Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

清弁と法称の前後関係

清弁→法称

というのが従来の見方。

これにたいして、sattva-anumanaへの言及などを証拠に、

法称→清弁

という前後関係(前→後)を主張するのがクラッサー博士の新見解。

フランコ博士は、これにたいして、証拠の弱さを指摘。

最大の問題は、清弁の言及するsattva-anumaanaが、法称の意図するsattva-anumaanaかどうか、ということでしょう。

わたしも形が似ているだけで全然中身は違うと、クラッサー博士には言ってきました。

今回のIABSでは、渡辺博士、フランコ博士の二人が、やはり、このsattva-anumaanaをダルマキールティのあのsattva-anumaanaと同一と考えることはできないという意見。

そして、クラッサー博士の最大論拠がここにあるので、この証拠の強度を見定めることは非常に重要です。




渡辺博士の議論は、さらに、議論の内容のクオリティーから見るもの。

清弁、法称、月称のサーンキヤ批判の内容から、前後関係を探ろうというものでした。

議論内容から、古い新しいが分かるという前提です。わたしも、この手法に賛成です。

絶対年代など、ほぼ無いに等しいインド哲学の年代論においては、やはり、相対年代が重要になります。

もちろん、直接の名前の言及や、テクスト引用があれば楽ですが、そんな楽であるはずもなく、どうしても、内容を比較して、前後関係を定めるという(ある意味で主観的な)やり方に頼らざるを得なくなります。

1.絶対年代
2.相対年代
 2.1.AによるBへの直接の言及、引用
 2.2.AとBの議論の中身の比較

上位の証拠があれば、それに超したことはありませんが、そううまく問屋がおろすわけもありません。

2.2をじっくりやる必要が、様々な著者の前後関係を調べるのに必要です。

その点で、渡辺博士の議論は非常に価値あるものでした。

もちろん、「議論の質」や「議論の内容・トピック」「論証方法」「批判方法」に関わる問題なので、2.1みたいに、結論が一目で分かる、というわけには行かないのは当然です。

つまり、「いつも他の可能性は開かれている」のは当然です。

しかし、100%確実じゃないからといって、「どちらがよりありえそうか」という見方を端から一蹴するのは、非建設的です。
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  1. 2014/08/22(金) 11:10:53|
  2. 未分類

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