Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

虚空は教示しないのか?

対象を神が認識する時,対象と神との関係は動的なものでも,静的なものでもありえませんでした.

対象にたいする働きかけや,対象に資する・役立つという働きを,常住なものは持ち得ないのです.

対象←(資する)---神

しかし,ニヤーヤは次のように答えます.

行為であれば,確かに,常住な主体は持ち得ないかもしれません.

しかし,見るという作用は,もっと静的なもので,常住な主体も持ちえるのではないか,と.

つまり,対象に資するというのは,単に,対象を眺める,という意味で,そこに,積極的な対象への働きかけがあるわけではありません.

「見る」というのは,きわめて静的な対象との関わり方だというのです.

彼がいる時,そこに,見るという静的な関係が成立する.

ここに,否定的随伴は必要ありません.

鏡があるとき,そこに,「鏡に写される」という静的な関係が成立するのと同じように,彼がそこにいれば,「彼が見る」という静的な関係が成立するのです.

以上に対して,仏教側は答えます.

そうだとすると,常住な神だけでなく,虚空についても「虚空が見る」ということが言えることになってしまいます.

神があるときにと同様,虚空があるときに,認識するという行為が成立しているからです.

否定的随伴がない以上,どっちが原因となっているのかが分かりません.

神---->認識
虚空---->認識

神がいるから認識が成立しているのか,虚空があるから認識が成立しているのか,いったいどっちなのか.

これにたいしてニヤーヤは答えます.

神が認識者であって,虚空ではない.

なぜならば,神が教示するからであって,虚空は教示しないからである.

これに仏教は答えます.

しかし,神が教示したとどうして分かるのかと.

というのも,いま,

原因  結果
神 ⇒ 教示

という因果関係がありますが,この因果関係というのは,肯定的随伴・否定的随伴に基づいてわかることです.


しかし,神がいない状況というのは考えられません.常住だからです.


したがって,原因は,神でも虚空でも,どっちでもいいことになります.どっちか分かりません.いずれも肯定的随伴を満たしているからです.

原因  結果
神 ⇒ 教示
虚空⇒ 教示


[Q] atha tena darśanād upayogaḥ.
[A] nanu tad evedaṃ paricoditaṃ "kathaṃ tena?" iti.
[Q] tasmin sati tathābhūtam [darśanam] iti "tena" ity ucyate.
[A] ākāśādiṣv api [satsu] tad [darśanam] iti kathaṃ sa eva draṣṭā?
[Q] ākāśasya tadarthanirdeśābhāvāt sa eva draṣṭā, nākāśādiḥ.

[A]
“nirdeśo vacanaṃ tasmād” etad eva kuto matam/
sarvathāvyatireke ca kāraṇatvaṃ na budhyate//228//

For the ambiguous, hidden referents,[satsu] and [darśanam], see Yamari's explanation referred to by Moriyama 2014:192, n. 16.

I would like to construe pada A as meaning: instruction-speech [arises] from Him.
スポンサーサイト
  1. 2014/04/19(土) 11:23:32|
  2. 未分類

プロフィール

Aghora

Author:Aghora

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する