Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

ダルモッタラにおける所取形象の位置づけ

「ウシ」という音を聞いた時に我々は何を認識しているのでしょうか?

言い換えるならば,「牛」という語の意味(対象)は何でしょうか?

具体的な牛という外界対象が目の前に存在せずとも,我々は,頭の中に牛を思い浮かべることができます.

そうすると,頭の中に浮かぶ牛のイメージが,「牛」という語が直接に指すものだと考えることができます.

ダルマキールティや彼に近い注釈者であるシャーキャブッディは,認識内のイメージ(ただしそれは本質的には錯誤している)を語の対象だと考えました.

分別知の対象は,認識内のイメージなのです.

牛を直接知覚すると,言葉にできない独自相が把握されます.

その時,実際に起こっているのは,外界対象が認識内に形象を投げ込む,ということです.

認識過程も,仏教では,因果関係で捉えます.

しかし,知覚の直後に生じる「これは牛だ」という判断は,そのように,外界対象からダイレクトに(間違いなく自動的に)引き起こされるようなものではありません.

知覚判断と呼ばれる思い込み・分別知には,認識者側の主体的・能動的な働きである潜在印象(過去に蓄積した習慣の力)の働きが加わっています.

したがって,それは,うまく目的を達してはくれますが,本質的に正しいものではなく,錯誤したものなのです.

この,潜在印象の働きが多分に加わった分別知の対象を,ダルマキールティやシャーキャブッディは,認識内に浮かんだイメージだと考えるわけです.

しかし,そのイメージは,間接的には外界対象とつながっています.

したがって,期待を裏切ることなく目的を達成してくれることになります.

つまり,外界との間接的なつながりがあるので,知覚の直後に生じるその「牛だ」という分別知にしたがって,牛に近づいて,乳を搾ることができるのです.


また,「牛だ」という判断が生じる時,我々は,この対象を,認識内の形象だとは思っていません.

外界対象そのものだと思い込んでいます.

すなわち,認識内形象を外界対象だと思い込んでいるのです.

認識内形象に外界対象性を載っけている(付託している)わけです.


外界対象性
  |
認識内形象


認識内形象と外界対象を「ひとつにしてしまっている」「一緒くたしてしまっている」わけです.

シャーキャブッディにとって,ダルマキールティが言うところの「思い込み」「判断」「ひとつにする」という作用は,このように,「XにYを付託する(載せる)」という付託作用に他なりません.

しかし,分別知の対象は,シャーキャブッディが考えたように,認識内のイメージだと考えていいのでしょうか?




これに不満だったのがダルモッタラです.

唯識の三性説で考え直してみましょう.

うえのシャーキャブッディの見解では,認識内のイメージは,「他によって引き起こされたもの」として,世俗レヴェルでの実在性を保証されます.

すなわち,依他起paratantraなわけです.

つまり,円成実parinispannaのように勝義的に真実ではないにせよ,因果関係の上にあるものとして,世俗レヴェルでの真実性を付与されるものです.

しかし,分別知の形象は,本当に,世俗レヴェルであるもの,因果関係上に生じてくるものと言えるのでしょうか?

つまり,認識の中に確固として実在するのでしょうか?

分別知の対象というのは,もっとあやふやな,ふわふわしたものでないのか?

これが,ダルモッタラの疑問でした.

つまり,分別知の対象は,ダルモッタラにとっては,妄想されたもの・遍計所執parikalpitaでしかありえません.

それは,でっちあげであり,虚構されたものであり,非真実のものです.

それは,認識内の形象として確固たる実在性を付与されるものではありえません.

彼にとっては,それは,認識の外にある外界対象でもなく,認識の中にあるイメージ(形象)でもありえません.

それは,「外でも内でもないもの」なのです.

ここに,ダルモッタラの虚構説が成立します.

すなわち,分別知の対象は,外にあるとも認識の中にあるともいえない,よく分からないけど,でもあるような虚構にすぎないのです.

ダルモッタラは,ダルマキールティ,シャーキャブッディ,シャーンタラクシタ系統の認識内形象説を批判しながら,彼自身の虚構説を打ち出します.

彼にとっては,分別知の対象は,認識内の形象であってはならなかったのです.




しかし,石田尚敬氏は,2013年の夏に発表され,そして,2014年に発刊された印仏研論文の中で次のように述べます.

