Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

神は過去のものを認識するのか?

神の心には,過去や未来の対象が現れてくるのでしょうか?

しかし,神は常住です.

そして,全知全能です.

神は直接に対象を見ます.

すると,我々が目の前の壺を見るように,神は過去の事物を見ることができると考えられます.

すると,神にとって,2000年前のものでも,1万年前のものでも,「いまそこにあるもの」としてのみ見えるはずです.

つまり,神の認識において,過去のものや未来のものはないことになります.

神の心には,ものは,つねに,いま現在のものとして現れてきます.

これにたいしてニヤーヤは,答えます.

いやいや,神は過去のものを「過去のもの」として認識する(229c:atītatvena vijñānam).

現在のものを「現在のもの」として認識する.

未来のものを「未来のもの」として認識する.

それゆえ,神の認識においても,三時の区別はあると.

つまり,過去のものは過去のものとして神の認識の上に現れてくる,というのです.

しかし,これはおかしいでしょう.

神に今現在認識されているならば,その対象Xは「過ぎ去ったもの」すなわち「過去のもの」ではありえません.いまそこにあるものvartamānaとなるはずです.

私の認識にXが現れてきているならば,そのXは,今現在,わたしの目の前にある「現在のもの」にほかなりません.

このことは,鏡の例からも分かります.

鏡に過去のものが映るでしょうか?

鏡に映るのは現在のものだけです.

鏡が現に今存在する時にのみ,そのような現れが可能となります.

鏡が現に今存在しない時には,そのような現れはありえません.

つまり,鏡が今現在あるのと同様,そこに映っている対象も,今現在あるものでしかありえません.

この鏡の例からも分かるように,鏡のような神の心に映るのは,現在のものだけです.

過去のものや未来のものが映ることはあり得ません.

なぜならば,いま現れてきている以上,それは,現在のものだからです.

これにたいしてニヤーヤは,鏡と違って神の心は常住だから,過去・現在・未来と三時にわたってあるので,それに対応して過去のものの現れ,現在のものの現れ,未来のものの現れ,という区分が考えられると言うかもしれません.

現在の対象A-----現在の鏡a

過去の対象A-----認識a
現在の対象B-----認識b
未来の対象C-----認識c

しかし,常住な神の認識には「(何かが)現れる」という結果がありえないことは既に述べたとおりです.

神が認識する,だけでなく,虚空が認識する,と言ってもいいことになるからです.

atītānāgato yo 'rthaḥ sa kathaṃ pratibhāsate/
*atītatvena vijñānam ity atītaṃ kathaṃ bhavet//229//
na ca darpaṇasaṃkrāntir atītādeḥ kathaṃcana/
pratibhāsas tathābhūto darpaṇe sati sambhavī//230//
pratibhāso na nityasya kāryam ity uditaṃ puraḥ/
ākāśāder api prāptaṃ tadarthagrahaṇaṃ na kim//231// (Moriyama 2014:108)

I prefer "atītatvena", as Moriyama accepts, to "atītatve na". See Moriyama 2014:192, n.19.
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  1. 2014/04/19(土) 12:45:01|
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