Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

upalakṣaṇa

Śāstradīpikā 97.9-10:
na hy asatyām ākṛtau vyaktibhiḥ śabdasyāpauruṣeyaḥ saṃbandhaḥ sidhyati, tāsām anityatvāt, upalakṣaṇasyāpi nityasyābhāvād ākṛtyabhāve.

竹中 1978:38:
なぜなら,(i)形相が実在しなければ,語と諸個物とでは非人為的(apaurṣeya)な関係が成立しないからである。〔というのは〕それら(諸個物)は無常であるからである。〔また〕(ii)形相が実在しなければ,〔関係の恒常性を間接的に示すような〕恒常な徴標(upalakṣaṇa)はないからである。



片岡:
なぜなら,形相が存在しないなら,言葉が持つ,諸個物との間の非人為の関係は成立しないからである.というのも,それら(諸個物)は無常だからである.[諸個物を]指し示してくれる[単一の]ものも,常住なものは,形相が存在しないならば,無いからである.

ここで問題となるのは,upalakṣaṇaが何か,ということです.

ここで問題となっているのは,「牛」という言葉と関係を持ち得る単数・常住の何かです.

諸個物は無常であるが故に候補者たりえません.

そして,形相の実在を認めない場合には,他に何も候補者はない,ということを言いたいはずです.

すなわち,ここでのupalakṣaṇaは,「牛」という言葉がそのupalakṣaṇaを介して,全ての個物としての牛達を指し示す際の目印となるものであるはずです.(カラスがデーヴァダッタの家を指し示してくれる目印となるように.)

「牛」→upalakṣaṇa
        ↓
      諸個物

「常住なupalakṣaṇa」と言っていますから,常住・単一な普遍のような役割を果たしてくれる何か,を求めているわけです.

関係の恒常性を間接的に示すような徴標ではないでしょう.

関係の恒常性(saṃbandhanityatā)に対して,恒常な徴標(nityopalakṣaṇa),あるいは,徴標の恒常性(upalakṣaṇanityatā)が,間接的であれ,正しい理由となることはありません.

むしろ,それは,原因(kāraṇa)となるべきものです.

また,徴標=理由,というように理解する場合,「恒常な」という形容詞の役割が不明となります.

例えば火の徴標である煙は,恒常ではありませんが,立派に火を指し示す理由となります.

また,既に述べたように,upalakṣaṇaといえば,まず第一に,デーヴァダッタの家を指し示してくれるような目印としてのカラスを思い浮かべるのが当然なので,構造的に,恒常性を指し示す理由というのは,少し平行構造が違ってきます.

個物の上にある普遍のような常住な何かは,家の上を飛ぶカラスと同じ構造です.

いっぽう,恒常性の上に常住な徴標がある,という構造にはなっていません.

なお,竹中は,ここでも,また,論考末尾に付したテキストにおいても,apaurṣeyaとuを抜かしています.

正しくは,apauruṣeyaです.




『シャーストラディーピカー』和訳シリーズの次の論文,竹中 1979にupalakṣaṇaが再登場します.

竹中 1979:19-20:
〔語等が〕仮構された付随的性質にもとづくものであっても,根拠となる単一の〔第一義的〕性質(upalakṣaṇa)がなければ,〔それらは〕それ自身の本性(すなわち,対象表示機能)をもつことはできないからである。



原文は,aupādikānām api mūlopalakṣaṇam ekam antareṇātmalābhāvāvāt.

ここには,「単一の」という形容詞がついています.

つまり,何か,共通性となるもの,ということです.

その直前の文章(jātir vā bhavatūpādhir vā sarvathā tāvat sāmānyarūpam apekṣitavyam)からも明らかなように,それが,実在する普遍であれ,あるいは,何らかの付随的性質ウパーディであれ,いずれにせよ,何らかの一者たる共通性が必要となる,ということです.

その一者たる共通性のことをウパラクシャナと呼んでいるわけです.

なお,ここで,ātmalābhaに竹中 1979:20は脚注82を付して,この理解がJ. Sinhaに基づくことを説明しています.

しかし,ātmalābhaの第一義は,自体獲得であり,ようするに,存在するようになる,この世に生を受ける,生起する,ということです.

「自体を獲得することがないから」つまり「語は語として存在することすらなくなってしまうから」となります.

ここの文脈では,「語が語たりえない」ということですから,J. Sinhaの理解は,文脈に基づいた第二義としては正しいと言えます.
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  1. 2014/10/24(金) 00:03:58|
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