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Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

仏陀,嘘つかない

Moriyama 2014:15:

In this regard, Krasser (2001: 186) has pointed out that "nowhere in the Pramanasiddhi chapter is the Buddha explicitly said to be avisamvadin," and concludes that only the second characteristic is applicable to the Buddha. True, it is not explicitly stated that the Buddha is avisamvadin, and yet example [13] should not be overlooked, in which Dharmakirti describes the Buddha as a person who does not lie. The text of PV II 145--146a and the translation by Franco are as follows:

...........[quote of PV II 145 and tr. by Franco 1997]......

Here, the term anrta is translated as "untruth," but as Franco indicates in the subsequent square brackets, the term can also mean "lie." Thus, if we can equate anrtavacana with visamvada, the basic structure of the verse becomes clearer: The Buddha is pramana, because he ie endowed with the characteristic of pramanas, no-belying, which is equal to the proprty of his fourth epithet, the "protector" (tayin), in the sense of his revealing the path that he had experienced.



護山さんのポイントは次のようになるでしょう.

0(前提).pramanaには二つの定義的特質がある.non-belying (avisamvaditva)とilluminating non-apprehended objects (ajnatarthaprakasatva).

1(先行研究の理解).クラッサーによれば,PV IIにおいて,仏陀をavisamvadin(プラマーナの第一定義)とは形容しない.第二定義のみが仏陀に適用される.

2(護山さんによる反論). 確かに明言はされてないが,PV II 145の用例は見逃せない.そこでは,仏陀が嘘つかない人と形容されている.

3. PV II 145によれば,仏陀はanrta(非真実・嘘)を言わない.

4. ここでの「嘘を言うこと」anrtavacanaを,我々は,visamvadaと等価視できる.

しかし,本当に,護山さんの言うように,PV II 145における「仏陀は嘘つかない」と,ダルマキールティ自身の第一定義であるavisamvaditvaとを単純に結びつけて,同一視して考えてよいのでしょうか?

そもそも,avisamvadinをnon-belyingと訳すことが,既に,この同一視を用意してしまっているのではないでしょうか?

まずはダルマキールティ自身の意図するところを探ってみましょう.


PV II 1abc:
pramāṇam avisaṃvādi jñānam arthakriyāsthitiḥ
avisaṃvādanaṃ



このダルマキールティ自身の説明によれば,

A.プラマーナは,avisamvadaという性質を持つ認識だ

B.avisamvadaとは,arthakriyasthitiのことだ

とあります.つまり,arthakriyasthitiという性質を持てば,それは,avisamvadinであり,そのような性質を満たした認識がプラマーナだ,ということになります.

artha-kriya-sthitiとは,目的を作ることが定まっていることですから,つまり,効果的作用を持つこと,という趣旨になります.

つまり,効果的作用の能力を持つような認識,「水があるよ」と教えてくれる認識が,実際に,水の効果をもたらしてくれるならば,そのような認識は正しい認識だ,ということになります.

あるいは,推論のように,実際には外界実在そのものを対象としていない,一対一対応ではなくても,最終的にはうまく行くような分別知も「うまくいく」という意味でプラマーナに含まれます.

つまり,ここでダルマキールティがavisamvadinと言っている趣旨は,「それに従うと首尾よく行くような認識」ということになります.

a. ダルマキールティ自身の説明によれば,avisamvadaとはarthakriyasthitiである.

b. 首尾よく結果をもたらしてくれるような認識の性質がavisamvaditvaである.



ということで,ダルマキールティ自身の説明によれば,avisamvadaは,「(所期の目的を最終的にもたらしてくれる点で)期待を裏切らない」という意味になります.

そういう意味で,non-belyingという訳語はあてはまるわけです.

いっぽう,ダルマキールティの言うanrtaはどういう意味で用いているのでしょうか.

こちらは,まさしく,「嘘つかない」という場合の「嘘」という意味で使われています.

