Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

「牛はガバヤに似ている」と「ガバヤは牛に似ている」の違い

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TSPを読んでいると,upamanaの定義と例に,カマラシーラが言及.

ここは,「ガバヤは牛みたいだ」と「牛はガバヤみたいだ」がミーマーンサーにおいて区別される,ということを知らないと,たぶん,合点がいかないでしょう.

詳しくは拙稿1999に論じています.http://www2.lit.kyushu-u.ac.jp/~kkataoka/Kataoka/Kataoka_1999b.pdf

要するにこういうことです.

まず,upamanaの状況とは以下のようなもの.

1.街の人Aが森の人Bから「ガバヤは牛に似ている」と聞く.これは証言知.

2.街の人が森に行って,牛に似たものを目撃する.これは直接知覚.「これ(ガバヤ)は牛に似ている」という内容が知覚の中身.

3.その直後にAは「(家にいるあの)牛はガバヤに似ているな~」と理解する.これがupamanaの中身.これは,証言知でもないし,知覚でもない.upamana独自の内容である.

以上です.

ここでは,牛とガバヤの類似性といっても,双方向的に考えられているのではなく,方向が区別されます.

それは,ミーマーンサー特有の文の分析があるからです.

既知情報と未知情報を区別します.

「ガバヤは」という時,ガバヤが既知,「牛に似ている」というのが新規情報.

これが証言の内容.

いっぽう,「(あの)牛は」という時,牛が既知,「(この)ガバヤに似ている」というのが新規情報.

この新規情報は,知覚内容とも異なり,また,証言内容とも異なります.

したがって,これが,upamana独自の内容と考えられるわけです.

というか,ミーマーンサーの場合,upamana独自の内容を,無理矢理に考えだした,といったほうがいいでしょう.

実は,ニヤーヤでも似たようなものです.

ニヤーヤのupamana定義も,かなり無理矢理です.

「正しい認識の手段」などと大仰ぶって「正しい認識」を追求すると,世間の柔軟な知というのは死んでしまいます.

比喩というのも,そのようなものです.

つまり,厳密に「正しい」ということを追及すると,比喩などというのは,何にでも言えますから,「正しい認識の手段」として立てることなどできなくなるのです.

プラマーナ論の中で比喩は生きていけません.

しかし,比喩は四つの認識手段のひとつ,あるいは,六つの認識手段のひとつなどとして,既に「正しいもの」として認められていたものでした.

伝統を覆すわけにはいきません.

「正しい認識の手段」として比喩を無理矢理生きながらえさせるために,比喩の中身を変更することになります.

その結果,upamanaの中身は,本来の「比喩」からは程遠いものになってしまいました.

ミーマーンサーのナンセンスにたいしてニヤーヤは,「右手は左手に似ている」と「左手は右手に似ている」が区別されるなんて,という趣旨の批判を行っています.

この批判自体は,新旧を区別するというミーマーンサーの事情を無視したもので,日常文の使い方を考慮しない批判ですが,ミーマーンサーのupamanaにおける主張を一面でよく捉えたものといえるでしょう.

「牛はガバヤに似ている」と「ガバヤは牛に似ている」は違うのです.

これが,ミーマーンサーのupamanaを理解するための肝になります.

TSPの説明を理解するには,このような事情を知らないと,およそ,理解不可能でしょう.

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インド哲学へのアプローチにも,いろいろな取り組み方があるでしょう.

哲学,論理,思想などなど.

しかし,彼らが「哲学的・論理的に正しい事を言っている」という視点だけでは見逃す物は大きすぎます.

彼らは哲学的にナンセンスなことも述べます.

そこには,色々な事情が背景にあります.

その背景を解きほぐしていくこと,彼らの事情がいかなるものかを理解することは,文献を正しく理解するために欠かせません.

思想史研究というのは,そのようにして進んでいきます.

「(読み手である自分の思う)正しいこと」は,まずは措いておいて,ひとまず文献の著者に寄り添って,彼らの事情を理解するのに努めること,これが最初にあるべき作業です.

「哲学的に有意義なものをインド哲学から取りだす」という,意気に燃えた(そして少し青臭い)視点から,インド哲学文献を読む時,その「ざる」は,目が荒くて,多くをすくい上げないままに終わる可能性があります.

そして,現代の我々が気が付いてない(でも大事な)ことの多くは,むしろ,ざるが取りこぼした方にあるでしょう.

記号論理学でインド哲学文献を分析しようという試みも,インド論理学においては,一時,流行りました.

しかし,それほど成功しなかったようです.

記号論理のざるでは,すくいあげられないものが多くあるということでしょう.

同様のことは宗教文献にもあてはまります.

「宗教的真理(だけ)をインド哲学・インド仏教文献から取り出そう」という視点は,狭すぎます.

きっとその人は,自分が信じる宗教的真理を,膨大な文献のどこかに見出すことでしょう.

しかし,同時に,当時の多くの事情を見逃すことでしょう.

その中には,自分の知らないもっと大事なことが隠れているはずです.

七面倒くさい文献学・思想史研究がなぜ重要なのか,さっさと真理だけに迫ればいいではないか,という思いが起こるのは仕方ありません.

しかし,そのような態度を取らせているものは,私には,真理への情熱よりも一種の怠けのように思われます.

OkanoCurry098432343
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  1. 2014/04/18(金) 07:49:48|
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