Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

神の認識は対象と関係し得るか?

対象Aを常住な主宰神が認識するという場合,動的な関係を想定してきました.

つまり,

1.対象Aを認識aが捉えるという働き.(A←a)

2.あるいは,対象Aから認識aが生じる.(A→a)

3.あるいは,対象Aが認識aの中に現れ出るようなものとして生じてくる,そのような本性をもつものとして生じてくる.

以上の三つです.いずれにも問題がありました.動的な関係は主体の側の変化というものを必要とします.

3の場合,A→a, ~A→~aという肯定的随伴,否定的随伴が問題となりました.

そこで,もっと静的な関係,単なる関係を考えればいいのではないでしょうか.

つまり,「認識aの対象A」という時,この「の」という属格は,単なる静的な関係を表しているのであって,動的な働きを表しているわけではないと.

対象A ----(静的関係)----認識a

このように静的な関係があるときに「認識aによって対象Aが認識された」というように言うだけであって,実際には,そこには動的な働きというのは何も含まれていないのではないか.

ニヤーヤはこのように主張します.

これにたいして仏教側の答えはつぎのようなもの.

関係というのは,肯定的随伴・否定的随伴で定まるものです.

A→a
~A→~a

いま,認識aは常住である以上,「Aがないときにaがない」ということが言えません.

すなわち,否定的随伴を持ちえません.

したがって,aについて関係を言うことはできないのです.

「この対象Aはこの認識aの対象である」と言いたくても,この認識aが常住であれば,関係を確立することはできないのです.

というのも,それを言うためには「対象Aがないとき,認識aもない」という否定的随伴がなければ,関係は確立しえないからです.
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  1. 2014/04/19(土) 10:52:53|
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