Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

神の教えは神が知覚した内容に基づくのか?

神は全知です.

神の認識(それは知覚認識でしょう)は,全てを捉えています.

全て
 ↑
知覚

そして,この知覚に基づいて神は教えを説きます.

合わせると,全てを知覚した後に,それに基づいて,全てを説くということになります.

全て=全て
↑   ↑
知覚⇒教示

しかし,このような図式は本当に正しいのでしょうか?

もし,知覚の直後に,それに基づいて教示があるならば,神の言葉は,神が見た所の全てを説いていることになるでしょう.

見たものを,その知覚に基づいて間髪おかずに,機械的に,神が報告しているならばです.

sarvārthadarśanāyātaḥ śabdaḥ sarvasya vācakaḥ/233ab
全対象の知覚に由来するならば,その言葉は全ての表示者である.

しかし,対象Xの発言は,必ず,対象Xの知覚の直後にあって,それに由来する,という法則は成り立っているのでしょうか?

そのような法則は成り立っていませんし,理解されていません.

tadanantarabhāvitvaṃ niyataṃ cen na gamyate//232cd//
[発言が]それ(知覚)の直後にあることが,必然的なものとして,知られていないならば.

私の発言は,適当に言ってる可能性がありますし,必ずしも,直前の知覚に基づいているわけではありません.

発言を引き起こしている原因は,いろいろ考えられます.

したがって,神が全知だからといって,神の発言の対象までもが同じく全てだとは言えないのです.

sarvārthadarśane tasya vacaso 'rthaḥ ka ucyate/232ab
彼が全ての対象を知覚する場合,彼の発言の対象は何だと言われるのか?




プラジュニャーカラの議論は少し入り組んでいますが,次のようになっていると思われます.

232ab: 神が全知の場合,彼の発言の対象は同じく全てと言えるのか?
232cd: 言えない.なぜならば,発言が必ず知覚に基づくという法則は理解されていないので.
233ab: もしそのような法則があれば,すなわち,発言が知覚由来ならば,発言の対象も全てだと言えるだろうが.

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  1. 2014/04/19(土) 19:35:33|
  2. 未分類

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