Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

仏陀は人々の迷妄を世俗・勝義の二つのレヴェルで取り除く

Moriyama 2014:20, n. 21:

   na sarvo vyavahāreṇa prāmāṇyam avagacchati|
   pramāṇalakṣaṇaṃ tena parasparavirodhavat||219||
   pratyakṣādipramāṇena paraloko na gamyate|
   āgamād aparaḥ prāhety ato na vyavahārataḥ||220||
tasmāt,
   vyavahāraparāmarśāt śāstraṃ mohanivartanam|
   pūrvāparasyāsmaraṇaṃ śāstreṇānena vāryate||221||

"Not everyone understand [a cognition's] validity [just] from [one's] everyday activities. [Only] by this [everyday activity, however,] the characteristic of means of valid cognition is mutually contradictory. [Therefore, one needs religious treatises for ascertaining the pramanalaksana.] (219)
Other existences after death (paraloka) are not apprehended by [ordinary] means of valid cognition like perception. Thus, others claim that [such objects are known] from scripture (agama), but not from everyday activies. (220)
After such consideration of everyday activities, a religious treatise removes confusion [about pramanalaksana]. Buy this religious treatise, [one's] non-recollection (i.e., delusion) about past and future [existences] is [also] removed. (220)



護山さんは,まず,tenaを,「それ,すなわち,日常活動」と理解しています.しかし,普通に考えると「それゆえ,だから」ではないでしょうか.

219ab: 日常活動からプラマーナの定義を全人が理解することはない.
219cd: だから,プラマーナの定義は,相互に矛盾する.


これが普通の論理展開だと思われます.

日常活動→(219ab)→プラマーナ定義の理解の無→(219cd)→人々のプラマーナ定義の相互矛盾


という論理展開です.

護山さんの理解だと,

219ab: 日常活動からプラマーナの定義を全人が理解することはない.
219cd: しかしながら,この日常活動のせいで,プラマーナの定義は,相互に矛盾する.
補い:だから,プラマーナの定義を確立するのに教示が必要となる.


となります.つまり,日常活動というのが,頼りないもので,プラマーナの定義を十全に導かせるようなものでないので,プラマーナの定義が相互に矛盾している状況がある,という理解になります.

日常活動→(219ab)→プラマーナ定義の理解の無
日常活動→(219cd)→人々のプラマーナ定義の相互矛盾
--------------------------------------------
∴ プラマーナ定義に教示が必要


このように考えると,219abと219cdの役割分担が失われてしまいます.

つまり,同じようなことを繰り返し述べていることになってしまいます.

しかし,219cdは,護山さんの補いと同内容を述べていると考えるほうが自然です.

つまり,疑惑状況がある=疑惑を取り除く教示が必要

ということです.

219abと219cdは,vyavahaaraについて同じようなことを別の角度から述べているのではなくて,ステップを踏んだ論理展開であって,したがってtenaは「それゆえ」と考えるほうがいいと私は考えます.

細かいですが.

もうひとつ.シュローカの外にあるtasmaatの理解.

護山さんは,ここでのtasmaatを「それゆえ」ではなく「そのような」というように,vyavahaaraparaamar"saatにかけて理解していますが,そうでしょうか?

まずは,219と220の含意を明らかにしてみましょう.

219: 教示は,日常活動からは分からない〈世間的プラマーナの定義〉を教える.(A)
220: 教示は,日常活動からは分からない〈来世〉を教える.(B)


以上をAとBとしておきましょう.

護山さんの全体的な理解は次のようになると思われます.

221ab: A(日常プラマーナの定義の確立)のあとにB(宗教的事項の確立)に対応する事態(勝義レヴェルでの迷妄除去)がある.


221abにおける「日常活動の考察」は,文脈から,教示が世間的プラマーナについて検討すること,という文脈で捉えることができます.この点について,私と護山さんの理解に違いはありません.

仏陀は,日常活動をよくよく考察することで,世間的プラマーナの定義を示したということになります.

