Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

テクスト解釈の問題に対する訳者の態度

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翻訳作業をしていると,いろいろと難しい問題が出てきます.

解釈上の困難が第一.

当然,先行研究がある場合には,その翻訳をチェックすることになります.

解釈上の困難という問題に対する翻訳者の態度には三種があるようです.

1.問題に気が付かない
2.問題に気が付いていたが,スルーしている
3.問題に気が付いて,取り組む(詳しく注で論じる)

1と2は,結果として,表面上は同じです.

なぜ問題から逃げるのでしょうか?

翻訳というのは,まさに,こういう解釈上の問題を解決するために取り組むものです.

それによって,後に続く人の道しるべとなるべきものです.

問題に気が付いていたのに,それから逃げて,とりあえず翻訳しました,というような先行研究には辟易します.

そして,そんな研究は,当然ですが,多いのです.

人間,大変なことからは逃げるものです.

問題に取り組むと,ぼろが出ます.

誰もそんな格好悪いことはしたくありません.

しかし,それでは,何のための翻訳なのでしょうか.

誠実さというのは,翻訳においても,重要な徳です.

まとまった量のテクストを翻訳すれば,当然,いろいろな問題が出てきます.

訳していておかしいところが出てきます.

それは,テクストクリティークの問題かもしれませんし,あるいは,テクストは正しいが,ひょっとしたら,句読点の違いかもしれません.あるいは,単に,解釈が至らないだけなのかもしれません.

面白いことに,問題というのは,誰にとっても問題です.

つまり,学部生にとっても院生にとってもポスドクにとっても先生にとっても,訳していて「何かおかしいな」と思うところ,引っかかる所は同じなのです.

学部生が「訳せない」と思うところは,案外,難しい問題を孕んでいたりするものです.

そこに大先生が悩む場合もあるのです.

能力の違いというのは,問題解決ができるかどうかにかかってきます.

テクストの易しい箇所は誰でも訳せます.

難しい所にこそ,研究者の真骨頂が発揮されます.

難しい所にこそ,そのテクストの真意を理解させる鍵があるかもしれません.

ミクロな理解がマクロへとつながるケースです.

私が祭式文献を習った永ノ尾先生は,テクスト講読においては,「こだわること」にこだわっていました.

そして,あれこれと関連する文献を持ってきていました.

ただ一つの問題を解決するためです.

研究は,このようにして,遅々として進むものだ,ということです.

そうして地道に積み重ねられて,それを記録として残してこそ,次の人に役立つものとなるのです.

紙幅の限られた媒体では詳細を割愛するのは仕方ありませんが,昨今は,雑誌も頁制限は昔ほどではないでしょう.

編集・印刷コストが下がっているからです.

また,手書きの時代と違って,脚注に情報をどんどん詰め込むことができます.

こだわりの跡を残すことが作業として遥かに容易になっています.

問題に真摯に取り組むこと,問題から逃げないこと,そこからさらに次の(より深い)問題が見えてくることになります.

問題が理解を成長させてくれると言っていいでしょう.

芋づる式に問題が明らかになっていく,そして,連鎖的に理解が進んでいくこともあります.

問題から逃げないことのメリットは大きく,問題から逃げることの逸失利益は大きいのです.

解釈上の問題がそこに在るのに見て見ぬふり――そういう研究は研究ではないでしょう.
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  1. 2015/01/16(金) 05:44:59|
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