ダルモーッタラが概念知に〈所取の形象〉や〈顕現〉を認めていることは前節で確認した.



驚きです.

これでは,ダルモッタラの主張と逆です.

ダルモッタラは,概念知に認識内イメージ(=所取の形象,顕現)を認めていないのです.

「認識(=内)でもない」と彼が冒頭偈で述べた時に意図していたのは,まさに,分別知の対象が認識それ自身の中にある形象(それは認識それ自体である)ではない,ということでした.

石田氏自身,論文冒頭で,冒頭偈を引用しています.

そして,石田氏自身,次のように述べています.

本詩節では,概念知によって描き出されるものが,知でもなく,外界対象でもないことが明言され,それは,非真実の〈虚構されたもの〉と述べられる.



ここでは,明白に,分別知の対象が認識内形象であることが,ダルモッタラによって否定されています.

そして,石田氏自身,そのことを繰り返しています.

にもかかわらず,石田氏は,「ダルモーッタラが概念知に〈所取の形象〉や〈顕現〉を認めている」と言います.

同じ主張を石田氏は次のように繰り返します.

ダルモーッタラが概念知に〈所取の形象〉と〈虚構されたもの〉という二つの要素を認めていることは本稿ではっきりと指摘しておきたい.



つまり,石田氏の理解によれば,ダルモッタラは,認識内形象と虚構されたものとの二つを概念知に認めていることになります.

私との見解の違いは明らかです.

石田理解:ダルモッタラは,分別知に,認識内形象と虚構されたものとの二つを認めている.

片岡理解:ダルモッタラは,分別知の対象として,認識内形象を否定し,虚構されたものを認めた.


石田氏のこの見解の根拠として,石田氏は,次のダルモッタラの文章を引いています.

石田氏の訳文のまま引用します.

(概念知の)〈所取の形象〉は,自己認識の対象であって,概念知の(対象)ではない.すなわち,確定されるもの,それが概念知の対象である.〈所取の形象〉は,確定されるものでないならば,それがどうして概念知の対象となろう.したがって,概念知は,〈語と結びつく対象〉を確定するけれども,それ自身については,概念化されないものである.(AP 237,28--238,1)



この部分を解説して,石田氏は次のように述べます.

ダルモーッタラによれば,〈所取の形象〉は,概念化されるものではなく,直接知覚の一種である自己認識の対象とされるべきものである.



石田氏がここで言う通り,ダルモッタラにとって,認識内形象は,自己認識の対象です.

つまり,認識内の形象も,認識それ自体ですから,認識が認識を捉えているので,自己認識となるわけです.

自己認識は,直接知覚の一種です.

したがって,それは,分別知ではありません.

ダルモッタラの意図するところは次のことです.

ダルマキールティ,シャーキャブッディ,シャーンタラクシタの言うように,認識内形象を分別知の対象と考えることは適切ではない.

なぜならば,認識内の形象は自己認識の対象であって,分別知の対象ではないからである.

認識内形象:自己認識の対象

虚構されたもの:分別知の対象



ダルモッタラにとって,分別知の対象となるのは,認識内形象ではなく虚構されたものです.

石田氏も,上に続けて次のように続けています.

ここで,「語と結びつく対象」と述べられているのは,〈虚構されたもの〉に他ならない.



語と結びつく対象,すなわち,語の意味となるのは,認識内形象ではなく虚構されたものだ,というのがダルモッタラの主張です.

ここまでは,ダルモッタラの原文が主張する通りであり,石田氏もそれを踏まえて説明しています.

しかし,以上から,石田氏は次のように続けて言います.(上で引用した部分)

ダルモーッタラが概念知に〈所取の形象〉と〈虚構されたもの〉という二つの要素を認めていることは本稿ではっきりと指摘しておきたい.



引用部分でダルモッタラが述べていたことは,所取の形象が分別知の対象ではなく自己認識の対象である,ということでした.

にもかかわらず,石田氏は,「ダルモーッタラが概念知に〈所取の形象〉...を認めている」と言います.

どういうことでしょうか?

ダルモッタラの原文を全く無視した解釈です.

ダルモッタラが「分別知の対象ではない」と述べている〈所取の形象〉を,石田氏は,「概念知の要素」と理解します.

なぜ,所取の形象を否定して,虚構されたものを,語意としてダルモッタラが立てるに至ったのか,という歴史的文脈からも,全く説明がつきません.

ともあれ,筆者との理解の相違は明らかです.