日常活動をよく考察する主語は「教示」と考えられます.

護山さんは,日常活動を考察すること(それを通じて世間的プラマーナの定義を示すこと)の後に,教示は,来世に関する迷妄を取り除く,と理解していることになります.

つまり,護山説のポイントは,「そのような(tasmaat)Aの後に,勝義レヴェルの迷妄の除去がある」ということになります.

すると,護山理解の全体は次のようになります.

219: Aがある.
220: Bがある.
そのような
221ab: Aの後に,勝義レヴェルの迷妄除去がある.
221cd: 勝義レヴェルの迷妄除去とは前世・来世の迷妄(前世・来世を憶えてないこと)を取り除くことである.


いっぽう,私の考えるように,tasmaatを接続詞として「だから」と取った場合はどうなるでしょうか.

219: Aがある.
220: Bがある.
それゆえ
221ab: 日常活動を検討する(≒Aする)ことで,世間レヴェルの迷妄除去がある.
221cd: 前世・来世についての無知を除く(≒Bする)ことで,勝義レヴェルの迷妄除去がある.


私の場合,221bのmohanivartanamは,世俗レヴェルのものであって,勝義レヴェルのものではない,と考えます.

いっぽう護山理解では,221bのmohanivartanamを勝義レヴェルのものと考えていました.

しかし,ここでプラジュニャーカラが示したいことの趣旨は,ダルマキールティが言う「迷妄の除去」には二つのタイプがあるということです.

世間的なレヴェルのものと,勝義的なレヴェルのものとです.

A.世間的レヴェルの迷妄を取り除く=知覚・推論の定義を示す
B.勝義的レヴェルの迷妄を取り除く=来世を示す


とすると,構成としては,yathaasa.mkhyamで,221abと221cdのそれぞれが,AとBに対応する示していると考えた方がきれいです.

つまり,221abは,全体として,Aについて語っているのであって,A→Bということを示しているわけではない,ということです.

私の理解によれば,次のようになります.

219: 世間的プラマーナについての迷妄がある.仏陀は世間的プラマーナの定義を示した.
220: 来世についての迷妄がある.仏陀は来世を示した.
それゆえ,
221ab: 日常活動を検討することで,仏陀は,世間レヴェルの迷妄を取り除く.
221cd: 前世・来世について我々が覚えてないという無知を取り除くことで,仏陀は勝義レヴェルの迷妄を取り除く.


こんな風に理解したほうが,きれいでしょう.

そもそも,vyavahaaraparaamar"saatというアブラティブを,pa"scaatもないのに「後に」(after)と理解するのは無理があります.

世俗レヴェルの話の後に勝義レヴェルの話がある,あるいは,前者に基づいて後者があるというのは事実としてはそうですが,ここでは,そこに強調点があるのではなく,あくまでも,迷妄除去に世俗と勝義の二つがあるということが言えれば十分です.

護山説だと,世俗と勝義との記述バランスが悪くなってしまいます(221a, 221bcd).

また,なぜ「そのような」という代名詞をわざわざ221の前に挿入する必要があるのか,説明がつきません.

いかがでしょうか.

まとめ:
1.tenaはvyavahaaraではなく,219abの全体を指して「それゆえ」を指す.
2.tasmaatはvyavahaaraparaamar"saatに係るのではなく,「それゆえ」を指す.ここでの「それゆえ」とは,219(A)と220(B)の二つの状況を指す.
3.vyavahaaraparaamar"saatのアブラティブは「後で」ではなく「に基づいて,することで」を意味する.
4.221bのmohanivartanamは,勝義レヴェルの迷妄除去ではなく,世俗レヴェルの迷妄除去についてのものである.
5.このように考えることで,219→221abが世俗,220→221cdが勝義で,その間の接続詞が「それゆえ」というように,体系的に理解することができる.

Dameya 006
スポンサーサイト
  1. 2014/05/11(日) 15:06:08|
  2. 未分類

プロフィール

Aghora

Author:Aghora

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する