つまり,だまそうという悪意やその動機がないし,そういうことは彼の行動からは考えられないから嘘つかない,という文脈です.

PV II 145で,ダルマキールティが「仏陀は嘘を付かない」の根拠を三つあげています.

1.仏陀は嘘付かない.彼にとって嘘つくことは無駄だから(vaiphalyaat).つまり嘘付く理由(動機)がないから.
2.慈悲深いから(dayaalutvaat),嘘付かない.
3.他人のために一所懸命頑張ってるから,嘘付かない.

ここでの「嘘」は,悪意に基づいた嘘です.つまり,動機の観点から言われている嘘のことです.

結果の観点から言われているわけではありません.

以上から分かるように,ダルマキールティは,anrtaを動機の観点から用いています.

いわゆる我々の考える「嘘」です.

一方のpramanaの定義に含まれるvisamvadaについては,結果の観点から用いています.

まとめると,次のようになります.

動機 ⇒ 嘘anrta =?= 期待を裏切るものvisamvadin ⇒ 効果的作用なし

ということで,anrtavacanaとvisamvadaとを,何の前提もなしに直結して,同一視するという護山さんの発想には少し問題があります.

もちろん,護山さんは,if we can equateというように,慎重に限定をつけています.

「もし同一視できるならば」というわけです.

しかし,単純に同一視はできないでしょう.

なぜならば,anrtavacanaのほうは「悪意に基づいてだまそうと嘘を付くこと」であるのにたいして,visamvadaのほうは「所期の結果をもたらさないこと,期待を裏切ること」(語源的に言うと「(Aの発言がBの発言と)食い違うこと」)だからです.

visamvadaをnon-belyingと訳してしまって,そこから考えると,lieが共通しているのでanrtavacana=「嘘付く」=visamvadaという等式がストレートに導けるかに見えます.

しかし,ダルマキールティ自身の意図・語義説明・文脈を考えると,単純にそのように結論することはできないと思います.

もしも「仏陀にしたがって行動すると首尾よく所期の目標を達成できた」というように,結果の観点からダルマキールティが仏陀を記述して,そのような仏陀をプラマーナと呼んでいたならば,その場合の仏陀の記述は,avisamvaditvaの内容を満たしているので,第一定義の観点から為されていると言えます.

つまり,もしもダルマキールティが,「仏陀はプラマーナである.仏陀のおかげでAさんが解脱という目標を達成したから」と言っているならば,このプラマーナは,第一定義の観点から用いられている,ということになります.仏陀の言っている内容Aが,実際の目標達成という内容Bと食い違わない,ということです.

しかし,そのような仏陀の形容は,クラッサーがそう考えたように,PV IIにはないのではないでしょうか?

少なくとも,13の用例は違うと言えます.

そこで言われているのは,嘘つく理由がない,動機がない,悪意がない,ということです.

あんな真面目で人のために一所懸命働いている人である仏陀が嘘つくなんて考えられない,ということです.

私自身は,ここでの記述を,anyathanupapattiと関連させて理解しています.詳細はKataoka 2011d.

http://www2.lit.kyushu-u.ac.jp/~kkataoka/Kataoka/Kataoka2011d.pdf

いかがでしょうか?

まとめ:ダルマキールティの言う「嘘」と「食い違い」とは同一視できない.「嘘」とは悪意に基づく嘘のことである.いっぽう「食い違い」とは,X(認識や仏陀)の教えがその通りには目標を達成してくれないこと,期待を裏切ること,である.悪意という根拠に基づく虚偽発言が「嘘」であり,結果として期待を裏切る虚偽発言が「食い違いを持つもの」である.ダルマキールティが「仏陀は嘘つかない」と言う時,それは,「仏陀の教えは実際の結果と食い違わない」というプラマーナの第一定義の観点からなされているわけではない.

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  1. 2014/05/11(日) 10:10:16|
  2. 未分類

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