Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

訳本で読めばいいでしょう主義

たまに,「訳で読めれば,それでいいんじゃないですか」という質問を受けます.

ヒンディー語なら一年で分かる所を,同じレヴェルに達するのに最低3年はかかるサンスクリット語のような面倒な古典言語を習得せずとも,訳本で内容だけ,ささっと追えれば,それでいいんじゃないか,という意見です.

つまり,

和訳→(サンスクリット)→内容

の途中のステップを,他人にアウトソーシングするわけです.

たしかに,ヨーガやバガヴァッドギーターを読みたいと思っても,そこには,サンスクリットの壁があります.

サンスクリットを読めなければ,当然,訳本に頼ることになります.

しかし,信頼できる訳本が少ない現状において,残念ながら,訳本から原典に迫ることはきわめて難しいと言わざるを得ません.

幸い,ヨーガやバガヴァッドギーターに関しては,例外的に,良質のメジャーな訳本が存在します.

しかし,それは,きわめて例外的です.

バガヴァッドギーターには多くの英訳や独訳が既にあり,またインド人の研究もあり,そして,その上に,和訳が成り立っています.

つまり,先行する諸訳の正解と間違いの蓄積の上に成り立っているわけです.

しかし,膨大なサンスクリット文献の大海においては,そのような蓄積がない著作がほとんどです.

もう少し,訳本の舞台裏を見てみましょう.

『マハーバーラタ』に組み込まれているバガヴァッドギーターの場合は,プーナの批判校訂テクストも存在します.

いっぽう,ヨーガスートラ注の場合,実際には,テクスト批判は,まだ現在進行形であり,決して確定しているわけではありません.

訳云々の前に,元のサンスクリット原典からして確定していないということを覚えておく必要があるでしょう.

現状はそんなものです.

そして,テクスト校訂の前には,実際には,写本蒐集という作業が必要になります.

つまり,良質の和訳を作ろうと思っても,ゼロから作る場合には,実際には,次の作業が必要になるのです.

0.写本蒐集
1.テクスト校訂
2.原典解釈・翻訳

まさか,写本蒐集まで必要になるとは,普通の人は思わないでしょう.

テクストなんて,そのままできあがっているものだ,というのが普通の感覚だからです.

しかし,考えてみれば分かるように,ヨーガスートラやバガヴァッドギーターは,1500年以上も前の文献です.

それらがそのままの形で伝承されてきたわけではありません.

そこには,必ず,テクスト・クリティーク(原典批判)という作業が必要になります.

写本を集め,そして,それらの異読を比較し,そして,オリジナルの読みを確定する必要が出てくるのです.

このような作業が膨大な時間を要することは言うまでもありません.

インドの図書館から写本を集める作業が気の遠くなるような作業であることは,おそらく,日本の優れた図書館サーヴィスに慣れた人には分からないでしょう.

窓口で頼めばちゃんと出てくるのであれば話は早いですが,実際にはそのようなものではありません.

ビザなど,インドの役所で苦労したことのある人なら,その苦労は理解してもらえるでしょう.

大学図書館にいっても写本の部署は別だったりします.

ようやく写本の部署にたどり着いた頃には,担当者は帰り支度.

翌朝,再訪することに.

翌朝行くと,今度は,書類の不備を指摘されます.

なんとか書類を揃えていっても,今度は,所長のサインが必要に.

しかし,所長はあいにくデリーに出張中.

2日後に,所長がデリーから戻ってきて,ようやく会うことでできても,とりあえず,その翌日に,ということに.

翌日会うと,今度は,ながながと世間話.

そして,なんとかかんとか所長のサインをもらって,担当者のもとに戻ると,次は,会計課に金を払いに行かねばなりません.

この会計課があるのが,キャンパスの逆側だったりで,またまた,歩いて,てくてくと行きます.

なんとか午後の終了間際までに会計係に規定の料金を払い追えます.

書類にはんこを押してもらって,それを写本担当者に渡します.

これでようやくスタート.

そこから,写本担当者がコピー可能になるわけですが,その場でやってくれるわけではありません.

コピーするのに一週間かかると言います.

もちろん,印度滞在期間は,そんなに長く取れません.

来るのは翌年になります.

あるいは,一週間以内に働いてくれるような真面目な人だったりしても,あいにく,その日も翌日も,町中が停電だったりして,コピー機が使えません.

また,電気が来ていても,3台あるコピー機の2台までが故障中で,1台しか動いていないということがあり,しかも,その1台もトナーを注文中だったりします.

というわけで,結局間に合わず,一年後,また,取りに来ることになります.

もちろん,一年後に訪ねていっても,コピー担当者が作業を終えているわけではありません.

一日目に行くと,「あれ,コピーしたけど,ロッカーに仕舞ったままで,鍵を持っている人が今いないので」などと言い訳します.

つまり,これから急いでコピーするわけです.

事情を汲んで,「では翌日遅くに」ということで約束.

なんとか,翌日遅くにコピーをゲット.

というような顛末です.

これでも,一年後にゲットできればラッキーなほうです.

つまり,写本を集めようと思っても,コピーを実際に入手するまで,実に気の遠くなるような時間がかかるわけです.

そして,それは,テクスト校訂のほんのスタートに過ぎません.

集めた複数の写本を校合する作業というのは,実に、面倒です.

いちいち,全ての異読を拾って,すべてを校訂本の下段に記録していくわけですから,大変です.

20頁分をやるのに,一つの写本に,一週間はかかります.四つ写本があれば,一ヶ月はかかることになります.

ましてや,小さい小さい文字で刻まれている南インド写本ともなると,読み解くのに,倍の時間がかかります.

そうやって,ようやく校訂本ができあがります.

その校訂本をもとに,ようやく,テクスト解釈という作業が開始できることになります.

その上で,和訳が可能になるのです.

便利な出来合いの社会に慣れてしまうと,地道な物作りの背景を忘れてしまうのかもしれません.

何でもそうですが,全て作られたものには,背後に膨大な手間暇がかかっているのです.

それらの供給が豊富にあれば,それは問題ないですが,ご存じのように,インド学の場合,本邦にそのような供給源はわずかです.

つまり,自分でやるしかありません.

そして,実際には,インド仏教学のような分野でも事情は同じです.

自分でサンスクリットを読めなければ,何もできないのです.

龍樹菩薩の『中論』といえば,メジャー中のメジャーテクストです.

しかし,その和訳たるや,惨憺たるものです.

テクスト・クリティークも,ようやく最近,これまでの成果をまとめた最新のテクストが出たくらいです.

とてもとても,比較思想どころの話ではありません.

テクスト,そして,和訳からして,まだまだ怪しげな部分が残っていたのです.

『訳で読めば,原典読まなくても,いいでしょう』は,恵まれた一部の分野(メジャーな外国文学の一部)では,確かに正しいかもしれません.

しかし,インドの場合,自分の読みたいテクストに訳本を期待しても,今後100年経っても現状は変わらなかったりします.

写本蒐集に10年かかろうとも,自分で集めた方が早いでしょう.

そんなこんなで私の場合,写本を集め始めてから20年以上が経ってしまいました.

そして,あいかわらず,自分の読みたいテクストの批判校訂本も,まともな翻訳も出ていません.

自分で一からやるしかないのです.
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  1. 2015/02/03(火) 00:30:53|
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