石田:ダルモーッタラは,概念知に,所取の形象と虚構されたものという二つの要素を認めている.

片岡:ダルモッタラは,分別知の対象として認識内形象を立てる先行説を批判した.そして,認識内形象ではなく,虚構されたもの(それは外界対象でもなく認識でもない)を,分別知の対象として立てた.



なお,石田氏は,所取の形象を,「概念知の要素」と述べ,「概念知の対象」とは述べていません.

つまり,石田氏は,「要素」という微妙な言い回しを用いています.

しかし,虚構されたものは明らかに概念知の対象です.

その意味では,ここでの「要素」は,「対象」と置き換えられます.

いっぽう,所取の形象については,

1.「要素」を「対象」に置き換えてよいのでしょうか?
2.あるいは置き換えられないのでしょうか?

1.もし概念知の対象であるならば,概念知は,虚構されたものと所取の形象という二つを対象とすることになってしまいます.

つまり,「牛」という言葉を聞いた時の語意認識には,あるいは,牛を知覚した後の知覚判断という分別知には,二つが別々に現れていることになってしまいます.

認識の中に在る客体としての所取形象と,それと別に,虚構されたものとです.

はたしてダルモッタラは,このようなことを意図していたのでしょうか?

2.逆に,置き換えられないとすると,どういうことになるのでしょうか.

概念知の対象ではないが,概念知の要素であるような所取の形象について,それが何なのか,石田氏は,より詳しく説明する必要があるでしょう.

概念知が持っている自己認識の対象として所取の形象が存在する,という意味で,石田氏が「要素」という言葉を用いていると理解してみましょう.

すると次のように整理できます.

概念知の要素1=概念知の自己認識の対象=所取の形象

概念知の要素2=概念知としての概念知の対象=虚構されたもの



しかし,ダルモッタラが語意論・分別知論において問題としているのは,概念知が概念知として機能するときの対象であって,概念知が自己認識として機能するときの対象ではありません.

石田氏は「要素」という微妙な言い方によって,概念知に二つの「要素」を認めたうえで,ダルモッタラが概念知の「要素」として所取の形象を認めていると言いたいことになります.

そして,これが石田氏独自の理解,ということになります.

しかし,これは,ダルモッタラの原文が意図するところとは全く異なります.

石田氏独自の理解は,ダルモッタラの原文に照らして間違いだと言わざるを得ません.

石田氏の見解によれば,いったい,ダルモッタラは,先行説の何を否定したかったことになるのでしょうか?

また,石田氏の見解のようにダルモッタラが所取の形象を概念知の要素として認めているならば,ダルモッタラの説は,先行説とどのように違うのでしょうか?(ダルモッタラの意図は,既に説明したように,認識内形象説が主張するような認識内の形象という所取形象は,自己認識の対象であって,概念知の対象ではありえない,ということでした.)

2のケースにしたがった場合の石田氏の理解によれば,牛を知覚した直後に生じる知覚判断の中に,認識内形象として概念知の自己認識の対象としての所取形象(牛のイメージ1)がまずあり,それとは別に,概念知としての概念知の対象として虚構されたもの(牛のイメージ2)がある,ということになります.

このようなナンセンスをダルモッタラがはたして意図していたのでしょうか?

しかし,石田氏は,どうも,このような理解を前提にしているようです.そして,論文の後半で,この二つの要素の関係についてダルモッタラが考えるところ(ダルモッタラによるadhyavasayaの解釈)を論じています.(この後半の問題については別の機会に論じます.)

また,ジャヤンタによるダルモッタラ理解について,石田氏は,どのように説明するのでしょうか?

ジャヤンタは,認識内形象説に対峙するものとして,それを批判するものとして,ダルモッタラの虚構説を提示しています.

このジャヤンタによるダルモッタラ理解を,石田説は,どのように説明するのでしょうか?

石田氏による独自のダルモッタラ理解は,原文理解,思想史理解,思想理解において,多くの問題を孕んだままです.

石田尚敬
「ダルモーッタラによる分別知の考察」
印度学仏教学研究62-2, 2014/3, 988(77)--984(81)

なお,石田氏は,2013年の12月のインド思想史学会でも関連する発表をなされています.

それについての筆者のコメントは以下にあります.

http://kaula.blog110.fc2.com/blog-entry-1475.html

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  1. 2014/04/10(木) 08:04:42|
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