Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

アポーハ論ワークショップを終えて

龍谷大学大宮キャンパスで行われた桂先生主催のワークショップ。

アポーハ論がテーマでした。

発表が二名。片岡と吉水先生。

それにたいするコメントが二名。文法学の小川先生と分析の八木沢先生。

小川先生は、コメントではなく、文法学、特に、バルトリハリから見たアポーハ論、という「発表」に内容を変更。

1.片岡の発表

2008年からアポーハ論について、あれこれと発表をし、論文を書いていますが、今回は、そこで分かってきたことの総括のようなもの。

アポーハ論の歴史的発展について、ジャヤンタの『ニヤーヤマンジャリー』を主たる資料として、これまでの研究で分かってきたことをまとめました。

ジャヤンタの視点は、

1.ディグナーガ
2.ダルマキールティ
3.ダルモッタラ

という発展があること。

そして、それらに、

1.外
2.内
3.非外非内

という理論的差異を見ていることです。

これ自体は、これまでの研究でも言われていることです。

しかし、この含意を詰めると、いろいろな問題が見えてきます。

まず、2と3は、思想的に別物だ、ということです。

このことは、フラウワルナーの見方と矛盾します。

つまり、3のダルモッタラの見方が2と異なる(ものとしてジャヤンタが見ている)ということは、そこに、明確な思想的差異があるということであり、それは、これまでの研究、特に、フラウワルナー、および、赤松先生の見方と、一部矛盾するところがあるということです。

その先行研究との矛盾点、それにたいする片岡の修正提案。

結局、ダルモッタラの思想とは何なのか。

彼の鍵概念であるaaropitaとは、いったい何なのか?

それを「付託されたもの」superimposedと理解して良いのか?

それについて、片岡のこれまでの意見を集約して述べさせてもらいました。

ディグナーガについては、桂先生のこれまでの研究に基づきながらも、さらに、語意関係習得という視点から見たディグナーガのアポーハ論について、理論的に考察を突き詰めてみました。

煙から火を推論するように、「牛」という語から牛を推論する(理解する)、というディグナーガの基本的構想について、その含意を、詰めるところまで詰めた、ということです。

八木沢先生によれば、(純粋に思想的に見て)自然法則として確固としてある煙と火の関係と、はたして、言葉と意味との関係を同一に考えることはできるのか、その点に問題がある、とのことでした。(これは、私に対して、というよりは、ディグナーガの思想にたいする反論となるでしょう。)

小川先生の発表を聞く限り、ディグナーガは、言葉と意味の関係は、社会的に定まったものとして、一定的なものとして、いわば、所与のものとして考えていた、ということですから、自然法則と類比的に考えることに、彼は問題を感じていなかったでしょう。「世間に従う」というのが彼の、(そして、その背景にある文法学派的な)発想でしょう。

ダルモッタラのアポーハ論の先行研究としては、フラウワルナーと赤松先生のものが代表的。

その中で、今回は、特に、赤松先生の理解について取り上げ、aaropitaの解釈を問題としました。

会場には、多忙の赤松先生も出席してくださり、コメントをいただきました。

桂先生からは、アポーハ論と形象論、とくに、形象真実と形象虚偽の問題とをつながえて考えるという私の提案には賛成とのコメントをいただきました。

2.吉水先生

JIPとシリーズ大乗仏教にアポーハ論、特に、ディグナーガのアポーハ論について、オリジナルな見解を提示されている吉水先生。

今回は、特に、その資料的裏付けとなるものを提示。

片岡が既に印仏研で二本の批判論文を書いていますが、それにたいする反論ともなっています。

a. ひとつは、「角を持つから、馬ではない」というディグナーガの言明をどう解釈するか、という問題です。

最初の論文で吉水先生は、それを、「牛」という語に関わる問題としてとらえました。

それにたいして片岡は、印仏論文で、語に関わるものではなく、あくまでも、証因の問題として捉え直しました。

それに対して今回の発表で、吉水先生は、原文に即した自身の解釈を示された、という構造になっています。

b. 次の問題が、

aatmaantaraabhaavadar"sanaac ca aatmaantare pratyaya.h

などというディグナーガの一連の議論を、どのように解釈するか、という問題。

吉水先生の理解では、これも、「記述の束」として、つまり、喉垂肉や角など、牛の特徴に関わる言明として解釈することになります。

片岡では、これは、あくまでも「非牛の排除」について述べたものであって、喉垂肉などが関わることはありません。

今回の発表で、吉水先生は、これを、いかにして、「記述の束」の解釈から読み解けるかを示しました。

c. さらに、固有名についてのディグナーガの議論。

これも、吉水先生によれば、語の発動原因が諸特徴(諸部分)であることの証左となるとのこと。

これについては、片岡印仏研論文ではとりあげていません。

以上、いずれの吉水先生の理解も、私の理解とは相容れないものです。

3.次に、小川先生からのコメントあらため、小川先生の発表。

結果的には、コメントとなるような内容であり、文法学の視点から、貴重な資料を様々、提供していただきました。

片岡の研究視座は、ディグナーガ以降、特に、クマーリラやジャヤンタといった後代の、しかも、仏教の外の視点から、アポーハ論を見直そうというもの。

いっぽう、小川先生の研究視座は、ディグナーガのアポーハ論へとつながる文法学的背景を明らかにしようというもの。

すなわち、アポーハ論の生成を明らかにするということ。

というわけで、小川先生の視点と片岡の視点は相補的だと思いました。

バルトリハリ(小川先生)とクマーリラ(片岡)でディグナーガをサンドイッチすることで、ディグナーガの位相がより明瞭に見えてきます。

背景(バルトリハリなど)→ディグナーガのアポーハ論←クマーリラのアポーハ批判

その中で、小川先生は、adar"sanamaatraについて、文法学の視点から新たな解釈を提案。

非常に貴重な提案でした。

4.八木沢先生。

吉水先生のディグナーガ理解では、ラッセルの「記述の束」や、そのほか、クワインなども引用されており、分析とも関わる話題が多かったので、八木沢先生は、まずそこから。

普遍の実在を拒否するアポーハ論の根本的な立場と、記述の束の理論とは、相容れないのではないか、というのが八木沢先生の理解。

そのほか、「ガヴァガイ」のもとの文脈について。

さらに、ヒラリーパトナムについても。

また、特に、可能世界ということについて。

アポーハ論の一つの現代的捉え直しの視点としては、シャノンの情報の理論が有効ではないか、ということでした。

これは、桂先生も初耳だったようです。

実際、シャノンの情報の理論を読むと、まさに、排除の量が情報量として考えられていますから、アポーハ論の基本的精神に合致します。

片岡にたいしては、ジョンロックあたりと認識内形象論が似てる、とのこと。

5.最後に集団討議。

フロアーからの意見も。

赤松先生、石田さん、護山さん、などから意見が出ました。

護山さんからは、二重否定の問題について、質問が。

ディグナーガのアポーハ論に、二重否定があるのかないのか、ということです。

1:30にはじまり、6時に終了。

その後、結構な人数で懇親会。

赤松先生や松田先生と談笑。

京大からは、横地先生もいらっしゃっていました。

そのほか、広大からも多くの院生が。(そのほか、西洋哲学の人もちらほら。)

マニアックなネタの割に、結構、ひろく人が集まったワークショップでした。

八木沢先生のコメントがクリアーだったので、みなさん非常に勉強になったようで、全体として好評でした。
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  1. 2014/08/06(水) 07:00:36|
  2. 未分類

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