Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

訂正

注釈者の解釈に従う護山さんの訳通りに,次のような入れ替わりを想定したほうがよさそうです.

[Q] nanu jñeyānityatayā jñānam anityam iti kutaḥ?

[A]
a. jñeyarūpe vyāpāro vā pramāṇatvaṃ,
b. jñeyarūpād utpattiḥ,
c. tatsvabhāvatā
veti na pakṣāntarasambhavaḥ.

atra

1. vyāpṛtasyāvyāpṛtasya vā yadi na viśeṣaḥ, kathaṃ vyāpāretaravivekaḥ?

2. [Q] atha darpaṇasthānīyaṃ tat. yo ya evārthaḥ sannihitaḥ sa sa eva pratibhātīti cet.

3. [A] artha eva tarhi svasāmagrītas tathā bhavati, na jñātur vyāpāraḥ.

4.[Q] atha niścalonmiṣitalocano 'pi samāpatato 'rthān krameṇa paśyati. na kadācid aparāparavilakṣaṇavyāpārarūpatā paropalakṣyate, tathā tasyāpi.

5. [A] atrocyate---

vyāpāraś cakṣuṣas tatrāpy anvayavyatirekataḥ/
nānvayavyatirekitvaṃ sthāṇor nityasya vidyate//226//

6. tasmād artha evāyam evambhūtaḥ, nāsya grahaṇe vyāpāraḥ kaścid iti kathaṃ pramāṇam?

まずここで定説側は三つのpramanatvaの可能性を示していますが,反論者側に帰せられるのは,注釈者がいうように,aだけのようです.つまり,対象への働きかけを認識手段性と解釈しています.後の二つは,ここでは関係なし.

常住な認識は鏡のように,変化することなく,近くに在るものを映しだします.

対象←(働き)---常住な認識
対象←(映す)---変化しない鏡

しかし,ここで,「現れる」というのは,対象側の働きであって,主体側の働きではありません.

対象が現れてくるのです.

そのことを述べて「対象だけが自らの原因総体からそのようなものとなるのであって,認識主体の働きではない」とあります.

神が「見ている」のではなくて,単に,対象が現れてきているだけだ,ということです.

これにたいして,反論者が,主体側の働きの変化がなくとも,継起的に対象を次々と見る事例が挙げられます.

これにたいして定説が,anvayaとvyatirekaで答えるという構造です.

内容理解に関しては,護山 2010が日本語で読めます.

「プラジュニャーカラグプタによる主宰神の全知者批判」
人文科学論集,人間情報学科編 44:21-36 (2010)
信州大学

http://hdl.handle.net/10091/10040
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  1. 2014/04/20(日) 09:14:17|
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