Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

本来清浄

解脱を目指す宗教においては、空が本来澄んでいるように、心も本来澄んでいる、というのは、証明すべきような事柄ではなく、解脱が可能であるために必然的に要請される事柄のようです。

本来清浄、客塵煩悩という構造について疑いを差し挟む余地はないようです。

凡夫には、自分自身にもともと備わっている本性でないにもかかわらず、認識対象が生じてきます。

非本来的なものである認識対象が生じると、同じく、非本来的な認識、すなわち、錯誤も生じてくることになります。

心の迷乱です。

主客の二元は、本当には存在しないものであり、にもかかわらず誤って現れてきます。

parikalpitaとparatantraの構造。

abhuutaparikalpaです。

汚れは非本来的で、外からやってきたもので、もともと心にしっかりと根付いているものではありません。

それが滅すると、本来の汚れなき心が輝き出すというわけです。

顕教で無量劫かかる結果を、今生でさっさともたらしてくれる「速い」手段が密教です。

中でも、ヨーガタントラでは示唆するにとどまっていたsahajaanandaを明瞭に説いてくれているのが、ヨーギニータントラです。

「速い、美味い」の二拍子。(メソッドとして「安く」はなさそうですが、簡単ではあります。)

色々と有難いことを言ってますが、社会的な結果から無味乾燥に見れば、忙しい人でも、金さえ払えばさっさと解脱できるということです。

いますぐの結果を求める心性は今も昔も変わりません。(さすがに禅のように弾指の刹那で悟るというところまでいくと、インド的には行き過ぎた感があります。)

ちなみに、密教ならずとも、原始仏教においても、仏陀自身は「今生での解脱」ということを強調しているようです。

仏教史のダイナミズムも、或る視点から見るならば、偉大な解脱と身近な解脱、この往還でしょうか。

その時々の社会に合わせた解脱という商品のイメージ設定の微妙なさじ加減、という見方もできます。

にしても、ラトナーカラシャーンティの文章の明晰さには、ほれぼれします。

1000年前の碩学の文章がサンスクリットの原文で直接に味読できてラッキーです。

しかし、サルナートエディション、悪くはないのですが、肝心の所で間違っていたりします。

テクストも本来清浄なんでしょうけど、あまりにも取り除くべき非本来的なノイズ・汚れが多すぎます。

校訂作業が、今生でさっさと終わればいいんですが、こればっかりは時間がかかります。

ラトナーカラシャーンティの梵語原典がまとまって読めるようになるのは、まだまだ先でしょう。

まして、日本語でとなると、これまた、先の先でしょう。

和訳するとなると、まず、体系全体を理解しておく必要がありますが、発展の頂点にある後期仏教のラトナーカラの全体を捉えるのは、たやすくなさそうです。

しかも、同時代人のあれこれを批判的に意識して書いていますから、そういった背景も含めて理解するとなると、現在の後期密教・後期仏教の研究状況からすると、ますます、先の先となるでしょう。

いずれにせよ、顕教だけ、密教だけ、というような垣根を設けるのはナンセンスです。
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  1. 2015/02/20(金) 09:53:47|
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