Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

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19世紀といえば、サンスクリットの世界は、もう、訳の分からないくらい凄い人たちが入り乱れていて、ごく少数を挙げるというわけにも行かないでしょうけど、その熱狂が落ち着いた20世紀の最後の四半世紀、さらに、21世紀となると、もうちょっと、分かりやすくなります。

「井の中の蛙」の私の視野でも、現代で「すごいサンスクリット学者」といえば、すぐに、カルドナ、シュミットハウゼン、サンダーソン、の三教授が挙げられます。

これに反対する人はいないでしょう。(もちろん、他にも凄い人は沢山います。あくまでも、私の直接に知っている範囲で、ということです。)

カルドナ教授は文法学。(カルドナ教授なしに現代のパーニニ文法学の研究を考えろ、というほうが無理です。)

シュミットハウゼン教授は仏教学。(唯識やりながら、シュミットハウゼン教授の大きな枠組みに対して何らかの態度を表明しないわけにはいかないでしょう。)

サンダーソン教授はシヴァ教。(サンダーソン教授以前と以後で、シヴァ教研究は、全く変わっています。)

いずれもその分野では知らぬ人がいない不動のセンターです。

(そして実際には、それ以外の分野でも凄いわけですが。)

この中では、サンダーソン教授が一番若いでしょう。

いまでは、泣く子も黙るサンダーソン教授ですが、若いときには、案外、評価されてなかったそうです。

が、そんなときにも、シュミットハウゼン教授からはちゃんと評価されていたそうです。

たしかに、1970ー80年代に、「シャイヴァ」と言われても、それを正当に評価できる土壌が整っていませんから、ある意味、当然です。

凄い人を理解できるのは、凄い人だけ、ということでしょう。

インドでついたパンディットと言えば、カルドナ先生は、インド文法学の大御所ラグナータ・シャルマー師、

サンダーソン先生は、カシミール・シャイヴァの最後のアーチャーリヤと言うべきラクシュマン・ジュー師。

(ついてもついてなくても、おそらく、変わらず凄かったとは思いますが。)

シュミットハウゼン先生は、インド的には、とくに師という人はいないと思われます。

仏教的には、独覚か声聞といったところでしょうか。(もちろん、ウィーンでのフラウワルナーという直接の師がいるわけですが。)

しかし、博論がミーマーンサーの、しかも、マンダナの『錯誤の分析』だということは重要でしょう。

インド色濃過ぎのセレクトです。

単なる唯識学者と思ったら大間違いです。

日本の唯識学者でマンダナ・ミシュラやシャーリカナータ・ミシュラの錯誤論を原文で読んだ人はどれだけいるのでしょうか?

ハンブルク大を訪問したとき、シュミットハウゼン教授についていた(信心深そうな)お坊さん留学生を沢山見かけましたが、まさか、シュミットハウゼン教授の博論が、外道の、しかも、ミーマーンサーの『錯誤の分析』だったとは、夢にも思ってなかったでしょう。

ましてや、マンダナの錯誤論と仏教の唯識理論がインドでは地続きであることを理解している人など、この濁世には、どれほどいるのでしょうか?

わたしがオックスフォードに遊学していた当時、サンダーソン教授は、まだ、ごく限られた数の論文しか公表していませんでした。

オックスフォードにいる人は、その凄さを知っていたのですが、会ったことのない人は「論文すくないからねー」というような評価でした。

しかし、いまでは、そんな人も、「論文でかすぎやろ」という逆の評価です。

なにしろ、一つの論文が、100頁、200頁、ほっとくと300頁とかになってしまう人です。

全体の締め切りが遅れるたびに、その間に追加が100頁増えている、というような凄まじさです。

これで、「論文書いてない」と文句言う人はいません。

つくづく人の評価というのは一面的だなと思います。

その人自身は変わってないのに、周りの評価はころころ変わるわけですから。
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  1. 2014/12/08(月) 22:10:26|
  2. 未分類

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