。

祭式行為を理解しただけで実行しない人は、本当の意味で命令を理解したことにはなりません。

しかしウパニシャッドの場合、文意を理解することがそのままアートマン理解なのです。

したがって、「アートマンを知れ」という命令が別個に必要になることはありません。

ウパニシャッドの文を聞けば自動的にアートマンは理解されているのです。

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  1. 2014/03/27(木) 18:45:54|
  2. 未分類

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