Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

原語の情報量

原語が持つ情報というのは,実に,豊かです.

同義語であっても,語源が違う単語というのはあります.

しかし,それぞれの持つ語感は,当然,異なります.

訳語の場合,それらの情報が失われてしまうことが多々あります.

つまり,著者が思い描いていた世界が,訳語のフィルターを通すことで,その情報の一部がそぎ落とされてしまうのです.

いわば,CDになるときに,上と下の音域がカットされるのと同じです.

また,一部の細かいニュアンスレヴェルの情報はカットされます.

訳語というフィルターにより,濾過される部分は多いわけです.

そうして残った部分だけが見られることになります.

例えば,失われたサンスクリット原典のチベット語訳がそうです.

チベット語訳は,原語に忠実な翻訳スタイルが定着しているとはいえ,同じ訳語から想定される原語には複数が可能です.

その中で,そぎ落とされる情報も当然でてくるわけです.

著者が意図していた意味世界を,そのまま復元するというわけにはいかないのです.

ましてや,著者のほのめかしや伏線,特定の語彙選択に込めた思いなど,微妙な語彙選択がもたらす効果については,やはり,原語なくして感づくのは至難の業です.

チベット訳だけが残るテクストの場合,先行研究を見ると,やはり,隔靴掻痒の感が拭えません.

そんなチベット訳テクストに,まれに,後からサンスクリット原典が発見されることがあります.

白黒がカラーになるようなものです.

一気に情報量が増えます.

原語でテクストを読める幸福というのは,こういう時にひしひしと感じます.
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  1. 2015/02/03(火) 01:12:53|
  2. 未分類

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